ナポレオンは革命後の混乱をどう収め、どのように皇帝になったのか
フランス革命は絶対王政や身分制を否定し、共和政を生み出しましたが、その後もフランスは混乱が続いていました。恐怖政治、テルミドール9日のクーデタ、総裁政府の混乱を経て、フランスでは強い指導者を求める空気が高まっていきます。その中で登場したのが軍人のナポレオン=ボナパルトです。
今回は、統領政府の成立からナポレオン法典、そして皇帝即位までの流れを見ながら、ナポレオンが革命後のフランスをどのように変えていったのかを見ていきます。
- フランス革命後から第一帝政成立までの年表
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1796〜97年
イタリア遠征ナポレオンが軍人として名声を高める
1798年エジプト遠征イギリスのインド方面への連絡路や交易上の利益を脅かそうとした
1798〜1802年第2回対仏大同盟フランスとヨーロッパ諸国との戦争が続く
1799年ナポレオンがエジプトから帰国遠征は行き詰まり、本国でも政治不安が高まる
1799年11月ブリュメール18日のクーデタ総裁政府が倒れ、統領政府が成立
1799年ナポレオンが第一統領となるフランス政治の中心人物となる
1802年アミアンの和約イギリスとの間に一時的な講和が成立
1802年ナポレオンが終身統領となる権力集中がさらに進む
1804年3月ナポレオン法典公布身分制社会の放棄を法律の形で確かなものにする
1804年12月ナポレオンが皇帝に即位フランスは第一帝政へ進む
総裁政府の混乱とナポレオンの登場
ナポレオンは、イタリア遠征(1796-97年)でオーストリア軍を破り、若くして大きな名声を得ました。革命後の混乱が続くフランスにとって、戦場で成果をあげるナポレオンは、国民の期待を集める存在になっていきます。
しかし、イタリア遠征で勝利を重ねても、海軍力で優位に立つイギリスを直接屈服させるのは困難でした。そこで、ナポレオン自身や総裁政府は、イギリス東インド会社が利害を持つインド方面への連絡路や交易上の利益を脅かそうとします。
当時のイギリスは植民地や海上交易で優位性を高めていた上に、産業革命も始まっているような状況でした。
19世紀ごろのパクス=ブリタニカのような圧倒的な覇権国家とまではいかなくても、他国に先んじるような存在感のある国になっていました。
こうして始まったエジプト遠征ですが、当初はフランス軍によるカイロ占領などがあったものの、イギリス海軍にフランス艦隊を破られたことで行き詰まりました。
さらに、本国フランスでは総裁政府への不満が高まり、戦争の情勢も悪化しているという知らせが届きます。ナポレオンは軍をエジプトに残したまま帰国し、不安定な政治状況の中で、総裁政府を倒すクーデタに加わっていきました。
本来であれば、軍を残して帰国したナポレオンはその責任を問われてもおかしくない状況でしたが、総裁政府への不満から強い指導者が必要だと考える人々も増えています。一方でイタリア遠征以降のナポレオンの名声はなお残ったままでいました。
こうした状況を背景に、ナポレオンは総裁政府を倒すクーデタに加わります。1799年11月、ブリュメール18日のクーデタによって総裁政府は倒され、新たに統領政府が成立。3人の統領が行政を担うことが定められた新憲法・1799年憲法が発布されました。
ナポレオンは、その3人の統領のうち最も大きな権限を持つ第一統領(第一コンスル)となり、革命の終了を宣言しています。
ここから、ナポレオンはフランス政治の中心人物となっていきました。
ナポレオン法典と革命後の社会秩序
ナポレオンが宣言した「革命の終了」はアンシャン=レジームへの回帰を意味するものではありません。
ナポレオンは、革命によって生まれた成果の中から残すべきものを制度や法律として整えようとしました。その代表が、1804年に公布されたナポレオン法典です。
ナポレオン法典では、
- 所有権の保障
- 家族の尊重
- 法の下の平等
- 契約の自由
などが定められました。
これにより、革命前のように身分によって権利が大きく異なる社会へ戻ることは否定されます。つまりナポレオン法典は、フランス革命によって進められた身分制社会の放棄を、法律の形で確かなものにしたのです。
また、ナポレオンは亡命していた人々の帰国を認め、前歴ではなく能力に基づいて軍人や官僚を登用しました。さらに、優れた功績をあげた人物を重用し、のちには爵位を与えるなど旧来の身分制とは異なる新しい支配層も作っていきます。
一方で、ナポレオンのもとでは政治的自由や民衆の政治参加は後退し、権力はナポレオン一人に集中していきました。国内では法典や能力主義によって秩序を整え、国外では対外戦争の勝利や講和によって名声を高めていったのです。
こうして権力をさらに強めたナポレオンのもとで、フランスは共和政から帝政へと進むことになります。
対外戦争とナポレオンの権力強化
ナポレオンの権力を支えたのは、国内改革だけではありませんでした。
フランスは、革命以来ヨーロッパ諸国との戦争を続けていました。第2回対仏大同盟との戦いの中で、ナポレオンはオーストリア軍を破り、フランスの優位を示していきます。さらに1802年には、イギリスとの間にアミアンの和約が結ばれ、一時的にヨーロッパには平和が訪れました。
こうした戦争や講和の成果は、ナポレオンの名声をさらに高めます。
国内では法典や能力主義によって秩序を整え、国外では戦争の勝利によってフランスを守る指導者としての地位を強めていったのです。
その結果、ナポレオンは1802年に終身統領となり、さらに1804年にはナポレオン1世として皇帝に即位します。こうしてフランスは、共和政から第一帝政へと進みました。
第一帝政の成立からナポレオン戦争へ
皇帝即位はナポレオンの歩みの終点ではありません。
むしろここから、ナポレオンはフランス国内の支配を固めるだけでなく、ヨーロッパ各地へさらに勢力を広げていくことになります。
ナポレオンの権力は、国内改革だけで支えられていたわけではありませんでした。対外戦争での勝利や講和によって名声を高め、フランスを守る強い指導者としての立場を固めていったのです。
そのため、第一帝政の成立後もヨーロッパの戦争は終わりませんでした。第3回対仏大同盟、トラファルガーの海戦、アウステルリッツの戦い、大陸封鎖令、ロシア遠征など、ナポレオンの支配はヨーロッパ全体を巻き込んでいきます。
今回の記事では、ナポレオンが総裁政府の混乱の中から登場し、第一統領、終身統領、そして皇帝へと進んでいく流れを見てきました。
次回は、皇帝となったナポレオンがヨーロッパ各地でどのように戦い、そしてどのように没落していったのかを見ていきます。





