北アメリカ

アメリカ独立革命はなぜ起きたのか?イギリス植民地から共和国が生まれるまで

歴ブロ

アメリカ独立革命は、本国イギリスに挑み、現在のアメリカ合衆国が生まれるきっかけとなった市民革命です。

この独立革命は、イギリスの13植民地への課税政策、積み重ねられた自治の経験や啓蒙思想などが複雑に絡み合って起こったものでした。

さらに、この独立革命はもう少し先に起こることとなるフランス革命にもつながる大きな流れを生み出しています。

れきぶろ
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世界史全体にも大きな影響を与えたフランス革命。その前段階として押さえておきたい出来事が、アメリカ独立革命でした。

今回は、アメリカ独立革命がなぜ起こり、どのようにアメリカ合衆国の成立へつながったのかを、世界史の流れに沿って見ていきます。

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アメリカ独立革命とは何か

アメリカ独立革命とは、18世紀後半に北米13植民地がイギリス本国の支配に反発し、独立を求めて進めた政治的・軍事的な動きのことです。

1775年に独立戦争が始まり、1776年には独立宣言が出されました。その後、1783年のパリ条約でイギリスがアメリカ合衆国の独立を認め、アメリカ合衆国は独立国家として歩みはじめます。

Q
アメリカ独立戦争とアメリカ独立革命の違い

なお『アメリカ独立戦争』は、1775年から1783年まで続いた、北米13植民地とイギリス本国との軍事的な戦いを指しています。

一方の『アメリカ独立革命』はそれより広い言葉です。イギリス本国への反発、独立宣言、独立戦争、そして新しい共和国であるアメリカ合衆国の成立までを含みます。

つまり、アメリカ独立戦争は、アメリカ独立革命の一部と考えるとわかりやすいでしょう。

北米13植民地とイギリス本国の関係

当時の北米東海岸には、イギリスの植民地として13の植民地が発展していました。

濃い赤(ピンク)が13植民地です(1775年)/Wikimedia Commonsより

これが、のちにアメリカ合衆国のもとになる北米13植民地です。

植民地の人々は、イギリス国王の支配下にありました。しかし一方で、海を隔てた場所にある各植民地には議会があり、一定の自治も認められていました。

北米13植民地の人々は完全に本国から命令されるだけの存在ではなく、自分たちの地域のことは自分たちで決めるという経験を積んでいたのです。

そのため、イギリス本国が植民地に対して一方的に税を課すようになると、植民地側は強く反発することになります。

なぜ植民地はイギリスに反発したのか

アメリカ独立革命の背景には、七年戦争がありました。

七年戦争は、18世紀半ばにヨーロッパや植民地を巻き込んで起こった大きな戦争です。北米では、イギリスとフランスが植民地支配をめぐって争いました。

れきぶろ
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なお英仏は七年戦争以前からヨーロッパや植民地を舞台に第二次百年戦争とも言われる戦争を繰り返していました。

七年戦争では北米以外にもインドをめぐって戦っています。

この戦争に勝利したのはイギリスでした。

イギリスは北米での支配を強めましたが、その一方で、戦争によって大きな財政負担を抱えることになり、イギリス本国は北米植民地にも戦費を負担させようとしました

代表的な政策には、砂糖法印紙法茶法などがあります。

特に印紙法では、新聞、契約書、証明書などに印紙を貼ることが求められました。これは植民地の人々にとって、日常生活や商業活動に直接関わる負担でした。

植民地側が強く反発したのは、単に「税金が重いから」だけではありません。問題は、植民地の人々がイギリス議会に代表を送っていないにもかかわらず、イギリス議会が一方的に税を決めていたことでした。

ここから「代表なくして課税なし」という言葉が生まれました。

これは、政治に参加する権利がないまま課税されるのは不当だ、という考え方を表しています。

つまり、アメリカ独立革命の争点は、税金そのものだけではなく「自分たちの権利を無視した政治」に対する反発だったのです。

ボストン茶会事件から独立戦争へ

ボストン茶会事件(ナサニエル・カリアー)

イギリスと植民地の対立を深めた事件の一つが、1773年のボストン茶会事件でした。

イギリスは、東インド会社の茶を植民地で売りやすくする茶法を定めると、植民地側はイギリス本国による支配強化と受け止めます。

そこで、ボストンで急進派の植民地人たちが、港に停泊していた船に積まれていた茶を海に投げ捨てたのです。

これに対してイギリス本国は、ボストン港を閉鎖するなど厳しい措置を取りました。植民地側の反発はさらに強まり、やがて武力衝突へと向かっていきます。

1775年、レキシントン・コンコードの戦い(ボストンの北西に位置する場所で発生)が起こり、アメリカ独立戦争が始まりました。

同年、植民地側はジョージ=ワシントンを大陸軍の総司令官に任命。ワシントンは、のちにアメリカ合衆国の初代大統領となる人物です。

また、1776年にはトマス=ペインが『コモン=センス』を発表しました。この小冊子は、イギリス国王の支配から離れ、独立すべきだという考えをわかりやすく訴えたもので、植民地側の独立論を広げるうえで大きな役割を果たしました。

なお、東インド会社については下の記事で軽く触れています。

独立宣言と啓蒙思想

独立戦争が始まった翌年の1776年、北米13植民地は独立宣言を発表します。この独立宣言の起草に大きく関わった人物が、トマス=ジェファソンでした。

独立宣言では、人間は平等に作られ、生命・自由・幸福追求の権利を持つという考え方が示されました。

ここには、ロックなどの啓蒙思想の影響が見られます。

啓蒙思想は、王や伝統的な権威にただ従うのではなく、人間の理性や自然権を重視しました。

つまり、政治は国王のためにあるのではなく、人々の権利を守るためにある、という考え方です。

この思想は、アメリカ独立革命だけでなく、のちのフランス革命にも大きな影響を与えることになります。

啓蒙思想の理念と当時の社会の矛盾

ただし、啓蒙思想の理念はすぐに現実社会で完全に実現されたわけではありません。当時の社会には矛盾点も残されていました。

独立宣言は自由や平等を掲げましたが、当時のアメリカ社会には奴隷制が残っていたうえに、先住民の土地や権利の問題もありました。

そのため、アメリカ独立革命を「民主主義の完全な実現」と単純に見ることはできません。

理念としての自由・平等と、現実の社会との間には、大きな矛盾も残されていたのです。

フランスの支援とアメリカの勝利

アメリカ独立戦争で重要だったのが、フランスの支援でした。

七年戦争以降、イギリスに対抗する機会をうかがっていたフランスは、アメリカ側を支援します。

このフランスの支援はアメリカ独立戦争の行方に大きな影響を与えており、1781年のヨークタウンの戦いでアメリカ・フランス連合軍がイギリス軍を破ったことで、戦争の流れは決定づけられました。

こうして1783年にはパリ条約が結ばれ、イギリスが独立を認めることに。北米13植民地は独立しアメリカ合衆国として歩み始めたのです。

アメリカ合衆国の成立

1787年には合衆国憲法が制定され、アメリカの政治体制が整えられていきます。

この憲法で人民主権を根幹とする共和政、各州の自治を認めつつ中央政府の権限を強化する連邦主義が採用されました。

さらに行政権は大統領を中心とする行政府が、立法権は上下二院制の連邦議会が、司法権は最高裁判所が行使する三権分立の原則が定められています

三権分立は、立法・行政・司法の権力を分けることで、一つの権力が強くなりすぎることを防ぐ考え方です。

これらの仕組みによって、アメリカはイギリスの植民地から、独自の政治制度を持つ共和国へと変わっていきました。

アメリカ独立革命はフランス革命にどう影響したのか

アメリカ独立革命の影響はアメリカだけで完結せず、フランス革命にも及びます。思想的な影響と財政的な影響を与えました。

アメリカ独立革命では、自由、平等、人民の権利といった考え方が掲げられましたが、これはフランスの人々にも強い刺激を与えています。

特に、ラファイエットのようにアメリカ独立戦争に参加したフランス人は、自由や権利を掲げる政治運動が実際に国家の独立へつながる姿を見ました。こうした経験は、のちにフランス革命へ向かう政治的な空気にも影響を与えていきます。

れきぶろ
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ラファイエットは、のちにフランス革命で重要な役割を担うことになる人物です!

一方の財政面での影響ですが...

フランスはアメリカ独立戦争を支援して多額の費用を使ったことが、フランス王国の財政をさらに苦しめることとなりました。

この財政危機は、やがてフランス革命が起こる背景の一つとなっていきます。

つまり、アメリカ独立革命は、フランスにとって思想的な刺激であると同時に、財政危機を悪化させる要因にもなったのです。

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ABOUT ME
歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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