フランス

フランス革命はなぜ王政を倒したのか?バスティーユ襲撃からルイ16世処刑へ

歴ブロ

フランス革命は財政危機による全国三部会の開催で表面化した社会の矛盾から始まりました。その後、国民議会が成立し、バスティーユ牢獄襲撃によって民衆運動へと広がっていきます。

今回は、バスティーユ牢獄襲撃によって革命が民衆へ広がり、身分制社会が大きく揺らぎ、やがてルイ16世の処刑へ至るまでの流れを見ていきます。

Q
フランス革命の大まかな年表
1789年5月
全国三部会の開催

財政危機を背景に、第一身分・第二身分・第三身分の代表が集められる

1789年6月
国民議会の成立

第三身分の代表たちが、自分たちこそ国民の代表だと主張する

1789年6月
球戯場の誓い

憲法ができるまで解散しないことを誓う

1789年7月11日
ネッケルの罷免 ←今回はここから!

改革派とみられたネッケルが国王により罷免された

1789年7月14日
バスティーユ牢獄襲撃

革命がパリ民衆を巻き込む大きな動きになる

1789年8月4日
封建的特権の廃止

貴族や聖職者の特権が見直され、身分制社会が大きく揺らぐ

1789年8月26日
人権宣言

自由・平等・国民主権・法の下の平等などが示される

1789年10月
ヴェルサイユ行進

国王一家がヴェルサイユからパリへ移される

1791年
ヴァレンヌ逃亡事件

ルイ16世への信頼が大きく崩れる

1791年
1791年憲法

立憲君主制が成立する

1792年4月
フランス革命戦争開始

フランスはオーストリアに宣戦

1792年9月
王政廃止・第一共和政成立

フランスは国王を持たない共和政へ進む

1793年1月
ルイ16世処刑 ←ここまでを解説!

革命は王政そのものを否定する段階へ進む

1793年
第一次対仏大同盟の本格化

国王の処刑を危険視した周辺王国による対仏陣営が拡大

1793〜94年
恐怖政治

ジャコバン派が反革命を厳しく取り締まる

1794年
テルミドール反動

ロベスピエールが失脚し、恐怖政治が終わる

1795年
総裁政府成立

革命後の政治安定を目指すが、不安定な状態が続く

1799年
ブリュメール18日のクーデタ

ナポレオンが台頭し、統領政府が成立する

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バスティーユ牢獄襲撃で革命は民衆へ広がった

三部会においてどれだけ議員数がいても不利な立場に置かれていた第三身分の議員たち。国民議会を成立させ「憲法の制定までは解散しない」と球戯場の誓いを立てていました。

その中で、第三身分や改革を求める人々から期待されていたのが財務長官のネッケルです。ネッケルは財政改革を進めようとし、特権身分への課税にも前向きな姿勢を見せていました。

ところが、ネッケルは球戯場の誓い後、ルイ16世により罷免されています。これには保守派や宮廷側の反発が背景にありました。第三身分の議員にとっては、国王に対する不信感がさらに募る出来事だったことでしょう。

一方で、こうした反発は政権の中心部だけにとどまりませんでした。

当時のパリは、前年度の天候不順や不作によるパン価格高騰に苦しむ人々にとって財政危機や国王の対応は遠い政治の話ではなかったためです。政治の動きが民衆の生活不安と強く結びついており、いつ火種が飛ぶかわからない状況にありました。

れきぶろ
れきぶろ

パリは、新聞やパンフレット、演説、噂、カフェや広場などを通じて政治的な情報がかなり広まりやすい環境になっていました。

そんな中で国王がパリやヴェルサイユ周辺に軍隊を集めると、改革を求める人々の間では「国民議会が力で押さえ込まれるのではないか」「自分たちも弾圧されるのではないか」という不安が広がっていきます。

政治不安と生活不安が重なった結果、国民議会を支持するパリの民衆は武器を求めて行動を起こします。

民衆はまず廃兵院で武器を手に入れましたが、武器を使うためには火薬や弾薬が必要でした。そこで、火薬が保管されていると見られていたバスティーユ牢獄が標的となっています。

バスティーユ牢獄襲撃
バスティーユ牢獄襲撃(1789年7月14日)/ジャン=ピエール・ウーエル作

ただし、バスティーユ牢獄が襲われた理由は、それだけではありません。

バスティーユ牢獄は、かつて王政に反対する政治犯などが収容された場所であり、国王の命令によって裁判なしに人々が閉じ込められる専制政治の象徴と見なされていました。

そのため、バスティーユ牢獄襲撃は火薬を求めた現実的な行動であると同時に、絶対王政への反発を示す象徴的な事件にもなりました。

封建的特権の廃止と人権宣言

バスティーユ牢獄襲撃の後、革命の動きは地方にも広がります。

農村では、農民たちが領主の館を襲い、年貢や領主権に関する文書を焼くような動きも起こります。長く続いてきた領主支配への不満が、一気に表面化したのです。

こうした状況を受けて、1789年8月4日、国民議会は封建的特権の廃止を決議しました。

これは、第一身分や第二身分が持っていた特権を見直し、身分制社会の根本を揺るがす大きな決定でした。アンシャン=レジームは、ここで大きく崩れていくことになります。

さらに1789年8月26日、国民議会は「人および市民の権利の宣言」、いわゆる人権宣言を採択しました。

人権宣言では

  • 人間は自由で平等な権利を持つこと
  • 主権は国民にあること
  • 法の下で平等であること
  • 所有権が保障されること

などが示されました。

この宣言には、ロックモンテスキュールソーなどに代表される啓蒙思想の影響も見られます。また、アメリカ独立革命の影響も大きかったといえるでしょう。

ただし、当時の政治参加にはまだ限界がありました。女性や財産の少ない人々が、平等に政治へ参加できたわけではありません。

人権宣言は近代社会の基本理念を示した重要な文書でしたが、現代的な民主主義の完成を意味するものではなかったのです。

ヴェルサイユ行進で国王がパリへ

人権宣言が出された後も、フランスの政治がすぐに安定したわけではありませんでした。

当時のパリでは、パン不足や価格高騰への不満が続いていました。それだけでなく封建制の廃止や人権宣言についてルイ16世から説明があるわけでもない。

――国王が革命の成果を本当に認めるのか――
――政府は民衆の苦しみに向き合っているのか――

そうした政治への不信感も、パリの人々の間で強まっていました。

そうした中、1789年10月、パリの女性たちを中心とする民衆がヴェルサイユ宮殿へ向かいます。これがヴェルサイユ行進です。ヴェルサイユ行進は単なる食料要求ではなく、政治的な意味も持つ行動だったのです。

ヴェルサイユ行進
ヴェルサイユ行進(1789年10月5~6日)

結果、ルイ16世と王妃マリ=アントワネットを含む国王一家は、ヴェルサイユからパリへ移されました。

これは大きな意味を持ちます。

それまで国王は、ヴェルサイユ宮殿という王権の中心にいました。しかし、パリへ移されたことで、国王は革命の中心地に置かれ、民衆や国民議会の圧力を受けやすい立場になります。国王が以前のように自由に政治を動かすことが難しくなった事件でした。

立憲君主制とヴァレンヌ逃亡事件

革命初期の国民議会は、国王をなくすのではなく、憲法で王権を制限する立憲君主制を目指していましたが、1791年6月のヴァレンヌ逃亡事件によってルイ16世への信頼は大きく崩れます。

ヴァレンヌ逃亡事件は、国王一家がパリを脱出し、オーストリア国境に近いモンメディ方面へ逃れようとして失敗した事件です。ルイ16世はヴァレンヌで発見され、パリへ連れ戻されました。

れきぶろ
れきぶろ

王妃マリー=アントワネットはオーストリアのハプスブルク家出身だったため、もともと「フランスよりもオーストリアを優先しているのではないか」と疑われることがありました。

ヴァレンヌ逃亡事件は、そうした不信感をさらに強める結果になります。

それでも同年9月、1791年憲法が制定され、フランスは立憲君主制へ進みました。

この事件によって、民衆や革命派の間で「国王は本当に革命を受け入れているのか」「外国勢力と結びついて革命をつぶそうとしているのではないか」という疑いがますます強まっていきました。

ヴァレンヌ逃亡事件は、国王と革命の共存を難しくした重要な事件だったといえます。

王政廃止と共和政の成立

フランス革命は、やがて国内問題だけでは済まなくなります。

革命の広がりを警戒したオーストリアとの関係は悪化し、1792年4月、フランスはオーストリアへ宣戦しました。これがフランス革命戦争の始まりです。まもなくプロイセンもオーストリア側に加わり、戦争は国内の政治対立をさらに激しくしていきました。

対外戦争は、国内の政治対立をさらに激しくします。戦争の中で、「国王は外国勢力と通じているのではないか」という疑いが強まり、ルイ16世への批判は決定的になっていきました。

1792年8月には、パリの民衆や義勇兵がテュイルリー宮殿を襲撃し、国王の権力は停止され、9月には王政が廃止。フランスでは第一共和政が成立します。

これは、フランス革命が国王の権力を制限する段階から、王政そのものを否定する段階へ進んだことを意味していました。

そして1793年1月、ルイ16世は処刑されます。

ルイ16世の処刑(1793年1月)/ゲオルク・ハインリヒ・ジーヴェキング作

国王の処刑は、フランス国内だけでなく、ヨーロッパ各国にも大きな衝撃を与えました。王を中心とする政治秩序が当然と考えられていた時代に、国王が裁判にかけられ、処刑されたからです。

この出来事によって、革命はさらに過激化し、国内外の対立も深まっていったのです。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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