ウィリアム3世の治世とイギリスの強国化【イギリス各国史】
名誉革命で議会が優位になるよう宣言して即位したウィリアム3世とメアリー2世。その後、権利の章典として成文化したものを制定した文書を公布したことで立憲君主制の確立に大きな影響を与え、イギリス議会政治の基幹が出来上がっていきました。
このウィリアム3世のもとで政党の一つであるホイッグ党が力をつけ、ウィリアム3世の死後にホイッグ党からウォルポールが活躍していくことに。
ここではウィリアム3世の治世下にあったことをまとめていきます。
ウィリアム3世が即位するまでの経緯
前回までの記事と被っていますが、簡単に説明しておきます。
専制政治が行き過ぎて議会と対立し、イギリス革命を起こされました。
フランスでは絶対王政の全盛期に入ろうかという頃。ルイ14世(在位1643-1715年)の治世下に後のイングランド王チャールズ2世、ジェームズ2世兄弟が亡命。カトリックの影響を大きく受けることに。
イギリス革命の中心人物、クロムウェルが独裁を始めます。
独裁政治で我に返った人々は「国王いる体制と変わらないなら伝統的な王家がある方が良いんじゃない?」となり王政復古に。ここで議会を尊重する約束をしたうえでチャールズ2世として即位。ところがカトリックの勢力回復を狙いすぎて議会と対立するようになりました。
嫡子がいないこともあり、カトリックを信仰する弟のジェームズを国王とするかどうかで議会が割れます。トーリ党は国王の権威を重んじる立場(国王が首長も兼ねることからイギリス国教徒が多数を占めています)を、ホイッグ党は「プロテスタントの庶子の方が相応しい」という立場をとっています。
兄と同じくカトリック勢力の回復を狙いすぎて議会と対立。トーリ党とホイッグ党で協力し合い名誉革命(1688年)で国王ジェームズ2世を追放しました。
ここで招聘されたのが
ジェームズ2世の娘夫婦メアリとオランダ総督のウィレムです。
彼らがオランダから呼ばれ、それぞれメアリ2世とウィリアム3世として1689年に即位することになりました。なお、ジェームズ2世を追い出す際には協力したトーリ党とホイッグ党でしたが、結局二人の即位後に対立し続けます。
夫妻のうちメアリ2世は即位後約5年で死去。
外国から受け入れた国王でしたが、ウィリアム3世はホイッグ党からの支持を取り付けていました。ホイッグ党は元々プロテスタントの庶子を推していただけに、仏蘭戦争でオランダ総督として活躍し、プロテスタントの英雄となっていたウィリアム3世との距離は近かったのかもしれません。
名誉革命によるイングランド以外への影響とは?
名誉革命による国王の交代劇は同君連合のスコットランドやアイルランドへも影響し、大きな混乱が起こりました。
スコットランドでの影響
スコットランドは長老派(プレスビテリアン/カルヴァン派)が主導権を握っていましたが、1689年にスコットランドの議会が『長老派を国教化すること』をイングランド議会に要求しました。メアリ2世とウィリアム3世の王位を認める条件として自分達の信仰の自由を認めるよう突きつけたのです。
イングランド側もその条件を了承し、スコットランドもメアリ2世とウィリアム3世の即位を認めました。ところが、ジェームズ2世を支持する者達は受け入れられません。武力蜂起を起こし鎮圧されたものの、その後のジェームズ2世の子孫による王位継承を主張し18世紀まで反乱を起こしました。彼らはジェームズのラテン語読みで『ジャコバイト』と呼ばれています。
アイルランドへの影響
一方カトリックの多いアイルランドでもカトリックを信仰するジェームズ2世を支持する者が多く、フランス軍から支援を受けたジェームズ2世とジャコバイトたちがイングランドと戦ってイングランドの勝利で終わっています。
※アイルランドはこうした反乱を受けて厳しい制限を科せられたうえで支配を受けていくことに。住民はカトリックが多いにもかかわらず、議会はイングランド国教徒の議員で構成され実態は植民地のようなものだったようです。
こうした状況の中、基本的な方針としてトーリ党は世襲君主政を尊重していたため政敵であるホイッグ党からジャコバイトのレッテルを張られがちになっていきます。
国王ウィリアム3世とつながりの深いホイッグ党優位な状況が出来上がっていきました。
対外戦争と強国への道
エリザベス1世の治世の1600年に設立された東インド会社は、当初、モルッカ諸島の香辛料を扱う貿易で利益を上げていましたが、1623年のアンボイナ事件でオランダとの勢力争いに負けて撤退しムガル帝国(インド)に本格的に進出していました。
ムガル帝国のマドラス、ボンベイ(現ムンバイ)、カルカッタ(現コルカタ)などの拠点を築いただけでなく、インド以外の北米大陸でも13植民地が17世紀中に建設されています。
※ジェームズ1世とチャールズ1世の代にスコットランドでイギリス国教会を強制しようとしたため、北米大陸に移住したピューリタン(カルヴァン派/清教徒)が多くいました。
一方で、海を挟んでお隣のフランスでは17世紀半ば以降、コルベールを財務総監に任命したルイ14世が重商主義政策を進めていました。
経済的に世界をリードしていたオランダとぶつかるようになっていた(オランダ侵略戦争)ことから、対フランスを睨んでそれまで戦争(英蘭戦争)の続いていたイギリスとオランダが婚姻関係(メアリとウィレム)を結んで仲直りしていたという経緯もあって、イギリスにとってもオランダにとってもフランスが厄介な存在になっていました。
ウィリアム3世はフランス勢力を抑える外交政策を基本方針に据えています。
ファルツ戦争/アウクスブルク同盟戦争(1688~1697年)
ルイ14世が親政していた頃のフランスは、南ネーデルラント継承戦争、オランダ侵略戦争と侵略戦争を続けていました。その侵略戦争の一つがファルツ戦争です。
この頃、ちょうど陸地で繋がっているお隣の神聖ローマ帝国は第二次ウィーン包囲で知られる対オスマン帝国の大トルコ戦争にかかりきり。そうした背景もあってフランスは積極的に動いていました。
ファルツ戦争の背景とは?
神聖ローマ帝国は1618年~1648年までの三十年戦争以降、領邦がさらにバラバラになり各領邦が主権を持つ小国が乱立している状態になりました。
その国の一つで神聖ローマ皇帝を決める選挙権を持つファルツ(プファルツ)選帝侯カールが1685年に死去。男子相続者が途絶えたため、ルイ14世の弟オルレアン公の妃がファルツ選帝侯の家出身ということから領土を要求し、1688年に侵攻しています。
ルイ14世はこれまでユグノー戦争を収めた際にプロテスタント容認政策としてアンリ4世が発したナントの王令を廃止してプロテスタント弾圧も行うようになっていたことから、オランダ総督のウィレム3世(後のウィリアム3世)が警戒してアウクスブルク同盟を提唱。
オランダ、スペインといったプロテスタント教国だけでなくスペインや神聖ローマ帝国などのカトリック教国で同盟軍を結成してフランスに対抗し、ファルツ戦争が起こったのです。
ウィリアム王戦争(1689~1697年)
この戦争でのイングランドとフランスの対立は植民地に飛び火し、北米を舞台にしたウィリアム王戦争(1689~1697年)も発生。ここからはじまる英仏の植民地争いは第二次百年戦争と呼ばれるほど拗れることとなりました。
ファルツ戦争とウィリアム王戦争の終結(1697年)
最終的に
- フランスがウィリアム3世のイングランドの王位継承を認める
- ルイ14世の弟のオルレアン公のファルツ選帝侯の相続をお金と引き換えに諦める
ことを決めたライスワイク条約を結んで終結させています。
スペイン継承戦争(1701~1714年)
ファルツ戦争・ウィリム戦争の終結から4年後。1701年にはスペイン継承戦争が勃発し、ウィリアム3世はこの戦争にも参戦しています。
スペイン継承戦争は、その名の通りスペインの王位継承争いが拗れて起こった戦いです。
スペイン継承戦争が起こった背景
当時のスペイン国王はスペイン=ハプスブルク(=アブスブルゴ)家のカルロス2世ですが、彼は度重なる近親婚の末にかなり病弱なまま誕生。38歳まで生きたものの子は最後まで生まれませんでした。
カルロス2世の生前からスペイン王家の断絶は確実視されており、スペイン王家と繋がりのある何人かの候補者が挙げられていました。その中にはルイ14世や神聖ローマ皇帝のレオポルト1世も含まれます。
ルイ14世としては、ファルツ戦争/ウィリアム王戦争で結ばれたライスワイク条約で得るものが少なく国民の不満が溜まっていたことやレオポルト1世の即位で(フランソワ1世の時のような)神聖ローマとスペインによる挟撃の形をどうしても避けたかったことなどから積極的に介入しました。
結局、ルイ14世の孫、アンジュー公フィリップがフェリペ5世として即位することに決まりますが、他国の反発を招いたのです。
スペイン継承戦争とアン女王戦争
スペインの王位継承を直接争ったレオポルト1世に加え、これまでのファルツ戦争、ネーデルラント侵略戦争などで関係が悪化していたオランダ、イギリスが同盟を結成し戦争が勃発。
この戦いが始まってすぐにウィリアム3世は落馬事故の怪我で亡くなり、既に決められていたアン女王に対フランス政策は引き継がれました。
このスペイン継承戦争でもまた植民地争いで戦線が拡大。北米大陸と西インド諸島を舞台とするアン女王戦争に発展しています。
ユトレヒト条約の締結(1713年)
これらの戦いはイギリスが終始優位に進め、1713年にはユトレヒト条約を締結。
- ジブラルタル海峡
- 北米大陸の植民地
- スペインが独占していた黒人奴隷供給権
を獲得しています。
途中退場してはいますが、こうした戦争にかかるお金を引っ張ってくるためウィリアム3世は戦時の財政を支えるシステムを構築。イングランド銀行は、このウィリアム3世の治世下に設立されています。
そうした金融機関の設立もホイッグ党の協力があってこそ。様々な実務もホイッグ党員が行ったため立場をますます強めていったのです。