プロイセンとオーストリア②/七年戦争
息子の継承が基本のハプスブルク家。スペイン継承戦争の時に一枚かんだレオポルト1世が亡くなった後、神聖ローマ皇帝の地位にはヨーゼフ1世、カール6世が即位しますが、後継者になれそうな人がいませんでした。
※ヨーゼフ1世は後継者がいなかったため弟カール6世を後継者としていました。
カール6世は長女が後継者になれるようカール6世は法令を整備し、根回しも行います。
それでも実際にカール6世が崩御し、マリア・テレジアが即位すると反対派、特にプロイセンのフリードリヒ2世が女帝の誕生に反対。オーストリア継承戦争(1740-48年)が勃発しました。
このオーストリア継承戦争でシュレジエンという豊かな地域がプロイセンに奪われると、マリア・テレジアは外交革命で長らく敵対していたフランスと同盟を結んだ他、フリードリヒ2世を嫌ったプロイセンの隣国ロシアの女帝エリザヴェータとも同盟を結びシュレジエン奪還のための包囲網を形成。
オーストリア継承戦争が終わった後のフランスは既にルイ14世(在位1643-1715年)が亡くなって30年以上。絶対王政全盛期を抜け出したと言っても、まだめちゃくちゃ強い国でした。
ここから始まった七年戦争についてまとめていきます。
七年戦争(1756~63年)が起こった原因とは?
上記でも触れたように、一つ目はマリア・テレジアがオーストリア継承戦争で奪われたシュレジエンをプロイセンから取り戻そうとしていたこと。
このような背景から(第三次)シュレジエン戦争とも呼ばれています。なお、第一次/第二次シュレジエン戦争はオーストリア継承戦争を構成する戦役の一つです。
さらに、もう一つの原因が重商主義を背景とする植民地をめぐる英仏の対立です。
当時はかつて広大な領地を有し「太陽の沈まない国」と言われたスペインや、絶対王政の時代に入り強力な軍や財政基盤を持つ国家に対抗できなくなりつつあったオランダが没落してきた時期で、ヨーロッパでは英仏が覇権争いを始めていたのです。
両国は北アメリカやインド、アフリカといった海外植民地をめぐってファルツ戦争(1688年~)、ウィリアム王戦争(1689年~)以降、第二次百年戦争と呼ばれる戦争状態に突入していました。
そのため、ヨーロッパで戦争が起こると互いに別陣営について争います。七年戦争もそうした戦争の一つだったのです。
※ファルツ戦争/ウィリアム王戦争については下の記事に書かれています。
七年戦争の流れ
マリア・テレジアに包囲網を築かれたプロイセン国王フリードリヒ2世は、フランスと敵対していたイギリスと手を結び自分からオーストリアに戦争を吹っ掛けました。
当然これだけの包囲網を築かれている以上、いくら軍事的才能があると言われていたフリードリヒ2世でも苦戦を強いられました。同盟国のロシアにも攻め込まれ、消耗戦に突入。投入する兵力の多くが経験の少ない新兵ばかりになり、プロイセンの敗北は時間の問題と思われました。
ところが。
同盟を組んでいたロシアの女帝エリザヴェータが亡くなると状況が変わります。ドイツ育ちでプロイセンのフリードリヒ2世を崇拝していたピョートル3世が即位すると、すぐに講和に乗り出し同盟を結んだのです。
これがプロイセンにとって追い風になりました。
もともとフリードリヒ2世は有能な最高司令官であり、オーストリアはそんなフリードリヒ2世率いるプロイセンと単独で戦うには力不足でした。最終的にマリア・テレジアはシュレジエン奪還を諦めなければならなくなります。
なお、基本的にフランスとイギリスは北米やインドをメインに、フレンチ=インディアン戦争(北米)やカーナティック戦争やプラッシーの戦い(インド)でぶつかり、1763年にイギリス優位で戦争を終えたため、ヨーロッパ戦線にはそこまで影響しませんでした。
イギリスはヨーロッパで戦争することも兵力を送らず、財政支援のみに留まっています。フランスをボコれればいいという感じに見えますね。
条約の締結とヨーロッパ諸国への影響
最終的にプロイセンとイギリスが勝利。それぞれ講和条約を結んでいます。
先にイギリスとフランスの間で結ばれたパリ講和条約で戦争が終結し、その5日後に結ばれたフベルトゥスブルク条約でプロイセンとオーストリアの七年戦争が終結しました。
パリ条約
七年戦争とフレンチ・インディアン戦争、カーナティック戦争などの講和条約で、イギリス・フランス・スペインの間で結ばれました。
北米に関しては以下の通りで
- フランスはケベックなどのカナダとミシシッピ以東のルイジアナをイギリスに割譲する
- フランスはミシシッピ以西のルイジアナをスペインに割譲する
- スペインはイギリスにフロリダを割譲するが、イギリスが占領したキューバはスペインに返還
することが決まっています。
また、インドやそのほかの地域に関しては下のような取り決めが行われました。
- インドにおいてフランスは決まった地域以外の場所でのイギリスの優越権を認める
- フランスはイギリスに対し地中海やアフリカ、西インド諸島の一部を割譲すること
が決められて海外植民地獲得競争でイギリスが完全勝利が確定し、イギリスは広大な植民地帝国を築くことになったのでした。
フベルトゥスブルク条約
プロイセンとオーストリアで結ばれた条約で
- シュレジエンはプロイセン領(アーヘンの和約を再確認)
- プロイセン国王フリードリヒ2世は、マリア・テレジアの息子ヨーゼフが将来神聖ローマ帝国の皇帝に選出する際に協力すること
が取り決められ、マリア・テレジアの求めたシュレジエン奪還は失敗に終わったのです。
ヨーロッパの影響
ということで、七年戦争がもたらした変化をまとめると
- イギリスが世界帝国を築くきっかけに
- プロイセンが国際的地位を爆上げ
しただけでなく、敗戦したフランスとオーストリア、そしてアメリカにも変化をもたらせています。その変化が以下の通り。
- オーストリアとフランスの連携強化
=娘のマリー・アントワネットがフランス王太子のルイ(16世)と結婚 - フランスが北米植民地のほとんどを失ったことで国庫財政が深刻化し、課税問題が勃発 ⇒ フランス革命に
- 北米植民地で戦費のために重税を課し、アメリカで独立志向が高まるように ⇒ アメリカ独立戦争 へ
上のような変化を起こしたことで、ヨーロッパは大きな変化を迎えることになります。18世紀が激動の時代となったのは、こうした世界を舞台にした七年戦争が大きなきっかけとなったのでした。