スペイン・ポルトガルの歴史【各国史】<〜15世紀>
スペインとポルトガルは共にイベリア半島にあり、ピレネー山脈の南西部…ヨーロッパの西側に位置する国です。
今回はスペイン、ポルトガルがどうやって成立したかまとめていきます。
古代ローマ〜イスラム勢力による支配
古くはローマ帝国の支配から始まり、ローマ帝国が瓦解した後は西ローマ帝国へ移行。その後、衰退すると5世紀後半までにイベリア半島の大部分をゲルマン系の西ゴート王国が制圧します。
711年になると、北アフリカを制圧しイスラム教を信仰するようになったムーア(元々ベルベル人と呼ばれていた)人部隊が西ゴート王国を征服。
その後のイベリア半島は大部分がイスラーム勢力の支配下となりました。
ウマイヤ朝(661~750年)、後ウマイヤ朝(756~1013年)と続きますが、そのうち後ウマイヤ朝では都のコルドバや西ゴート王国の都だったトレドを中心に経済的にも文化的にも栄え、当時の西ヨーロッパの中でも屈指の繁栄となりました。
レコンキスタ
元々がローマ帝国の支配下だった地域であること、南部からイスラム勢力が進行して追い詰められたことからイベリア半島北部にはキリスト教徒が多数いました。そうしたキリスト教徒らが国土回復運動レコンキスタを展開していきます。
764年にはペラヨ王(在718−737年)がイスラム軍を破るとアストゥリアス王国を成立させ、以後、アストゥリアス地方がレコンキスタの中心となりました。
その後南下して勢力を拡大させるとイベリア半島の中央部にも進出。首都を軍事拠点のレオンに遷都し、アストゥリアス=レオン王国、以後はレオン王国と呼ばれていきます。
やがてレオン王国の対イスラム戦線の最前線には多数の城砦が築かれ、ラテン語で城を意味する『カスティリョ』が転じて、この前線地域はカスティーリャと呼ばれるようになりました。
そのうちレオン王国内での地位を高めると独立。カスティーリャ王国が成立します。
他方、イベリア半島にはレオン王国の他にもナバラ王国やアラゴン伯領なども存在していました。ただし、10世紀前半までのそれらの国々はレコンキスタどころではなくイスラム勢力に従属していた状態だったようです。
11世紀に入るとナバラ王国が台頭。地中海に面したバルセロナまで勢力を伸ばしましたが、息子たちに相続するためナバラ、カスティーリャ、アラゴンに分かれます。この時新たにアラゴン王国も建設(1035年〜)されました。
このアラゴン王国の建設以降は、カスティリャとアラゴン王国の二つの新興勢力がレコンキスタの中心となっていきます。
両国がレコンキスタの中心となり始めた頃になるとイベリア半島で最も大きな勢力を築いていた後ウマイヤ朝が滅亡、イスラームによるイベリア支配は20余りの小国のみに留まりました。
11世紀後半になると、北アフリカからムラービト朝(ベルベル人)が来援したりムラービト朝に取って代わったムワッヒド朝がイベリア半島の一部を治めることもありましたが、最後まで残ったのはナスル朝のグラナダ王国です。
グラナダ王国はカスティリャ王国に貢納しながら独立を保ちましたが、1492年には完全に姿を消します。グラナダ王国はカスティリャとアラゴンの連合国によって滅亡させられたのでした。
アラゴン・カスティリャ連合によりスペイン帝国出来上がる
ヨーロッパ諸国は王族や貴族たちの婚姻関係から領地を併合することが多くありました。アラゴンとカスティリャの連合王国も、そのようにして出来上がった国です。
12世紀以降に最も大きな領地を持つことになったカスティリャでは時に王位継承争いになって他国を引き込んだりした結果(イベリア半島も百年戦争の舞台になった)、エンリケ2世が即位。
※国旗は便宜上これにしてます。実際には違います。
カスティリャ・トラスタマラ朝の始祖となります。その後もイベリア半島にある国の王族たちの婚姻関係などにより領地や王位などが複雑に動いていく中で
※エンリケ4世がフアン2世とイサベル=デ=ポルトゥガルの子となっていたため、訂正しました。
とうとう1469年にフェルナンド(2世)とイサベル(1世)の結婚が決まります。イサベルは結婚当初まだカスティリャ女王ではなく兄のエンリケ4世が即位していましたが、彼の死去によりイザベラが即位。カスティーリャとアラゴンの連合王国が完成します。
前国王のエンリケ4世には娘のフアナもいましたが、彼女の父親が不能王という悲しいあだ名が付けられていて「彼女の父親は本当にエンリケ4世だったの?」という目で見られていました。母はフアナ=デ=ポルトゥガル。名前の通りポルトガル王の娘です。
実の父親とされる人物はイザベル側についたためポルトガル王となっていた叔父に救援を求め結婚もしましたが、フェルナンドとイザベルに敗退。1479年に両者がカスティリャの王と女王になりスペイン王国が誕生しました。二人はカトリック両王と呼ばれるようになります。
その後、グラナダの陥落でレコンキスタは終了。
ちょうどこの頃カトリック両王が出資したクリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を発見するとスペインは西ヨーロッパの中でもかなりの強国となっていったのでした。
カトリック両王の子供達がヨーロッパの王室へ
カトリック両王の子供たち全部で5人。うち娘は4人で各々ヨーロッパ諸国の王家の元に嫁いでいきました。
1504年にはカスティーリャ女王であるイサベルが逝去し、フェルナンド2世はカスティリャ王の地位を失います。
ということでカスティリャ王の地位を彼らの子供達が継ぎますが、彼らの長男フアンは早世。長女のイサベルも出産で亡くなっており二女のフアナがカスティリャの第一継承権を持っていました。
が、結婚後から精神を病んでいたフアナ。女王となった後に夫フェリペ1世が死去してさらに病を悪化させて約四十年間幽閉されてしまいました。
※レオノールは先にマヌエル1世が亡くなったため、フランソワ1世と再婚。
この女王フアナの摂政になったのが父フェルナンド2世です。第一次イタリア戦争でナポリへ向かっていましたが、娘婿の死で急変したフアナの精神状態があまりに悪く、貴族達が内部闘争を始めたために帰国して執政しました。
そのフェルナンド2世も1516年に死去。
フェルナンド2世の後を継いで、フアナと共同統治を敷いたのは後に神聖ローマ帝国の皇帝となるカール5世です。彼は後に第二次イタリア戦争で大活躍したものの長い間戦いに身を投じてガタが来たため神聖ローマ帝国は弟のフェルナンド1世に、スペインを息子のフェリペ2世に譲りました。
こうしてスペインはハプスブルク家が治めていくことになったのでした。
ポルトガルの歴史
ポルトガルの場合は1143年、ローマ教皇の仲介でポルトゥカーレ伯アフォンソ1世(在1139−85年)がカスティリャから分離独立したことで国が始まり13世紀までにレコンキスタを完了させています。
ポルトガルと言えばスペインと共に大航海時代を盛り上げた一国です。その大航海時代を語る時に欠かせないのがエンリケ航海王子(1394~1460年)。絶対王政化が進められたアヴィス朝の初代国王ジョアン1世(在1385~1433年)の三男です。
ポルトガル南部のサグレス岬に航海学校を設立(1416年?)して航海術や天文学の研究を進め、探検事業のパトロンとして航海者を養成し多大な貢献をしています。
本人自身も父と共に1415年モロッコの商業都市セウタの攻略戦に参加し、アフリカ進出の足掛かりを築きました。
そのセウタ攻略を皮切りに、西アフリカ海岸探検・東インド探検に養成した航海者たちを派遣し大西洋諸島、ブランコ岬(西サハラとモーリタニアの国境にある岬)やヴェルデ岬(アフリカの最西端・現セネガルに存在する)などの探検・航海を推進していきます。
エンリケ航海王子が亡くなった後、国内の貴族を弾圧して絶対王政を確立したジョアン2世もエンリケ王子が行ってきた政策を継承。1488年にはアフリカ最南端の喜望峰に到達して新たな航路を見つけ出し、アフリカを迂回して胡椒を得ることのできるインドへの道が開けたのでした。
ジョアン2世は王太子を落馬事故で亡くし庶子しかおらず、後を継いだのは王家の傍流マヌエル1世。以後、マヌエル1世の血筋の子が即位していきます。
その中で1580年エンリケ1世が嫡子のいないまま死去すると、スペイン王のフェリペ2世がリスボンを占拠しポルトガル王を兼ねるように。こうしてポルトガルは1581年から1640年までの間、スペイン王がポルトガル王をかねる同君連合となっていったのでした。