カトリック両王の治世<フェルナンド2世とイサベル1世>【スペイン史】
カトリック両王とは、スペイン王国の基礎を築いたフェルナンド2世とイサベル1世の国王夫妻のこと。
以前、イサベル1世がカスティーリャを継ぐまでを紹介しましたが、今回はカスティーリャを継いで夫フェルナンド2世とどうやってスペインの基礎を築いていったのかをまとめていこうと思います。
カスティーリャ王位継承問題とフェルナンド2世の即位
イサベル1世とフェルナンド2世は、カスティーリャ王の王位継承を主張していたフアナ(イサベルの異母兄の娘)を王妃としたポルトガル王アフォンソ5世と戦って勝利を獲得。カスティーリャ内の多くの貴族はイサベルを支持していましたが、もちろん利害の一致しない反イサベル派も存在していました。
そうした反イサベル派を北部から討伐している最中にフェルナンドの父でアラゴン王が1479年に81歳で死去。アラゴン王位を継承(シチリア王位は生前に既に継承済み)し、カスティーリャ=アラゴン王国が成立します。この連合王国がスペイン王国の母体となっています。
レコンキスタの完成
レコンキスタとは、カトリック教徒による国土回復運動とも呼ばれるイベリア半島をイスラーム教徒から取り戻す運動のことです。
7世紀初めに中東で生まれたイスラーム教を信仰する国が勢力を拡大し、イベリア半島まで統治範囲を広げキリスト勢力が追い込まれると、イベリア半島のキリスト教国は北西部にアストゥリアス王国のみになってしまいました。
アストゥリアス王国が存続できた理由も、支配領域が山岳地帯で攻め込みにくいわりに経済的に旨みのない土地に人的資源や軍事費を突っ込みたくなかったからと言われています。
このアストゥリアス王国が遷都と共にレオン王国と名を変えていくことになりますが、やがて国内で厄介ごとが出てきて独立勢力が誕生。イベリア半島は群雄割拠になりイスラム勢力に協力する国も出てきました。
徐々にキリスト教国は勢力を拡大し、最終的にレコンキスタの中心となったのがカスティリャ王国とアラゴン王国。フェルナンド2世とイサベル1世の国です。イベリア半島最後のイスラム王朝ナスル朝グラナダ王国と国境を接する最前線となっています。
そんな折、グラナダ王国で内乱が起きました。これを好機と見たイサベル1世とフェルナンド2世が3年(もしくは9ヶ月)に及ぶ侵攻の末、1492年1月、グラナダ王国を制圧。約800年ぶりにイベリア半島全域をキリスト教国の支配下に置いたのでした。
その偉業を讃えられてカトリック両王の称号を獲得しています。
グラナダ王国を落とす願掛けとして、イサベル1世は下着を変えなかったそうです(本来は綺麗好きな女王らしい)。
ようやく悲願が達成した頃には女王の下着の色は変色。その色が由来となって「茶色がかった灰色」を「イサベル色」と呼んでいます
大航海時代へ
かねてから夫妻へ新航路を探すための出資を依頼していたクリストファー・コロンブスが航海のための援助を受けられたのもグラナダ陥落と無関係ではありません。
コロンブスから話を聞いて航海に興味を覚えたイサベル1世。投資ができない財政状態だったのがグラナダ陥落によって余裕ができたことでフェルナンドを口説き落とし、話が進んだのです。
こうしてスペインの大航海時代が開始。
なお、ヨーロッパでもポルトガルに次ぐ先駆者となっていますが、同時に互いの権利が侵害される恐れから1492年にポルトガル・スペイン間でトルデシリャス条約を結んで「新たに海外に確保する際、ここから西側はスペイン、東側はポルトガルね」と2か国で決めています。
最初は教皇子午線と呼ばれる境界線がローマ教皇の仲介で決まりましたが、納得できず新たに話し合いされた結果、トルデシャリス条約が結ばれました。
すごい時代ですね…
これが根拠となって後にスペインはアメリカの大部分を、ポルトガルはブラジルを領有することになったようです。
スペイン異端審問
異端審問とは中世以降のカトリック教会において「異端」の宗派を信仰している疑いを受けた者を裁判するシステムのこと。
カトリック両王の時代には異端審問を使って隠れ異教徒を弾圧する動きが見られ、しばしば広場で処刑が行われていました。ヨーロッパ内でも15世紀のスペインにおける異端審問は苛烈だったことで知られています。
- レコンキスタに終止符が打たれ熱狂的なカトリック教徒が多かった
- カトリック両王が敬虔なキリスト教徒だった(特にイサベルは幼少期の不遇時代に信仰を強くしたとも)
上記の事も無関係とも思えませんが、それよりも政治的な理由がメインで異端審問は行われました。
異端審問の対象になった人々とは?
イベリア半島からイスラーム勢力を追い出したものの、元グラナダ王国の領地には異教徒たちが多く残っています。イスラーム教徒はもちろん、グラナダ王国による『他教徒への寛大な宗教政策』によりユダヤ人も数多くいたようです。
2人が国王となるよりもっと前…
カスティーリャ王国やアラゴン王国でも非キリスト教徒に対して寛容な時代もありましたが、14世紀半ばのペストの流行と、そこから発展した経済問題で富裕層の多かったユダヤ人はやっかみの対象となり、度々虐殺や反ユダヤ暴動が行われるようになっていました。
その一方で、アラゴンやカスティーリャの宮廷では多くの裕福なユダヤ人が仕えています。
こうした事情が背景にあった上で、カトリック両王は新たな統一王権の誕生に伴って国内を一致させ王権を強化させようと考えました。当時はフランスとの対立もありましたから、国内の不満因子は取り除いておきたかったのです。
国内統一の目的のため、イスラム教徒やユダヤ教徒にキリスト教への改宗を行いますが、彼らは実際には自分達の信仰を守り続けていました。カトリックに改宗したイスラム教徒をモリスコ、同じくカトリックに改宗したユダヤ教徒をコンベルソと呼んでいます。
このモリスコやコンベルソ達が異端審問の対象でした。
異端審問が行われた政治的な理由とは?
元々異端審問は全てローマ教皇の管轄下で行われるもの。王権を強めたいフェルナンド2世にとって、スペイン内で行われる裁判をローマ教皇の口出しは避けたいものでした。
逆に教皇も世俗権力が自分の領域を犯され政治利用されることを危惧します。
が、フェルナンド2世はあの手この手で異端審問の許可を獲得。この時に奔走したのが、イサベル1世とフェルナンド2世の結婚を現実とさせるために裏で動いた枢機卿ロドリコ・ボルジア(後の悪徳教皇アレクサンドル6世)です。
- フェルナンド2世はユダヤ人に大金を借りていたため、異端審問で金融業者を社会的に抹殺し債務の帳消しを狙っていた
- コンベルソとなった政敵を失脚させたかった
こうした理由から、異端審問が行いたかったと言われています。
この頃のローマ教会は地中海情勢の変化と共にシチリア王でもあるフェルナンド2世の協力が不可欠になっていました。東の方でオスマン帝国が勢力を増し、イタリア方面にも影響力を拡大させていたため、シチリア王国の軍事力がどうしても必要だったのです。
「シチリアの軍事力を減らす」と恫喝も交えながらフェルナンド2世は、自身の権限で異端審問を行っていくことになります。
やがて宗教改革の時代に入ると異端審問の対象はプロテスタントに移っていくのでした。
婚姻による外交政策
グラナダ戦が終わり異端審問が始まる裏で、スペインは王宮を北部のバルセロナに遷してフランスとの戦いに突入していきます(フランスとスペインが対立した理由については別記事で紹介)。
このフランスとの対決を優位に進めるために行ったのが子供達の婚姻政策です。
見て分かるように、スペインと隣接するポルトガルは別として、イングランド王国と神聖ローマ帝国との間で婚姻関係を結んでいるのが分かります。
中でも重視したのが神聖ローマ帝国皇帝の血筋であるハプスブルク家との結婚です。
上の系図には描けませんでしたが、カトリック両王の間には、もう一人息子フアンがいました。彼はスペインの王位継承者です。
フェリペ(フィリップ美公という名の方が有名)と結婚したフアナと共にマクシミリアン1世の娘と結婚する二重結婚を行う念の入れようでした。
これにより、スペインは隣国を抑え込みつつフランス包囲網を形成し、ナポリ王位を手に入れています。
王位継承者のフアンの死とイサベル女王の死
2人の間に生まれた唯一の男の子フアンは結婚後すぐに亡くなりました。享年19歳。彼の妻は懐妊中でしたが、その後、男の子を死産しています。
フアンの死と孫の死により、カトリック両王の跡継ぎは長女イサベルに移りました。が、このイサベルもポルトガル王との間にできた男児を出産して、すぐに死去。次女のフアナに王位継承が移ると、両王はフアナをスペインに呼び寄せました(長男のカルロスは父の所領のフランドルで既に誕生)。
イサベルの遺言
彼女の夫婦生活は最悪なものでした。女好きの夫の度重なる不倫で精神を病んでいきます。イサベル1世はこの症状に心当たりがありました。彼女の母のイサベルです。フアナの祖母に当たり産後鬱を患っていたとされる女性ですね。
この状態のフアナに王位継承となると流石に心許ない。
その上、フアナの精神面が不安定なのを理由にフアナの夫フェリペが自身の王位継承を要求してきます。
このフェリペ、容姿端麗で見た目は良いのですが君主の資質は皆無。イサベル1世は自分に何かあった時のためにこっそりと遺言を残しました。「フアナと夫のフェリペを王位継承者とする」とした一方で「フェリペによる統治は、フアナの精神状態が正常で統治能力を持った場合のみ」としたのです。
逆に精神状態が不安定な場合は、二人の長男カルロス(カール)が成人するまで祖父(フェルナンド2世)が摂政として政務を執り行うよう但し書きを遺しています。
フェリペの政治的センスのなさや暗愚で凡庸なのを見抜き、イサベル1世は娘婿を一掃に伏したのでした。
ちなみに、このスペイン滞在中に次男のフェルナンド(フェルディナンド)が生まれています。
イサベル1世の死
イサベル1世の備えは、1504年の彼女の死により現実に役立つことに。
女王の死で遺言が明らかになると、フェリペは激怒。妻フアナを懐柔しようとしますが、失敗しています。また、フェルナンド2世は翌1505年にはフランス貴族フォア氏の娘と結婚し、嫡子を儲けようとしました。
カスティーリャの統治権を渡さないどころか、妻の王位継承権も奪いかねない義父のフェルナンド2世とフェリペの仲は険悪に。下手すれば内戦に発展しかねない事態となりますが、ここはやはり老獪さも持つようになったフェルナンド2世。内戦に発展させるよりもフアナの王位継承を認めた上で娘と娘婿を帰還させ、実権を握る方を優先。フアナがカスティーリャ女王の地位につくことになったのです。
狂女フアナとフェルナンド2世の統治
狂女フアナに関しては、それだけで一記事出来るので今回は父王との関わりだけに軽く触れていきます。
実権だけをフェルナンド2世が獲得し、娘夫婦を元の所領に戻すことで上手くいくかに思えたのですが、夫フェリペがスペイン滞在中に飲んだ冷水にあたって28歳で死去。
こうなると新たな女王・フアナがフェリペの所領ではなくスペインに残るのが妥当です。スペインに残れば女王ですから政治を行うのが筋ですが、実際には夫の急死で政治を行えないほど正気を失ってしまったと言います。
そこで、フェルナンド2世は娘を幽閉。政治の場から遠ざけ自らが統治する方法を選び、1516年63歳で亡くなるまで、その地位に留まりました。
イベリア半島にあったナバラ王国も併合し、イベリア半島にはスペインとポルトガルのみが残ります。ナバラ王国の王達はフランスと結んで領地奪還を目指しますが、フェルナンド2世の治世下では敵わず、その旧領の一部を取り戻すのはフェルナンド2世の死後となりました(その取り戻した旧領もやがてフランスに取り込まれます)。
そんな感じでフェルナンド2世は自身の職務を全う。
なお、フアナの病状悪化はフェルナンド2世が自ら政治を行うため噂を流したという説もあるそうで本当のところは分かっていません。
フェルナンド2世は最期まで自分の嫡子を希望していましたが、再婚相手との間に子は出来ず、後継者にフアナ女王の長男で孫のカルロスを指名して亡くなりました。
このカルロスこそがスペインのカルロス1世です。
神聖ローマ帝国のマクシミリアン1世の死後、神聖ローマ帝国皇帝カール5世として即位した人物と同一人物で、ハプスブルク家の全盛期を築いたとされます。
こうしてスペインはフェルナンド2世とは違う系統のハプスブルク家の統治へと移っていったのでした。