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ヘンリー8世(在位1509-1547年)の治世<テューダー朝>【イギリス史】

歴ブロ

ヘンリー8世は政治面ではイギリスの絶対王政を確立した功績があったにも関わらず、6度の結婚の方がより語られることの多い人物です。

離婚したいがためにイングランド国教会を立ち上げ、その後のイギリス史・宗教史に大きな影響を与えているのと結婚の中で2人の王妃を処刑したことも話題が上りがちな理由です。さらに邪魔な存在であれば側近や友人であろうが処刑する暴君としても知られています。

今回は、そんなヘンリー8世が誕生した背景や状況も見つつどんな人だったのか見ていこうと思います。

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ヘンリー8世の父母が結婚した裏事情とは?

ヘンリー8世は1491年ランカスター派の傍流ヘンリー7世ヨーク派の娘エリザベス=オブ=ヨークの間に生まれています。

フランスとの百年戦争の終わりかけに始まったのがイギリス国内で起きた内戦バラ戦争。ランカスター派とヨーク派に分かれた争いで、イングランド王として最終的に即位したのがヘンリー8世の父にあたるヘンリー7世です。

ヨーク朝の国王だったリチャード3世と戦って敗死させ、ヨーク朝に終止符を打ちテューダー朝を開いています。

1337年から始まった百年戦争から断続的とはいえ150年近く戦乱が続いて国は疲弊しており、これ以上争いを起こすと色々と厳しい状況にあったため「ランカスター派とヨーク派を結びつけることで反対派を黙らせよう」作戦の末の両親の結婚です。

そんな2人の間には8名の子が誕生、ヘンリー8世は次男として生まれました。兄は早くに亡くなり、ヘンリーは王になる予定はなかったのに突如繰り上がって10歳で皇太子となってしまいます。

ヘンリー7世とヘンリー8世

若い頃のヘンリーは、スポーツが得意で語学堪能、天文学や幾何学などにも明るい上に「ヨーロッパ1のハンサムな王子」とまで言われたカリスマ性溢れる若者だったとされています。

最初の結婚相手キャサリン=オブ=アラゴンについて

ヘンリー8世と言えば6度の結婚が有名です。最も長く結婚生活を続けたのがスペイン出身の1人目の王妃キャサリン=オブ=アラゴンでした。彼女に決められた経緯は当時の国際情勢や父王ヘンリー7世の思惑が大きく関係しています。

彼女は皇太子に立てられながら即位することなく1502年に亡くなった兄アーサーの妻でもありました。アーサーとの縁談はテューダー家は「お金が必要」、スペインは「(周辺諸国との仲が微妙だから、せめて)フランスだけでも封じ込めたい」という利害の一致でまとまったものです。

ところが、キャサリンはアーサーの元に巨額の持参金を持ってスペインから嫁いだものの程なくして夫が亡くなってしまうという不幸に見舞われます。

当時の常識だと夫が亡くなった未亡人は帰国し持参金も戻さなければなりません。持参金の返却が惜しいヘンリー7世はキャサリンをイングランドに留めておくことにしたのです。

※当時のスペインはポルトガルと共に大航海時代の先駆けを作り出していたイケイケ状態の時代です。

兄嫁キャサリン=オブ=アラゴンとの結婚

それから息子が亡くなって約一年後、妻を亡くしたヘンリー7世が

こんなことを言い出してキャサリンの母イサベルが大激怒。

当然話は拗れましたが、最終的にヘンリー(8世)が婚約者となることに落ち着きます。この時点でヘンリー(8世)はまだ10歳。若すぎて実際の結婚には至りませんでした。

ところが、1504年にキャサリンの母が亡くなるとキャサリンの立場は一変。彼女の母はカスティーリャ女王であり亡くなったことで相続問題に発展します。広大なカスティーリャをなくしキャサリンの価値が大きく下がってしまいました。

ヘンリー(8世)が結婚できる年になっても旨味が少なくなったキャサリンと息子の結婚に乗り気をなくしたヘンリー7世は息子に「キャサリンはやめろ」と説得しにかかります。

が、既に兄嫁に惹かれ始めていたヘンリー(8世)。周りから反対されるほど気持ちは燃え上がっていったのです。

やがて、父ヘンリー7世はイングランドの内政面を整えると結核によって52歳で薨去。1509年にヘンリーが17歳の時にヘンリー8世として即位すると、すぐに教皇の許しを得てキャサリンとの結婚式を挙げたのでした。

※旧約聖書の一部に兄弟の妻との結婚(兄弟の妻と肉体関係を持つこと)を禁じる一文があるも、結婚後すぐ病気になって床に臥せた「アーサーとの関係はなかった」と結論付けられて結婚した

メアリーの誕生

憧れの兄嫁キャサリンと結婚したヘンリー8世でしたが、子宝になかなか恵まれません。何度も妊娠してはいますが、流産を繰り返します。噂も含めると8回も妊娠したとも!

当初は円満な夫婦関係を築いていたのですが、やがて度重なる流産で夫婦関係にも亀裂が走りはじめます。1511年に男児を産んでも生後52日で亡くなると、ヘンリー8世は他の相手を求めるようになりました。

流産の原因はヘンリー8世の梅毒説(女性絡みの節操のなさから生まれたっぽいや血液型に問題があった説が囁かれていますが、本当のところはわかっていません。

唯一生まれたのが長女のメアリー(1516年)。後に女王として君臨する女性です。

アン=ブーリンとの結婚とイギリス国教会の成立

父の代で収まったとはいえ、いまいち足元のおぼつかないテューダー朝。ヘンリー8世は一個人としてだけでなく国王の立場としても男児を強く望むようになりました。やがて妻が年齢的にも子を産むことが難しくなると離婚まで考えはじめます。

ここでヘンリー8世が手を出したのが妻の侍女たちでした。その中には唯一認知された男児ヘンリー=フィッツロイを産んだエリザベス=ブラント、アン=ブーリンや彼女の姉(妹?)のメアリー=ブーリンなどがいたようです(アンとメアリーの母もヘンリー8世の愛人の一人だった説があります)

正確にいえば、メアリーは完全にヘンリー8世の愛人でしたが、アンはメアリー達が捨てられたのを見て妾になることを良しとせず正式な結婚を求めました。時の国王に対して「結婚するまで肉体関係は持たない」と発言し実際に実行する強気なタイプのアンに夢中になったヘンリー8世は王妃キャサリンとの離縁のため本格的に動き始めます。

そのうち、アンも王妃になることに乗り気になっていったのでした。

国際情勢の変化

ところが、ヘンリー8世にとって都合の悪い問題が横たわっていました。

キャサリンの甥が神聖ローマ帝国の皇帝を決める選挙でフランス国王フランソワ1世との選挙戦の末に勝利し、カール5世として即位していたのです。この頃の教会は権威が下落し始めた真っただ中で神聖ローマ皇帝の影響力も無視できなくなっていた時期で、キャサリンとの離婚は困難を極めます。

※カール5世の即位は1519年。アンと出会う前の話。
※ドイツでマルティン=ルター宗教改革を起こしたのは1517年~です

また、このカール5世。母親はスペインのキャサリン=オブ=アラゴンの姉フアナ、父親はブルゴーニュ公でハプスブルク家出身のフェリペ1世です。フランスはスペインと神聖ローマ帝国を治めるカール5世に挟まれる非常に厄介な状況に陥っていたため、打開策としてイタリアに進出しようとしていました。

ハプスブルク家

宗教改革への対応もあってカール5世はローマ教皇と同盟を結び、フランスと対立。第三次イタリア戦争(1521年~)が始まっていきます。

※この時、カール5世によって周りを包囲されたフランスはオスマン帝国と同盟を結ぶ起死回生策に出ています

イングランド国教会の成立

イングランドは最初は中立に立とうとしますが、後にキャサリンと縁が深いスペイン側につくように。

れきぶろ
れきぶろ

ヘンリー8世の妹のメアリー王女がルイ12世と結婚する時に、アン=ブーリンら姉妹が侍女として宮廷に行っており、この王宮での生活で姉妹は洗練された所作を身に付けました

ところが、スペインについてフランスとの仲が冷えるとアン達は帰国せざるを得ず、帰国した先でヘンリー8世と出会ったという説があるようです

ところが得るものは少なく、更に本格的に離婚問題を進め始めた時に教皇に圧力を加えるスペインとは距離を置きはじめました。

こうしたスペインとの関係の変化や離婚問題を経て「教皇との関係を断絶しよう」との考えに行き着いたヘンリー8世は1533年に上訴禁止令(ローマ教会にお伺いを立てずに問題を処理してもOK)を出して破門されると対抗措置として翌年に国王至上法を発布。

「イングランドの教会のトップは国王」という法律を打ち出し、徹底抗戦の構えを見せています。最終的には教会から離脱してイギリス国教会の原型を成立させました。その際、修道院は解散させて財産を没収しています。

なお、意外なことに熱心なカトリックの信仰者で、新たに作ったイギリス国教会でも教義は(離婚以外は)しっかりカトリックの要素を残したままです。

以後、イギリスは国内で宗教関係の対立や混乱が続いていきますが、新たな宗教の確立は絶対王政を強固なものとするキッカケになりました。

エリザベスの誕生

イギリス国内において宗教的にも政治的にも最高指導者となったヘンリー8世。キャサリンとの離婚も教皇の許しを得なくても問題がなくなると、キャサリンは『結婚無効』の宣言をされ、軟禁状態に置かれました。また、王女メアリーの王位継承権も剥奪されています。

ヘンリー8世

カール5世の方も1529年にウィーンをスレイマン1世率いるオスマン帝国軍による包囲に苦戦してキャサリンを救う余裕はなかったそうです。

この隙に秘密結婚によりアン=ブーリンが二人目の王妃となったのでした。

結婚の同年にメアリーの次の女王となる女児エリザベスを産むと、彼女には王位継承権が与えられています。

アンは王位を剥奪させ庶子に落とされた前妻の子メアリーに対してエリザベスの侍女になることを強要。また、贅沢を好んで衣装や宝石などに浪費しただけでなく、政治にも口を出し始めるなど周りからの評判はイマイチで多くの敵を作っていきました。

中でも眉をしかめられた行動が、監禁状態にあった元王妃のキャサリンが亡くなったと聞いた日にヘンリー8世と黄色い服を着てお祝いしたという行動でした(黄色はスペインの色のため弔いとして着たという説もあるそう)

が、そうした二人に思いもよらない出来事が襲い掛かります。

彼女の死の17日後に開催された馬上槍試合でヘンリー8世は落馬し馬の下敷きになり、生死の境を彷徨ったのです。

活発でスポーツ好きだった彼は二度とスポーツ出来ない体になっただけでなく、前頭葉損傷と思われる症状で理性が効かず、短気・癇癪持ち・行動や言動が予測不能な冷酷非道な性格に変わったと言います(怪我以前も兆候はあったようですが)。記憶力も低下し、食欲の歯止めも効かずメタボ体型になり、以後病気と付き合いながら日々過ごすこととなりました。

一方のアン=ブーリン。この頃、二人目の子供を妊娠中だったのですが、落馬事故の5日後に待望だった男児を流産。ヘンリー8世は激怒してアンを見限ると、彼女の侍女であるジェーン・シーモアに心変わりしていきます。

三人目以降の結婚相手

敵を作り過ぎたアン=ブーリン。ヘンリー8世にも疎まれ始めたため、空気を読んだ側近が「国王の暗殺を企んでいる、5人の男との不義密通(うち一人は実の兄弟)している」などの噂を流しました。

アンはこの噂をもとに国王暗殺未遂容疑、不義密通による反逆罪、及び近親相姦および魔術の罪を着せられて死刑判決を受け、ロンドン塔で斬首刑に処せられています(エリザベスが2歳半の頃)。流産から4ヶ月後のことでした。

裁判は当時も今も正当性が疑問視され、冤罪だと言われています。

彼女の処刑の翌日にはジェーン=シーモアと婚約し、10日後には結婚。エリザベスの王位継承権も剥奪しました。

そのジェーン=シーモアは後に唯一の王子エドワード(6世)を生みますが、産褥死。次の王妃を探し、最終的に6人もの王妃との結婚をすることとなります。

5人目の王妃となったアンの侍女キャサリン=ハワードも姦通罪で処刑され、ヘンリー8世の妻は6人中2人も処刑されてしまったのです。

また、のちの王室に大きな影響を与えたのが最後の妻・キャサリン=パーです。王位継承権を剥奪された2人の王女の王位継承権を復活させるよう働きかけました。

これがなければ、テューダー朝で女王エリザベス1世は生まれなかったかもしれません。

結局ヘンリー8世による統治はどんなものだったの?

ヘンリー8世は宗教改革を進めて絶対王政を確立しただけでなく、ウェールズを『合同法』を制定し、法的な根拠も込みで完全に併合しています。

さらにアイルランドはカトリック教会から独立したことで国としての独立とヘンリー8世が王になることを承認させ「一人の君主が複数の国を統治する『同君連合』」の形態をとるようになりました。

※もともとプランタジネット朝のヘンリー2世の時代に、キリスト教を布教する代わりに与えられたアイルランド太守の地位を理由にして攻め込んだ過去があります。その後の長引く戦乱で影響力を失いはじめるような状況でした。

また、軍事的な整備もかなり進めて大きな功績を残しています。イギリスの王立海軍はヘンリー8世が基盤を作った1人です。

一方で、財政的には父王が蓄えた富(←一番目の妻キャサリンとの結婚の際にもヘンリー7世の経済観念は分かりますね)や修道院から没収した財産を元に贅沢な建築や軍事費用に当てたり大陸での戦費に費やしていたため破綻状態になっていました。

というわけで、彼の治世は6人の妻との離婚問題が切っても切り離せない問題だったわけですが、離婚問題はヘンリー8世だけの問題にとどまらず、息子の代以降の王室の問題にも関わることとなります。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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