宗教

マザコン疑惑?のある聖王ルイ9世(在位1226~1270年)は何をした人?

歴ブロ

ルイ9世カペー朝第9代国王です。

カペー朝第8代国王ルイ8世とカスティーリャ王の娘ブランシュの間に生まれました。フィリップ2世の孫にあたります。

当時のカスティーリャ王は国土回復運動レコンキスタの一貫、対イスラム戦争の指揮を務め勝利を導いた人物(レコンキスタはその後も続いています)。ちなみにブランシュの母親はイングランド王女、祖母はアリエノール・ダキテーヌです。

父を早くに亡くしているためルイ9世は12歳で即位しました。そのため、即位当初は母のブランシュが摂政としてついています。

今回はルイ9世が即位してから母による摂政時代も含めての治世をまとめていきます。

スポンサーリンク

母による摂政時代

ブランシュは祖母の血なのか政治にもかなり影響を及ぼした女性です。

夫のルイ8世が王太子時代にイングランドへ侵攻した第一次バロン戦争(←イングランド王ジョンの時代。『プランタジネット朝』参照)では二つの戦艦を指揮して攻め込んだ話も残っています。

幼君を抱えた状態だとこれほど心強い王妃もいないでしょう。実際に摂政時代にも幼い国王に影響力を行使したい諸侯らが反乱を起こしたり、2代前から続いていた政策を上手く継続したりしながら治めていました。

彼女が摂政を行っている中でアルビジョワ十字軍問題は解決され、ルイ9世の弟・アルフォンスとトゥールーズ伯の娘との結婚により終結させています。

Q
アルビジョワ十字軍とは

祖父フィリップ2世の頃のローマ教皇インノケンティウス3世の提言により始まったキリスト教の異端と言われた宗派(アルビジョワ派)を信じるトゥールーズ・アルビ地方の豪族達を征伐するために立ち上げられた十字軍です。

フィリップ2世は最初の頃は乗り気じゃなかったのですが、ある程度情勢も落ち着いたところで参加を始め父王の代でも継続しています。

フランス王家としては南フランスへの王権を拡大させたいという思惑があり、教会の「異端派を追いやりたい」という思惑と一致して遠征するようになったようです。

母親がそんな感じの非常に強い女性だったのに対して優しく人格者と言われているルイ9世はマザコン気味なんてことも一部で囁かれています。

ルイ9世による親政開始

やがてルイ9世も成長すると1234年にはマルグリット・ド・プロヴァンスと結婚、36年には親政を開始しています。結婚当初は大層仲睦まじかったそう。

れきぶろ
れきぶろ

嫁姑問題ではマルグリットが気の毒と思える話がチラホラと残っています。

逢瀬の際に母が邪魔してくるのでマルグリットの部屋に繋がる裏階段でコッソリ会っていた、産褥熱で苦しんでいるマルグリットに寄り添っていたルイ9世に対して「あなたがいても何もできることはないんだから」とブランシュが息子を妻から引き離そうとしていたとか。

こういったことがマザコン疑惑が生まれた理由のようです。

後のパリ大学となるソルボンヌ神学校の創設をはじめ、学問、芸術、慈善事業を振興しています。

慈善事業として有名な逸話がフランス各地に救貧院を建て、国王自ら不治の病と恐れられた患者の足を跪いて洗った...というもの。

当時の医療技術はまだまだ発展途上。戴冠した国王は神の祝福を受け特別な力を有すると信じられており、その一環で足を洗っていたそうです。『病人たちを癒す聖ルイ』として後世の芸術家に描かれています。

その他、聖テンプル騎士団の育成や裁判制度の改革国王金貨の基準の設定などで中央集権化を推し進めて内政を安定させフランスの地位を一気に押し上げました。

ポワティエの反乱とイングランドとの国境設定

ルイ9世は内政に力を入れたと同時に、外交面では争いを起こさないように調停者の役割を全うしています。その調停の一つがジョン以降のイングランドとの領地抗争における(一応の)決着でした。

この領地争いを収めるキッカケになったのがフランス国内で起きたポワチエの反乱です。

内乱なのにイングラドが絡んだのは、これまでの数々の内乱と煽りと同じような手法を取ってきたから。ポワチエの反乱にも当時のイングランド王でジョンの息子・ヘンリー3世がしっかり介入してきました。

ヘンリー3世とジョン王の関係

ということで内乱でありながら、対イングランドの様相を呈しています。ちょっとだけ詳しく見てみましょう。

ポワチエ伯とイングランドの関係とは?

ポワチエ近くのリュジニャン城を拠点としたラ・マルシュ伯は前イングランド王ジョンの未亡人イザベラと再婚していました。

ところが、イザベラはフランスに来ると一臣下の妻としてしか扱われず激怒。夫と息子に反乱を起こすよう扇動したのです。

一方のヘンリー3世も父の失政から失った領地回復を願って母の思惑に乗っかります。こうしてイングランド王ヘンリー3世と共にラ=マルシュ伯は反乱を起こしましたが、ルイ9世はこれを次々と鎮圧させていきます。

基本、諸侯達にとっては大陸に領地を得ても離れた場所を統治する苦労やイングランドよりも栄えた場所に攻め込む難しさを考えるとモチベーションもなかなか上がらない。ルイ9世に鎮圧されていくのを見たイングランド諸侯らはすぐに帰国してしまいます。

こうして次々と味方を失ったラ・マルシュ伯は降参。ヘンリー3世との間にも

1259年のパリ条約を持って、それぞれの領地を確定させたのです。

二度の十字軍遠征

ルイ9世の治世下であった当時は、二度目の第5回十字軍遠征で神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世が交渉によりイェルサレムを奪還(1228~1229年)した後、再度イスラム王朝のアイユーブ朝に奪われてしまった(1244年)という状況でした。

ところが、神聖ローマ帝国ではフリードリヒ2世がローマ教会と対立して破門、イギリスでは第2次バロン戦争の対応に追われているため、十字軍に遠征する余裕なんてありません。

第6回十字軍の頃の周辺諸国事情

※第2次バロン戦争は、ポワチエの反乱でさっさと逃げ出したイングランド諸侯が信用できなくなったヘンリー3世が外国人を優遇するようになったことや外征による財政難で不満が高まっていたのが原因となっています。

その上、これまでの十字軍の失敗で世論もついてこない。そんな状況下でルイ9世は「キリスト教会のためにイェルサレムを取り戻そう」と立ち上がりました。

ルイ9世による十字軍遠征

第6回十字軍の遠征は、母・ブランシュをはじめ、周囲の反対を押し切って始まりました。

この時、ルイ9世イェルサレムを奪ったイスラム王朝・アイユーブ朝の本拠地エジプトに攻め込みますが、大敗し捕虜となり十字軍遠征中に得た占領地を手放し身代金によって解放されています。

ちょうど身代金交渉を行っていた時期にアイユーブ朝ではクーデターが起こっていたため、解放直後はアイユーブ朝に付け込むチャンスでもありましたが、似たような時期に母のブランシュが亡くなったため帰国を余儀なくされました。

西ヨーロッパ有数の君主が大敗し捕虜となったことでキリスト教世界は大きく揺らぎ、この頃にまだ存続していた十字軍国家を守る戦力は大きく減らすこととなります。

第6回十字軍以降、ルイ9世はフランス国内での内政とヨーロッパないでの外交に励む毎日でしたが、年齢と共に衰えていくと「死ぬ前にせめて...!」とイェルサレム奪還を諦めきれず第7回十字軍を望むようになりました。

ルイ9世の死亡原因とは??

エジプトでは以前起こったクーデターでアイユーブ朝が倒れて新たにマルムーク朝が興っており、マルムーク朝が興ってからのシリアは大部分のキリスト教国家の都市が落とされている状況でした。

第7回十字軍の頃の地図

このマルムーク朝を落とすため、イタリア南部との付き合いが深くキリスト教への改宗も考えているというチュニジアを支援し拠点にしてから攻撃しようとルイ9世は考えていたようです。

そうして1270年。とうとう第7回十字軍を開始することになります。

なお、この時のシチリア国王はルイ9世の弟・シャルル=ダンジュー。野心家だった彼は自身の領地拡大も視野にチュニジアに攻め込みたいという意図を持っていました。

そんな思惑があれば、当然向こう側にも気づかれるに決まってます。いざ行ってみると予想以上に現地勢力に抵抗されてしまいました。思っていた以上に戦いが長引き、清潔な環境に程遠い中で過ごすことになります。

飲み水は劣悪、暑さも酷い...ということで病気が蔓延。

既に50歳を超えて体力の落ちたルイ9世にとっては非常に厄介な環境で、彼も病気にかかると命を落としてしまいました。死因はチフスもしくは赤痢であったとされています。

ただし、近年では現地の食事をとらずに偏った食事による懐血病だった説が唱えられているようです。

French Crusader King Louis IX died of SCURVY,expert claims(Daily Mail Online)2019年6月24日より

こうして、フランスの内政を充実させ、外交問題にも取り組んでフランスの国際的地位を押し上げたルイ9世は、二度の十字軍に失敗しその生涯を閉じることとなったのです。

ABOUT ME
歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
スポンサーリンク
記事URLをコピーしました