イギリス(ピューリタン/清教徒)革命とは?背景から流れまで解説!
イギリスでは絶対王政の全盛期を築いたテューダー朝最後の女王エリザベス1世がスコットランド王のジェームズ6世を次期国王に指名。エリザベス1世が亡くなった後はジェームズ1世(1603-25年)として即位し、新たにステュアート朝が開かれました。
※プファルツ選帝侯は三十年戦争でプロテスタント側がベーメン王に選んだ人物です。
このステュアート朝の時代に起きた革命がイギリス革命です。ここでは革命が起きるまでの背景や流れと共に議会政治の成立までを詳しくまとめていきます。
イギリス革命とは?
ステュアート朝下のイギリス絶対王政を崩壊させた市民革命のことを指しています。
国王チャールズ1世※による強権政治への不満が高まって1642年には内乱に発展すると、1649年にはチャールズ1世が処刑され、共和政へ移行しました。
※チャールズ1世はジェームズ1世の息子です
この時に台頭したのがクロムウェル。彼の独裁政治を経て「王様の方がましだな」と気づいて1660年に王政復古で国王を君主とする国家体制に戻ったのです。
※なお、イギリス革命は「ピューリタン革命と名誉革命の総称」とするケースもありますが、ここでは別物として扱います。
ステュアート朝が絶対王政で締め付けた背景とは?
絶対王政の全盛期を築いたテューダー朝を引き継いだステュアート朝。
元々はスコットランドだけを支配していたところを、エリザベス1世の遺言によって手渡されたイングランド王の王冠をジェームズ1世が1603年に引き継いだことで同君連合の王国が成立しました。
イングランドの場合は
- 議会:予算や立法を決める伝統的な組織
- ジェントリ:地方行政担当
国王が上の二つの勢力と協力して統治を行っています。
ヘンリー8世のようなどんなに強そうな国王であっても、それは変わりません。仲が悪いなりに議会やジェントリとは協力関係を築いていました。
ジェームズ1世は、スコットランドからやって来ただけに上記のようなイングランドの伝統政治が分かりませんでした。というよりも本人は前女王のエリザベス1世のようなカリスマ性がないことを自覚していたため、伝統を無視して王権神授説を根拠に専制政治を行うことにします。議会を無視して新税を取り立てたり少数の大商人に独占権を与えたりしたのです。
当然ながら、好き勝手やる国王に議会やジェントリたちは不満を覚え批判が強まりました。
加えて、イングランドはイギリス国教会、スコットランドのメインはカルヴァン派(カトリックもそれなりにいた模様)メインという宗派の違いがあったのですが、絶対王政を敷くとなると間違いなくイギリス国教会の方が都合が良い。
というわけで、ジェームズ1世/チャールズ1世父子はイギリス国教会を強制しようとします。
イギリス国教会の首長は国王です。
元々イングランド王にカルヴァン派のジェームズ1世が即位すると聞いていたイングランドのピューリタンたちは新しい国王に期待していただけに、イギリス国教会への信仰の強制は期待を裏切られたうえでの弾圧ということで、かなりの反国王派に傾いていくことになったのです。
※ジェームズ1世の代で弾圧から逃れようと少数のピューリタン(カルヴァン派/清教徒)がアメリカに移住。息子の代でますます弾圧が強まって入植者が増加しています。
なお、ヨーロッパで大々的にプロテスタントとカトリックが戦った三十年戦争に(議会による課税反対が理由とは言え)参戦出来なかったことも国民たちを落胆させる一因となっています。
ジェームズ1世の娘がプロテスタントが選んだベーメン王に嫁いでいたという大きな参戦理由があったにも関わらず参戦しなかったことで期待を裏切られたのでしょうね。
イギリス革命の発生
やがてジェームズ1世が亡くなって息子のチャールズ1世が1625年に即位しますが、結局やることは変わらず。それどころか父王以上に専制を強化しています。
権利の請願
我慢しきれなくなった議会は、1628年に『権利の請願』を提出。この権利の請願により
- 議会が同意していない課税をやめること
- 法に基づかない逮捕や投獄をやめること
などを国王に約束させました。
ところが、これに対して議会を11年も開かずに専制政治を行い続けたり、カトリック教徒との結婚や礼拝儀礼の復活など親カトリックの姿勢を見せたりしたチャールズ1世は国民からの支持を失っていくことになるのです。
なお、チャールズ1世が親カトリック的な行動をとった意図としては、スコットランドとイングランドが元は別の国だったことから宗教的に統一しようとしたいがための行動だったそう。
スコットランドの暴動の発生と議会の招集
そんな中、状況が変わる事件が起こります。スコットランドでの暴動の発生です。
宗教の押し付けが続き、スコットランドは我慢の限界に達したようでした。1639年の第一次主教戦争の戦費調達のために、これまでさんざん無視してきた議会を開きますが、長年の恨みつらみで議会は進まず。わずか3週間で解散することになりました【=短期議会】。当然、課税も拒否されてしまいます。
翌年に再びスコットランドとイングランドの間で第二次主教戦争が発生。イングランド軍が敗北したため、多額の賠償金の支払いに迫られました。
再び議会が開かれることとなりますが、ここでもやはり議会は紛糾。この時に招集された議会は12年続いています【=長期議会】。
長期議会もこれまでの経緯から国王の思うとおりに進むわけがなく、チャールズ1世の失政に対して
- 議会の定期開催
- 星室庁裁判所の廃止
- 議会の同意なしの課税禁止
などが議会によって決められていきました。
星室庁裁判所とはヘンリー8世の時に常設された国王直属の裁判所のことで絶対王政のツールとなっていました。
チャールズ1世はこれを受け入れざるを得なくなり、専制政治は終わりを遂げて伝統的なイングランドの政治が復活するのですが、やがていくつかの派閥に分かれていきました。主導権をどの派閥が握るかで不穏な空気が流れ始めています。
王党派と議会派の誕生と革命の勃発
そんな状況下において、今度はアイルランドでカトリック教徒たちが反乱を起こすとイングランド人が数千人も殺害されてしまいました。混乱中はいつの時代でもそうですが、デマが流され「被害者数はもっといたが隠している!」とか「国王がアイルランドと手を結ぶのではないか?」という憶測が流れ始めました。
どのみちアイルランドの反乱は鎮圧しなければなりませんでしたが、既に議会の内部で派閥ができ始めていたこともあって、軍を統率するのが国王なのか議会なのかで対立。「国王が統率した方が良い」とする王党派、「議会が良い」とする議会派に分かれ、ついには内戦にまで発展します。こうしてイギリス革命が発生したのです。
派閥を構成する構成要員は
- 特権を持つ一部のジェントリ
- 〃 貴族
- 特権を持たない大多数のジェントリ
- 商工業者
- ヨーマン
が多くいたそうです。
議会派の中にはカルヴァン派の信者、イギリスで言うピューリタン(清教徒)が大多数を占めていたと言われています。結果的に、議会派がイギリス革命が起こしたことからイギリス革命はピューリタン(清教徒)革命とも呼ばれているのです。
ピューリタン革命の流れ
当初、有利に進めていたのは王党派でしたが、議会派がスコットランドと手を結んだことや議会派でオリバー・クロムウェルが台頭してきたことで流れが変わります。
鉄騎隊を編成しなおし、彼らを率いたクロムウェルは、彼らを率いてネイズビーの戦いで王党派を退けて内戦を終結させました。
ところが、議会派はその後の国王の扱いや政治体制を巡って意見が分かれ、今度は3つの派閥に分裂しています。
- 長老派
・国王の存在を認め『立憲君主制』の国家体制を築くこと
・カルヴァン主義に基づく長老性の国教会を作ること - 独立派
・イングランド国教会や長老派のような全国的な組織を作らないこと
・地域ごとで信仰の自由を保障すること
・国王なしの共和政にすること - 水平派
・男子普通選挙による庶民の政治参加
・共和政にすること
それぞれ上記のような考えを持ちました。
議員として政治参加できるのは長老派と独立派で、水平派はあくまで議会軍の下級兵士達です。この派閥争いを察知したチャールズ1世は戦争を起こしますが、その戦争に敗退して完全に力を失うことになります。
そんな中、派閥争いを制したのは独立派でした。
内戦を制した時に活躍したクロムウェルもこの独立派に属しています。独立派は長老派を追放し、国王を捌くための高等裁判所を設置。様々な罪を科せられたチャールズ1世は、1649年にホワイトホール宮殿の前で公開処刑されることとなったのです。