ドイツ史
現在のドイツは、16の州からなる連邦国家です。教育や文化などでは州の権限が大きく、地域ごとの政治的なまとまりが今も制度の中に残っています。
こうした姿にも表れているように、ドイツの歴史では長いあいだ、地域ごとの領邦や諸侯が強い力を持ってきました。
中世の神聖ローマ帝国では、多くの諸侯や都市が独自の政治を行い、近世にはプロイセンやオーストリアなどの有力国が成長。19世紀になると「ドイツをどのような形で統一するのか」が大きな課題となり、1871年にプロイセン主導でドイツ帝国が成立しました。
その後のドイツでは、二度の世界大戦や帝政の崩壊を経験し、政治体制も大きく変化します。第二次世界大戦後には東西に分裂しましたが、冷戦が終結へ向かうなか、1990年に再統一されました。
そんなドイツ史の政治的な流れをたどった時に、出発点の一つになるのがフランク王国です。9世紀に王国が分裂すると、その東側に成立した東フランク王国が、のちの神聖ローマ帝国へとつながっていきました。
| 時代 | 大まかな流れ |
|---|---|
| 5~10世紀 | フランク王国の分裂を経て東フランク王国が成立し、オットー1世が勢力を拡大 |
| 10~13世紀 | 神聖ローマ帝国が成立し、皇帝はドイツ諸地域だけでなく北イタリアにも関与 |
| 13~16世紀 | 諸侯や都市の自立が進み、多数の領邦が並立する政治構造が形成される |
| 16~17世紀 | 宗教改革と三十年戦争を経て、領邦の政治的自立がさらに強まる |
| 17~18世紀 | プロイセンとオーストリアがドイツ語圏の二大勢力へ成長 |
| 19世紀前半 | 神聖ローマ帝国が消滅し、ドイツ連邦のもとで自由主義・ナショナリズムと統一運動が広がる |
| 19世紀後半 | プロイセンが統一を主導し、1871年にドイツ帝国が成立 |
| 20世紀前半 | 第一次世界大戦、ヴァイマル共和国、ナチス政権、第二次世界大戦を経験 |
| 1945年以降 | 東西ドイツに分裂し、冷戦を経て1990年に再統一 |
フランク王国の分裂と神聖ローマ帝国の成立(9~10世紀)
西ローマ帝国の滅亡後、西ヨーロッパでは各地に王国が成立しています。
一方、ほぼ同時期に、地中海ではイスラーム勢力が拡大、北方からはヴァイキング、東方からはマジャール人が進出するなど、各地で軍事的な緊張が続いていました。
こうしたなか、ローマ教皇は軍事力を持つフランク王国との結びつきを強めます。西ヨーロッパに勢力を広げたカール大帝は、800年に教皇レオ3世から皇帝として戴冠されました。
その後、843年のヴェルダン条約でフランク王国は大きく三つに分裂。このうち東フランク王国では、10世紀にザクセン家のオットー1世が勢力を拡大しています。
オットー1世は諸侯を抑え、外敵への対応やイタリア進出を進めたことで名声を高め、962年にローマ教皇から皇帝として戴冠されました。この政治的な枠組みが、のちに「神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになります。
フランク王国の支配が西ヨーロッパの広い範囲に及ぶ
フランク王国が分割され、東フランク王国などが成立
東フランク王国で諸侯による国王選出が進む
ザクセン家の国王として諸侯や教会勢力をまとめる
皇帝権とドイツ・イタリアを結ぶ政治的枠組みが形成される
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神聖ローマ帝国と領邦分立(10~15世紀)
皇帝にとって教会の権威や組織は、広い領域をまとめるうえで重要だった一方で、ローマ教皇にとっても、軍事力を持つ皇帝の保護は大きな意味を持ちました。
こうして皇帝と教皇は強く結びつきましたが、やがて「聖職者を任命する権限を誰が持つのか」などをめぐって対立するようになります。
皇帝と教皇の対立
中世ヨーロッパでは、皇帝とローマ教皇のどちらがキリスト教世界で強い権威を持つのかをめぐり、たびたび対立が起こりました。
11世紀には、司教などの聖職者を任命する権利をめぐって叙任権闘争が発生します。皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世の対立があらわになった1077年の「カノッサの屈辱」は、そんな叙任権闘争の一部が表面化した出来事です。
その後、1122年のヴォルムス協約によって叙任権をめぐる争いには一定の決着がつきましたが、皇帝と教皇の対立そのものが終わったわけではありませんでした。
そんな両勢力がぶつかりやすい位置にあったのが北イタリアです。
皇帝の影響が及ぶ地域と教皇領が接する場所に位置するうえに、経済力のある都市が多く、皇帝は支配を強めようとします。これに、教皇や自治を重んじる諸都市は対抗。特にミラノなどの都市では連携を強めてロンバルディア同盟を結成するまでになりました。
こうした北イタリアをめぐる争いが長く続いたことは、皇帝がドイツ国内の諸侯を強く統制することを難しくする一因となっています。
金印勅書と領邦分立
13世紀には皇帝位をめぐる争いが続き、とくに1256年から1273年までの「大空位時代」には皇帝権が大きく弱まりました。その間にも諸侯や都市は自らの支配を強めていきます。
1356年、皇帝カール4世は金印勅書を発布し、皇帝を選ぶ権利を持つ7人の選帝侯とその権限を明確にしました。神聖ローマ皇帝は原則として世襲ではなく、こうした有力諸侯による選挙で選ばれる仕組みでした。これによって皇帝選挙の仕組みが整理される一方、有力諸侯の政治的な地位も明確になります。
その後の神聖ローマ帝国では、多数の領邦がそれぞれ独自の政治や支配体制を発達させ、ドイツ地域ではさまざまな政治勢力が並び立つ状態が続きました。こうした領邦の存在は、16世紀に宗教改革が広がる際にも大きな意味を持つことになります。
司教などの聖職者を任命する権利をめぐり、皇帝と教皇が対立
皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世に破門解除を求めた出来事
叙任権をめぐる皇帝と教皇の対立に一定の決着がつく
皇帝権が弱まり、諸侯の自立がさらに進む
大空位時代が終わり、のちに皇帝位を長く担うハプスブルク家台頭のきっかけとなる
有力諸侯に「強すぎない候補」として推薦されたのがハプスブルク家のルドルフ1世でした
なお、当時のハプスブルク家は、現在のスイス北部から上ライン地方に勢力を持つ有力伯家でしたが、後世のような大勢力ではありませんでした。
皇帝選挙を担う7人の選帝侯が明確化され、有力諸侯の地位が制度上も強まる
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宗教改革と三十年戦争(16~17世紀)
中世を通じてローマ教皇は皇帝と権威を競い、大きな政治的影響力を持つようになりますが、その後は十字軍の失敗や教会内部の対立などを通じて教皇権の権威は揺らぎ、聖職者のあり方や教会の富への批判も強まっていきます。
さらにルネサンスを通じて人文主義が広がるなか、1517年にルターが「95か条の論題」を発表。宗教改革は神聖ローマ帝国各地へ広がり、スペイン王を兼ねて広大なハプスブルク領を支配していた皇帝カール5世と、諸侯の政治的な対立とも結びつきました。
カール5世の時代、ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝位を担う一方、スペインなどヨーロッパ各地に広大な領土を持っていました。
そのためフランスは、東西をハプスブルク家の勢力に挟まれる形となり、強く警戒します。その対抗策として、フランスはオスマン帝国とも協力関係を結びました。
1555年のアウクスブルクの宗教和議を経ても諸侯との対立は続き、1618年には三十年戦争が勃発します。1648年のウェストファリア条約で戦争が終結すると、諸侯の権限はさらに強まり、神聖ローマ帝国の領邦分立はいっそう定着しました。
宗教改革が始まり、帝国内の諸侯にも広がる
諸侯による領邦の宗派選択を認める。ただしカルヴァン派は対象外
宗教対立に諸侯間の争いや周辺諸国の利害が重なり、国際戦争へ拡大
カルヴァン派も公認され、諸侯の権限がさらに強まる
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プロイセンとオーストリアの台頭(17~18世紀)
三十年戦争後の神聖ローマ帝国では、各領邦の自立がさらに進みました。そのなかで大きな勢力を持ったのが、皇帝位を長く担ったハプスブルク家のオーストリアと、北東部で成長したブランデンブルク=プロイセンです。
ブランデンブルク=プロイセンでは、軍隊や行政制度を整えながら君主権を強め、1701年にはプロイセン王国が成立しました。18世紀にはフリードリヒ2世のもとでさらに勢力を拡大します。
一方のオーストリアも、ハプスブルク家の広大な領土を基盤にヨーロッパの大国としての地位を維持しました。両国はオーストリア継承戦争や七年戦争などで争い、しだいにドイツ語圏を代表する二大勢力となっていきます。
オスマン帝国軍を撃退。その後、ハプスブルク家はハンガリー方面へ勢力を拡大
スペイン=ハプスブルク家断絶によるスペイン王位をめぐる国際戦争で皇帝への軍事支援を約束し、プロイセンが王号を認められる
オーストリア=ハプスブルク家のマリア=テレジアの継承をめぐって列強が争い、プロイセンはシュレージエンを獲得
オーストリアはシュレージエン奪回を目指すが、プロイセンが保持。両国の対立が鮮明になる
神聖ローマ帝国内で両国の存在感が高まり、後のドイツ統一をめぐる対立の前提となる
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ナポレオン支配とドイツ統一運動(18世紀末~19世紀半ば)
18世紀末にフランスで起きたフランス革命は、自由や平等といった新しい考え方を広げ、ヨーロッパ各地の政治や社会に大きな影響を与えました。神聖ローマ帝国もその例外ではありません。
革命後の戦争から台頭したナポレオンはドイツ地域にも勢力を広げ、長く続いた神聖ローマ帝国は1806年に消滅しました。その後は複数の国家をどのようにまとめるのかが重要な課題となり、自由主義やナショナリズムの広がりとともに、ドイツ統一を求める動きへつながっていきます。
神聖ローマ帝国の消滅とドイツ連邦
ナポレオンはドイツ地域の諸邦を再編し、1806年にはフランスの影響下にあるライン同盟を成立させました。これを受けて皇帝フランツ2世は神聖ローマ皇帝位を退き、帝国は約850年の歴史を終えます。
ナポレオン支配のもとでは、小規模な領邦の統合や制度改革も進み、ドイツ地域の政治地図は大きく変化しました。
その後、ナポレオンが敗れると、1815年のウィーン会議でドイツ連邦が成立します。ただし、これは統一国家ではなく、オーストリアを盟主とする諸邦の連合体でした。
1848年革命とフランクフルト国民議会
19世紀前半には、自由主義やナショナリズムの広がりとともに、ドイツ統一を求める声も強まっていきます。
1848年にヨーロッパ各地で革命が起こると、フランクフルトに国民議会が開かれ、統一国家のあり方が議論されました。そこで大きな争点となったのが、オーストリアを含める大ドイツ主義と、オーストリアを除いてプロイセンを中心に統一する小ドイツ主義です。
最終的に国民議会は小ドイツ主義による統一を選び、プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世に皇帝位を提示しました。しかし国王は、国民議会から与えられる皇帝位を正統なものとは考えず、これを拒否。議会主導によるドイツ統一は実現しませんでした。
自由主義やナショナリズムなど新しい政治思想がヨーロッパ各地へ広がる契機となる
ナポレオンの影響下でドイツ諸邦が再編され、約850年続いた帝国が終わる
ウィーン会議でオーストリアを盟主とする諸邦の連合体が成立
プロイセンを中心に経済的な結びつきが強まり、後の統一の基盤となる
ドイツ統一と自由主義的な憲法を目指す動きが本格化。
ドイツ統一に関しては、大ドイツ主義・小ドイツ主義などが議論される
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世が皇帝位を拒み、統一構想は挫折
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ビスマルクとドイツ統一(1860年代~1871年)
議会主導による統一失敗後、ドイツの中心となったのが、経済力や軍事力を高めていたプロイセンです。
1862年に首相となったビスマルクは、軍制改革を進めるプロイセン王ヴィルヘルム1世を支えながら、外交と戦争を通じてドイツ諸邦の再編を進めました。
1864年のデンマーク戦争、1866年の普墺戦争を経てオーストリアはドイツ統一の枠組みから外れ、プロイセンを中心とする北ドイツ連邦が成立します。
さらに1870年に始まった普仏戦争をきっかけに南ドイツ諸国もプロイセン側に加わり、1871年にはヴィルヘルム1世を皇帝とするドイツ帝国が成立しました。こうして、1848年に実現しなかった小ドイツ主義による統一が、プロイセン主導で達成されます。
軍制改革をめぐる議会との対立のなかで首相となり、王権を支えながら統一政策を進める
プロイセンとオーストリアが協力してデンマークと戦い、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン問題をめぐる対立が次の普墺戦争につながる
プロイセンがオーストリアを破り、オーストリアはドイツ統一の枠組みから外れる
プロイセンを中心に北ドイツ諸邦がまとまり、小ドイツ主義による統一が大きく前進
フランスとの戦争を通じて南ドイツ諸国もプロイセン側に加わる
ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝となり、プロイセン主導の統一が完成
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ドイツ帝国と第一次世界大戦(1871~1918年)
1871年に成立したドイツ帝国は、プロイセンを中心としながら、バイエルンやザクセンなどの諸邦からなる連邦国家でした。
19世紀には関税同盟や鉄道網の発達を背景に工業化が進み、統一後は石炭・鉄鋼・化学工業などが急速に成長しました。ドイツ帝国は短期間でヨーロッパ有数の工業国へ発展していきます。同時に、労働問題への関心も高まり、社会主義運動が政治勢力として成長していきました。
こうした経済・社会の変化が進む一方、国内ではカトリック勢力や社会主義運動への対応が大きな政治課題となりました。また、統一後のドイツはヨーロッパ外交でも存在感を強め、19世紀末から20世紀初頭にかけて列強間の対立にも深く関わるようになります。
ビスマルク体制と国内統治
ドイツ帝国ではプロイセン王が皇帝を兼ね、宰相ビスマルクが政府を率いました。帝国議会には男子普通選挙が導入された一方、政府は議会だけに責任を負う仕組みではなく、皇帝や宰相が大きな権限を持っていました。
ビスマルクはカトリック教会の影響力を抑える文化闘争を進め、社会主義運動に対しては社会主義者鎮圧法を制定。その一方で疾病・労働災害・老齢などに備える社会保険制度を整え、労働者を国家に統合しようとしました。
ヴィルヘルム2世と世界政策
1890年にビスマルクが退陣すると、ヴィルヘルム2世のもとでドイツは海外植民地や国際的な影響力の拡大を目指す世界政策を進めました。
海軍の大規模な増強はイギリスとの対立を深め、ヨーロッパではドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアの三国同盟に対し、フランス・ロシア・イギリスの協力関係も形成されます。
こうした列強間の緊張が高まるなか、1914年に第一次世界大戦が始まりました。長期戦の末、大戦末期の1918年にはドイツ革命が起こり、皇帝ヴィルヘルム2世が退位。ドイツ帝国は崩壊し、共和国へ移行しました。
ビスマルクがカトリック教会の影響力を抑えようとし、中央党などと対立
社会主義運動を取り締まる一方、1880年代には社会保険制度の整備も進める
ヴィルヘルム2世との対立から退陣し、ドイツ外交は新たな方向へ進む
海外進出と海軍増強を進め、イギリスなど列強との緊張が高まる
ドイツはオーストリア=ハンガリーなどとともに戦い、長期戦によって国内の負担が増加
皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、ドイツ帝国が崩壊。共和国へ移行する
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ヴァイマル共和国とナチス政権(1918~1939年)
第一次世界大戦末期、帝政に代わって成立したのが議会制民主主義を採用したヴァイマル共和国です。
しかし、新しい共和国は敗戦後の混乱や賠償問題、政治的対立など多くの課題を抱えていました。1920年代半ばには経済や外交が一時的に安定しますが、1929年に始まった世界恐慌によって再び深刻な危機に直面します。
こうした状況のなかで支持を広げたのが、ヒトラー率いるナチ党でした。
ヴァイマル共和国の成立と危機
1919年に制定されたヴァイマル憲法では、普通選挙や基本的人権などが定められ、ドイツは議会制民主主義の国家となりました。
同じ1919年には、第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約が結ばれます。ドイツには領土の縮小や軍備制限、賠償義務などが課され、戦後政治の大きな問題となりました。
その後も左右両派による政治的対立が続き、1923年には賠償支払いの遅れを理由にフランス・ベルギーが工業地帯のルール地方を占領。同じころ、深刻なインフレーションも発生します。
その後は新通貨の導入などの通貨改革やアメリカ資本の流入などによって経済が持ち直し、1920年代半ばには比較的安定した時期を迎えました。しかし、1929年の世界恐慌で失業者が急増すると連立政治も行き詰まり、共和国への不満が募っていきます。
ナチス政権の成立
世界恐慌後の経済危機と政治的混乱のなかで、ナチ党は反共産主義や民族主義を掲げ、選挙で支持を拡大しました。1932年には国会で最大の政党となりますが、単独で過半数を獲得したわけではありませんでした。
1933年1月、ヒンデンブルク大統領はヒトラーを首相に任命します。その後、国会議事堂放火事件を利用した基本権の制限や全権委任法の成立によって、政府は議会の承認を必要とせずに法律を制定できるようになりました。
さらに他の政党や労働組合も解体され、ナチ党による一党独裁体制が築かれていきます。こうしてヴァイマル共和国の民主政治は終わり、ドイツはナチス政権のもとで再軍備と対外膨張を進めることになります。
帝政崩壊後、議会制民主主義を採用する共和国が成立
ドイツには領土縮小・軍備制限・賠償義務が課される
賠償問題を背景にフランス・ベルギーがルール地方を占領。深刻なインフレも発生
通貨改革やアメリカ資本の流入などによって経済と外交が比較的安定
失業が急増し、政治的対立も激化。ナチ党など急進勢力が支持を伸ばす
ヒトラーが首相に任命され、その後に議会政治を制限して独裁体制を築いていく
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第二次世界大戦とドイツの敗戦(1939~1945年)
ナチス政権はヴェルサイユ条約による軍備制限を破って再軍備を進め、1930年代後半にはラインラント進駐、オーストリア併合、チェコスロヴァキアへの進出など、対外膨張を強めました。
1939年、ドイツがポーランドへ侵攻すると、イギリスとフランスが宣戦し、第二次世界大戦が始まります。ドイツ軍は西ヨーロッパへ勢力を広げ、1941年にはソ連にも侵攻しました。
戦争が拡大し、ドイツの占領地域が広がるなか、ナチス政権はユダヤ人をはじめとする人々への迫害をさらに強めました。ユダヤ人を組織的に殺害したホロコーストでは、約600万人が犠牲になったとされています。
その後、ドイツはソ連や英米など連合国との戦争で次第に劣勢となり、1945年5月に無条件降伏しました。ナチス政権は崩壊し、ドイツは連合国によって分割占領されることになります。
ヴェルサイユ条約・ロカルノ条約で制限されていた地域へドイツ軍が進駐
ドイツがオーストリアを併合し、さらにチェコスロヴァキア方面への進出を強める
ドイツのポーランド侵攻を受け、イギリスとフランスがドイツに宣戦
ドイツがソ連へ侵攻し、戦争がさらに大規模化する
占領地域の拡大とともにユダヤ人への組織的な迫害・大量殺害が進められる
ナチス政権が崩壊し、ドイツはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連による分割占領へ
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東西ドイツと再統一(1945~1990年)
第二次世界大戦後、ドイツはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4か国によって分割占領されました。首都ベルリンも同じように4か国の管理下に置かれ、やがて冷戦の対立がドイツにも強く表れるようになります。
冷戦の対立が深まるなか、1949年、西側の占領地域にはドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地域にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立しました。西ドイツは西側諸国との結びつきを強める一方、東ドイツはソ連を中心とする東側陣営に組み込まれていきます。
東西間の移動を抑えるため、1961年にはベルリンの壁が築かれました。その後、西ドイツでは1970年代に、東ドイツや東ヨーロッパ諸国との関係改善を目指す東方外交が進められました。
1980年代末になると、東ヨーロッパ各地で社会主義体制が揺らぎ、1989年にはベルリンの壁が崩壊しました。そして翌1990年、東ドイツが西ドイツ側のドイツ連邦共和国に加わる形で、ドイツは再統一されました。
アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4か国がドイツを分割占領し、ベルリンも4区域に分けられる
西側にドイツ連邦共和国、ソ連占領地域にドイツ民主共和国が成立
東西間、とくに東ベルリンから西ベルリンへの移動を抑えるため壁が築かれる
西ドイツが東ドイツや東ヨーロッパ諸国との関係改善を進める
東ヨーロッパで社会主義体制が揺らぐなか、東西ベルリンの往来が自由化される
東ドイツがドイツ連邦共和国に加わる形で、東西ドイツが統一される
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└ わかりやすい東西冷戦の歴史背景と終結まで
└ ソビエト連邦の崩壊が及ぼした社会主義国家の民主化の動き
└ 冷戦開始からの国際政治の動向と第三世界の台頭
└ 近現代世界史