ヨーロッパ

スペインの偉大な女王、イサベル1世が即位するまでの半生【人物伝】

歴ブロ

wikipedia『イサベル1世』より

イサベル1世は、夫でアラゴン王フェルナンド2世との共同統治によりレコンキスタを完成させた偉大な女王です。

幼少期に父フアン2世が他界したことで王室を追い出され、貧しい生活をしていた彼女。その後も様々な困難が待ち受けていました。今回は、そんな波乱万丈な女王に迫っていきたいと思います。

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イサベルの幼少期の家族関係を見てみよう

1451年、カスティーリャ=レオン王国で、カスティーリャ王フアン2世とポルトガル王家の娘イサベル・デ・ポルトゥガルの長女として生まれています。

フアン2世は、母のイサベル・デ・ポルトゥガルと結婚する前の王妃(既に死別)との間にエンリケを儲けていました。

イサベル1世親族

父フアン2世は、政治的には寵臣任せで無能寄りだったようです。

一方のエンリケは子供がなかなか出来ません。そのため、フアン2世は後妻との間に出来たアルフォンソを後継にしようかとも考えましたが、最終的には長男エンリケに決めています。

この頃にエンリケは子供の出来ないブランカとは離婚。性交渉がなかったのが理由とされました。

れきぶろ
れきぶろ

ローマ教皇は「夫婦生活が何かしら魔法が掛けられて致せなかった」として婚姻無効を言い渡しました。

あくまでも【魔法】だから二人の名誉は保たれた・・・のかも?

ところが、イサベルが3歳、弟に至っては1歳でフアン2世が死去。

1454年にカスティーリャ王として即位した異母兄のエンリケ4世が、母と弟と共にイサベルを追放しています。こうして母子3人は、イサベル母が領有していたアレバロ(イベリア半島の中央部に近い位置にある地名)のボロボロの城に幽閉されました。

エンリケ4世は子が生まれないことから「自分の王位を脅かしかねない」と異母弟恐れていたのです。

娘たちの世話のため、イサベル祖母が少数の使用人と共にやってきて城で居住を共にしてくれましたが、イサベル母はあまりにもひどい境遇に精神を病んでしまった一方、娘のイサベルは辛い環境の中で強い信仰心を持つようになります。

エンリケ4世の治世

そんなエンリケ4世の治世は父と同じくかなり評判の悪いものでした。多くの貴族達から反感を買っています。イサベルの弟アルフォンソを次の国王にしようと擁立する動きが出始めました。

この動きに対して「離れた地で子供達を育てるより近くにいた方が監視できる」と考えたエンリケ4世は、1461年に異母妹フアナと異母弟アルフォンソを王宮に戻しています。

※ここ最近ではイサベル母が産後鬱にはなっていたけれども時が経つにつれて「財産管理や教育に専念」出来ていた話も出てきているようなので、エンリケ4世は妹と弟が母からの影響を受けないように王宮に戻るよう命じていたという説もあるそうです。

フアナ・デ・ポルトゥガル

この時点で既にエンリケ4世はブランカとの離婚後の1455年にフアナ・デ・ポルトゥガルと再婚していました。

王宮に戻ったフアナとアルフォンソの教育係を、このフアナが請け負っています。二人は当時10歳と8歳。「二人の教育に悪いから」と権力闘争から離れるよう庇うこともあったようです。

そうこうしているうちに1462年の2月。7年目にしてようやく国王夫妻の間に子供が誕生。母と同じくフアナと名付けられました。おそらく二人が宮廷に着いた頃には妊娠中。息子か娘が生まれた時に懐柔できるようにしていたとも言われています。

ところが、エンリケ4世。すぐに生まれたばかりのフアナに王位継承者としてアストゥリアス公の称号を与えたことで反国王派から批判されてしまいました。国王をアフォンソにという動きが持ち上がっていったのです。

※カスティーリャで王位継承者はアストゥリアス公の称号が与えられます

さらに再婚後にもなかなか子供ができなかったことを理由に「不能王」とまで言われ「本当に国王の娘か?」と噂が流されてしまいました。

これは王位継承問題が発展してプロパガンダとして流された可能性もあって、実際にフアナ王妃が不倫したかは定かではありません。

父親と噂された相手はエンリケ4世のお気に入りの側近ベルトラン卿。政争に負けて彼を快く思っていなかったフアン・パチェコらが噂を流したと言われています。その上、宮廷内で強い批判にさらされた国王が、貴族の圧力に負けて王妃を宮殿から追放してしまいました。

フアナ王妃は追放先では割と自由に過ごしますが、夫のことがどうでも良くなったのか、現地で恋に落ちて後に子供まで産んでしまいました(1469年には懐妊)

ただの噂だったはずが、フアナ(娘)の「父親が別の男性」疑惑が信憑性を帯びることになってしまったのです。

アビラの茶番劇

1464年になると反国王の同盟者達が本格的に動きます。アルフォンソを王位継承者と認める他、様々な政治改革案を国王に突きつけました。

エンリケ4世はこれを突っぱねることは出来ず、またしても貴族達の圧力に負けて「アルフォンソがフアナ(娘)と結婚するなら」という条件付きでアルフォンソを次期王位後継者と認めています。

が、ほとぼりが冷めた頃に「やっぱりフアナが王位継承者だ」と発言を訂正。

話を反故にされた反国王派は怒ります。エンリケ4世の人形を裁判にかけアルフォンソが国王だと宣言する「アビラの茶番劇」を起こすと、エンリケ4世に不満を持つ国内の有力貴族達が集まって内乱に発展しました。

ところが、1468年。担ぎ上げられていたアルフォンソが15歳で病死。ローマ教皇の仲介もあって内乱に終止符が打たれます。

姉イサベルを擁立しようとする動きも出ますが、イサベルはこれを一掃。「エンリケ4世の生前に王位を請求することはない」と伝えて場を治めました。

これはエンリケが王であることを示すと同時に「出自の怪しいフアナよりも自分の方が王位継承権は上」ということを示していました。エンリケ4世は「次期王位はイサベルに与えるが、イサベルの結婚には兄の同意を必ず得ること」という協定を結んでいます。嫁がせて追い出そうとも考えていたようです。

この後、エンリケ4世とフアナ王妃の結婚は近親婚のため無効という判決が下され、フアナ元王妃は実家のポルトガルへ戻されることに。庶子まで産んでたら当然です。フアナ王女はエンリケ4世の子か不明なままカスティーリャに残りました。

フェルナンドとの結婚

実を言うと、イサベルには既に婚約者がいました。といってもカスティーリャの宮廷内には親フランス派・親アラゴン派・親ポルトガル派がいて、その派閥の意見を受けて兄王の考えが変わるたびにコロコロ婚約者も変わっています。

各派閥の国王や王族の名前はもちろん、エンリケ4世と敵対していたフアン・パチェコの弟と結婚させられそうになったこともありました。

恋愛結婚?

イサベルは自身の結婚について冷静に見つめ、色んな選択肢のある中で「カスティーリャにとってアラゴン王子フェルナンドがベスト」と考えるようになります。密偵も送り、フェルナンドがどんな人かも調査。美男で頭が良いとの情報を手に入れていました。

当時はまだ地中海貿易の実入りが大きかったことから「大西洋に面したポルトガルよりも地中海に面したアラゴン王国と結ぶ方がメリットが大きい」と考えていたようで、密かにフェルナンドと連絡を取り合うようになっていきます。

同時期にエンリケ4世からポルトガル国王アフォンソ5世との縁談を勧められますが、20歳差であることを理由にお断り。激高したエンリケ4世にイサベルは監禁されたのでした。

そこに商人に扮したフェルナンドが衛兵を倒して助けに行き、イサベルが一目でフェルナンドに気が付き駆け落ちし結婚したなんていう逸話も。

イサベル1世とフェルナンド2世を調べた時に「恋愛結婚」が関連ワードに出てくることがありますが、上の逸話が所以です。衛兵に関しては完全に脚色されたもので、実際には政略結婚に近い模様。

イサベルは助け出されたというよりも、彼女の機転で弟の墓参りを理由に監禁先から脱出しており、あらかじめフェルナンド陣営と密かに連絡を取り合った上で合流し4日後に内緒で結婚しています。

アラゴン側がイサベルと結婚したい事情とは?

アラゴンは南イタリア(ナポリ王国)を巡ってフランスと対立関係が出来上がっており、アラゴンの4倍の領土を持ち6倍の人口を持つイベリア半島の大国・カスティーリャとの関係強化は望むところでした。

イタリア戦争関係者

※ナポリ王、フェルナンド1世はアラゴン王アルフォンソ5世の非嫡出子。
ヴァロワ=アンジュー家はフランス王家傍流の家柄。

結婚の障害を解決した人物とは?

国王エンリケ4世の許可は無視するから良いとして、この二人最大の問題は同じトラスタマラ家の同族であること。

祖父母の代で兄弟にあたる又従兄弟の関係に当たります。その二人が結婚するにあたり、当時力を持った枢機卿ロドリゴ・ボルジアが背後で動いていたとも言われています。後に悪徳教皇と呼ばれる人物・アレクサンデル6世なので、色々と勘繰ってしまいますね。

ちなみにイサベルと結婚した当時のフェルナンドの年齢は17歳ですが、すでに庶子がいたとも。

この後、二人の結婚を知ったエンリケ4世は激怒し、イサベルを後継者から外してフアナ王女を世継ぎに指名するのですが、1474年にあっけなくエンリケ4世が死亡。

後継者争いは国内貴族達の大多数を味方につけていたイサベル優位に進んでいましたが、前国王最推しの娘(?)フアナも王位を諦めきれません。フアナはポルトガル王と結婚し、カスティーリャの王位継承争いにポルトガルを引き込んでいます(ポルトガルも積極的に介入した)

この両者の戦いで、国内の貴族とアラゴン王国を味方につけていたイサベルが勝利。カスティーリャ女王となり、夫のフェルナンドも共同王についたのでした。

長くなりそうなので、今回はここまで。次回はこの夫婦が何をしていったのかを探っていこうと思います。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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