前回まではイタリア、フィレンツェのメディチ家をメインに書いてきましたが、このメディチ家にも大きな影響を与えた(第一次)イタリア戦争に目を向けてみようと思います。

目次
イタリア戦争はどんなものだったの?
1494年〜1559年までの間に渡り、6度にわたって起きたイタリアを巡る戦いで『ハプスブルク・ヴァロワ戦争』とも『ルネサンス戦争』とも呼ばれています。
その別名の通り、神聖ローマ帝国やスペインを治めたハプスブルク家とフランスを治めたヴァロワ家が戦いました。
もちろんイタリアを巡る戦いということでイタリアの諸都市や教皇領も参加。そこにオスマン帝国やイングランドも参戦しますが、今回はフランス国王シャルル8世が攻め込んで始まった最初の『第一次イタリア戦争』のみに焦点を当てていきます。
それまでの戦争とイタリア戦争の大きな違い
過去のモンゴル帝国によるヨーロッパ遠征、もしくは十字軍遠征の時にイスラーム勢力との戦いを通じて火薬が伝来しました。その後の百年戦争で断続的に戦争が続くと火薬を使った武器、大砲や鉄砲(=火砲)が普及し始めます。
武器の変化は今まで戦争の花形であり騎士の名を高めた一騎打ちが廃れ、鉄砲を持つ歩兵たちが主役に躍り出る軍事革命に繋がりました。
さらにルネサンス期には学問や技術革新も発展。
そこに王権が強化された状況が加わって、シャルル8世は騎兵、歩兵に加えて砲兵という近代的軍隊を組織して、これまでにない規模の大軍を率いる事が出来るようになっています。
さらに「一つの国(フランス)に対抗するため複数の国で軍事的な行動をとる」という動きもこれまでのヨーロッパに見られない新たな動きだったとも言われています。
第一次イタリア戦争の関係図を見てみよう
イタリア戦争では多くの国の国王や皇帝が関わっているのでイラストで簡単にまとめてから解説していきます。まずは、それぞれの国の国王・皇帝がいつ即位していたのか?から。
※ナポリ王、フェルナンド1世はアラゴン王アルフォンソ5世の非嫡出子
ヴァロワ=アンジュー家はフランス王家の傍流
彼らはそれぞれ婚姻により関係を築いています。

※マクシミリアンはマリーが初婚。死別により後にビアンカと再婚しています
が、この関係図から分かるだけでも3つの問題点が生まれています。それが
- ナポリ王を巡る諍い:アラゴン王家傍流 vs. フランス国王
- ミラノ公の跡継ぎ問題:ジャンが亡くなった後、摂政である伯父が継いだが…?
- フランス国王と神聖ローマ帝国の間の問題
:神聖ローマ帝国皇太子マクシミリアンは、1477年に義父シャルル突進公が亡くなり領地を継ぐ→諍い継続 → 拗れる
です。それぞれ具体的に解説していきます。
また、イタリア戦争に繋がる問題が起きた頃に東でビザンツ帝国がイスラム勢力のオスマン帝国に滅亡させられるという大事件が起きており、その関係で一時期キリスト教圏の不仲な状況はマズいと危機感が生まれて和睦したのですが長く続きませんでした。
ナポリ王を巡る諍い
ナポリ王国はシチリア王国が紆余曲折の結果、シチリア王国とナポリ王国の二つの国に分かれて出来た国です。
[timeline title=”南イタリアの変遷”]
[ti label=”8世紀以降” title=”アラブ人支配”]東で起こったイスラーム勢力の支配下に[/ti]
[ti label=”11~12世紀” title=”ノルマン人支配”]ルッジェーロ2世によりシチリア島とナポリにまたがるシチリア王国が誕生[/ti]
[ti label=”1194年~” title=”神聖ローマ帝国皇帝がシチリア王に”]シチリア王国の王女との結婚により国王となり、その後しばらくシュタウフェン朝系統の国王が続く[/ti]
[ti label=”1266年” title=”フランス王の弟、シャルル=ダンジューがシチリアを支配”]神聖ローマ皇帝とローマ教皇が不仲のため、フランス国王ルイ9世の弟シャルル=ダンジューを唆し侵攻させた[/ti]
[ti label=”1282年” title=”シチリアの晩祷”]シャルル=ダンジュ―による支配に不満を募らせた住民達がフランス人を追い出し、南イタリアへ亡命[/ti]
[ti label=”1282~1302年” title=”シチリア晩祷戦争”]ナポリ王国(南イタリア半島部)をアンジュー=シチリア家、シチリア王国(島嶼部)をバルセロナ家(アラゴン王家)が支配することに決定[/ti]
[/timeline]
そのうちナポリ王国はカペー朝国王ルイ9世の弟・シャルル=ダンジュー(イタリアだとカルロ1世)の家系・アンジュー=シチリア家が続きましたが、同族内での政略結婚や武力・暗殺によって男系は断絶しナポリ王位がヴァロワ=アンジュー家にうつります。
一方のシチリア王国では、シャルル=ダンジュー以前の神聖ローマ帝国(ホーエンシュタウフェン朝)系統の後継者を引っ張り出します。シュタウフェン朝最後のシチリア王・マンフレーディの娘を妻にしたアラゴン王・ペドロ3世を王位に就かせました。以後、シチリア島ではイベリア系王朝の支配が続いています。
ナポリ王位がフランスからアラゴン系へ
その後、両国の関係が変わったのが1442年のこと。アラゴン王アルフォンソ5世によってナポリ王国が征服されたのです。ここに南イタリアのナポリ王国ではフランス系統の国王からイベリアのアルゴン王国の系統の血筋に移行しました。
が、アルフォンソ5世には嫡子がおらずアラゴン王国とシチリア王国は弟に、ナポリ王国は庶子のフェルディナンドに継がせています。
これに反対したのが当時のローマ教皇でしたが、イスラム勢力を警戒した次の教皇が黙認して王位が認められました。
[timeline title=”ナポリ王国の変遷”]
[ti label=”1435年” title=”後継者を残さず国王が死去”]アンジュー=シチリア家が断絶し、ヴァロワ=アンジュー家とアラゴン王家で王位継承争いが始まる。
ミラノ、フィレンツェ、ヴェネツィアと同盟(ミラノは途中でアラゴン家の支配下に組み込まれた)を組んだヴァロワ=アンジュー家が勝利。この時点でナポリはヴァロワ=アンジュー家が支配。[/ti]
[ti label=”1442年” title=”アラゴン王アルフォンソ5世がナポリを征服”][/ti]
[ti label=”1458年” title=”フェルディナンド1世が即位”]非摘出子だったが父アルフォンソからナポリ王位を継承した。
庶子であることを理由にローマ教皇がナポリ王の継承に反対するが、オスマン帝国の勢力拡大(後述)を危惧した次の教皇がフェルディナンド1世をナポリ王と認める。[/ti]
[/timeline]
フランス系統のヴァロワ=アンジュー家はナポリを支配していたのに簒奪されたこと、教皇から文句が出る位の立場だったことでヴァロワ=アンジュー家には王位継承に文句を言う権利は残りました。さらにナポリ王国の貴族の中にはアラゴン系の王朝をよしとせず「フランスに戻ってきて欲しい」と考える派閥も残りました。
ところが、そのヴァロワ=アンジュー家が断絶。その所領と共にナポリ王位の請求権をルイ11世が受けつぐと、息子シャルル8世にも同様の権利が受け継がれていくのでした。
ローディの和
1447年にミラノ公国で残酷・変質的な性格でありながら君主としては一流のフィリッポ=マリーアが亡くなったためミラノでは継承戦争が勃発していました。
結局ミラノは共和国宣言を発しましたが、フィリッポ=マリーアの一人娘を妻に持つフランチェスコ=スフォルツァはその立場を理由に1450年にミラノ公を僭称します。
このスフォルツァのミラノ公位の引き継ぎをめぐる意見の対立から
ベネツィア・ナポリ・サヴォイア・モンフェッラートの同盟
V.S.
ミラノ・フィレンツェ・ジェノヴァ・マントヴァの同盟
との間で戦いが開始。
結局、色々あってスフォルツァの家系がミラノ公を継いでいきましたが、イタリア諸都市でいがみ合っていたのが分かる一件です。他にも神聖ローマ帝国によるイタリア政策で皇帝派と教皇派に分かれていがみ合っていたという経緯もあったりしてイタリア諸都市はとにかくバラバラでした。
ところが、オスマン帝国への危機感を募らせ、五大国は手を結ぶことにしたのです。これをローディーの和と呼んでいます。
ナポリ王を巡る諍い、再び
オスマン帝国の出現で目をつぶってましたが、庶子でナポリ王についたフェルディナンド1世と教皇との対立は激しくなっていました。結局、当時の教皇によって破門させられます。
当時のインノケンティウス8世(1484−1492年)は聖職売買や親族登用、派手な女性関係など堕落した教皇の典型例
教皇の立場としては「フェルディナンド1世を更に追いやりたい」ということでナポリ王家の縁者フランス王「シャルル8世をナポリ王に推薦しよう!」という話が持ち上がります。この時は結局、両者に和議が成立して破門も取り消し。シャルル8世は誘われるだけ誘われて有耶無耶にされてしまいました。
この後1494年初めにフェルディナンド1世が死亡。王位を彼の息子アルフォンソ2世に渡しますが、シャルル8世は王位に異議を唱えることになります。
ミラノ公の跡継ぎ問題
アルフォンソ2世が即位した同年、ミラノでも異変が起こります。
ミラノでは、上述したミラノ公を僭称したとして物議を醸しだしていたフランチェスコ=スフォルツァの孫ジャンが病弱のため死没したのです。
とは言え生前から若いミラノ公に変わって実権を握っていたのは叔父のルドヴィーコ。ジャンがナポリ王の娘と結婚するとミラノから追い出していました。
ミラノ公ジャンと彼の妻の間に息子もいたのですが、ルドヴィーコは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の再婚相手として嫁いだジャンの妹ビアンカ・マリア・スフォルツァに
「兄ジャンの遺産を渡す」
代わりに「ミラノ公の継承」の許しを得ることに成功させています。
が、このミラノ公の継承にナポリ王国のアルフォンソ2世が待ったをかけました。ルドヴィーコではなく本来ミラノ公となるはずの孫に公位を渡すよう要求したのです。
ルドヴィーコは自身の失脚を恐れてアルフォンソ2世と敵対していたシャルル8世にナポリ王になるよう煽り(王位継承に異議を申し出てから既に軍事的な準備は終えていた)、自分の領土の通行権を与えると
シャルル8世は過去の推薦を盾に南下を開始。その推薦した教皇の次の教皇と折り合いが悪く、別の枢機卿を即位させたいという思惑も持っていたようです。
ハプスブルク家とフランスの対立を詳しく見てみよう
そんなイタリアの諸都市でしたが、ただ単にやられるだけにはいきません。フランスと犬猿の仲だったハプスブルク家と近づいていきます。
ハプスブルク家のマクシミリアン(後の神聖ローマ帝国皇帝)はブルゴーニュ公シャルル突進公の娘と結婚していました(初婚)。ブルゴーニュはフランス王家と互角以上に渡り合う程の栄華を誇り、百年戦争勝利後に王権を確立させたい王家が力を削ごうとして対立。
この頃の騎士層・領主層は度重なる戦乱で困窮化しはじめており、王家にとっては大チャンスでした。
その対立の中でシャルル突進公が戦死して娘と夫のマクシミリアンがブルゴーニュ公を引き継ぎますが、フランス王家が圧力をかけてきたり両者で戦ったりを繰り返したため完全に確執が出来上がっています。
フランスにとってハプスブルク家とは??
一方でフランスは地理的な問題でハプスブルク家を非常に嫌がっています。
マクシミリアンの息子フィリップ美公が西のアラゴン王家の王女フアナと結婚し関係を深めていました。アラゴン王家の方も婚姻政策などでイベリア半島の大部分を支配しスペイン王国を誕生させているので、両国に連携されると囲まれて困った事態に陥ります。ただでさえフランスはナポリ王位の件でアラゴンとは折り合いが悪いのに…
イタリア戦争を始めた時点で言うとアラゴン王は以前のままでしたが、カスティーリャとレオンというイベリア半島の国の権利はアラゴン王女フアナとハプスブルク家のフィリップ美公が持っていました。
そんな背景があったのでフランスとハプスブルク家は敵対関係にあったわけです。
フランス南下する
当時フィレンツェ共和国のトップだったのがメディチ家のピエロ。共和国内ではどちらに着くか論争が起きていたにも関わらず、彼は独断でフランス軍の入城を許可したため追い出されています。
ここら辺の状況については前回書いたメディチ家の話の中にあるので割愛。
とにかく、フランスはフィレンツェを抜けて教皇領に到着。1495年2月には教皇領も退けてナポリ王国へ到着。
ミラノ公の後継者争いで待ったをかけたアルフォンソ2世は自身の弟にその地位を譲位して逃亡していたため、ミラノ公についた弟のフェルディナンド2世と対峙しますが大軍を前にどうすることもできず、ナポリは王都をはじめ主要拠点を失って他の領地へと後退してしまいます。
神聖同盟の結成とフランスの大敗
こうして南下したフランスにイタリア諸都市が対抗しようと、同じく敵対するハプスブルク家が結びつきます。加えて一時はイングランドへの協力打診も行なっていたようです。
この動きには今まで影に隠れていたヴェネツィア共和国の水面下の動きがあり、1495年3月に同盟を結んだのです。この同盟は神聖同盟またはヴェネツィア同盟と呼ばれています。
また、ナポリ王は本来アラゴン王の傍流が即位していたため、その関係を伝ってカスティーリャ・アラゴン王フェルナンド2世の助力も得ることに成功。シチリア島(こっちは完全にアラゴン家が支配していた)からの進軍で王国領を奪い返すと、撤退したフランス軍を今度は北方の教皇軍・ヴェネツィア軍・フィレンツェ軍、そしてフランスから寝返ったルドヴィーコ=スフォルツァ率いるミラノ軍が包囲。
周辺諸国を敵に回したフランス軍は惨敗したのでした。