17世紀の危機と神聖ローマの大ピンチ三十年戦争の裏事情
フランスで1562年から1598年まで宗教内乱・ユグノー戦争が起こったように、神聖ローマ帝国でも宗教を発端とする争い三十年戦争が1618年から始まりました。
もう少し先にイギリスでも同様の動きが現れることになるのですが、神聖ローマ帝国の危機感は国の在り方が変わるほど深刻な影響を及ぼすことになります。
そんな三十年戦争を中心にまとめていきたいのですが、長くなりそうなのと他国による介入がひどすぎてややこしいので、今回は
- 三十年戦争が始まった理由
- 他国が介入してきた背景
を中心にまとめた後、「三十年戦争がどういう経緯をたどったか」「最終的にどう変化したのか」2回に分けて書いていこうと思います。
17世紀の危機
15世紀半ば~始まった大航海時代以降、海外交易による好景気がいよいよ収まってきたのが、この時期です。新大陸からの銀の流入がかなり落ち込んでいます。
そのうえ17世紀には世界的に小氷期が到来。イングランドのテムズ川が凍るほどの寒波をもたらしました。
その影響から凶作が起こり、その後に続く飢饉、疫病、人口の停滞なども続いていきます。17世紀半ばには【17世紀の全般的危機】と呼ばれるような状況になったのです。
三十年戦争が起こった理由とは?
原因は宗教改革の頃にまでさかのぼります。
神聖ローマ帝国ではハプスブルク家のカール5世(神聖ローマ皇帝在位:1519-1556年)が即位していた時代には既にフランスと対立しており、フランスは南東にある大帝国オスマン帝国と手を結んでいました。その過程でルター派を含む新宗派のたちをプロテスタントと呼ぶようになり、神聖ローマ帝国はプロテスタントらとの内戦に発展します。
そうなるとフランスとオスマン帝国の思うままですから、なるべく内戦は短期に治めたい。そういうわけで結んだのが1555年に結ばれたアウクスブルクの宗教和議でした。
このアウクスブルクの宗教和議は
- 領邦(諸侯/都市)単位でカトリックかルター派を決めることができる
- 領邦のトップの選択に従わないなら住民を追放する
という内容です。
そんな中、神聖ローマ帝国の東端にベーメン王国(現チェコ/ボヘミア王国とも。ボヘミアはラテン語、ベーメンはドイツ語)では領邦のトップと住民の間で宗教選択をめぐる問題が発生します。
元々ボヘミア王国は、ルターが登場する前段階で宗教改革の前身フス派が誕生し、フス戦争を経て皇帝から信仰を勝ち取っていた地域でした。そんな地域を婚姻政策により三十年戦争が勃発する前からカトリック派のハプスブルク家がボヘミア王位を継承しています。
最初の頃はハプスブルク家が王位についても(その王が敬虔なカトリック教徒であっても)穏健策をとっていましたが、代替わりして(のちの)フェルディナント2世が即位するとアウクスブルグの宗教和議の原則に則って住民にカトリックを強制しました。
この強硬姿勢に反抗して、王の使者をプラハ城の窓から投げ落とす事件(プラハ窓外放出事件)が起こり、続いてボヘミアの貴族で新教徒のファルツ選帝侯フリードリヒを中心にハプスブルク家に抵抗する動きが生じました。
そうした経緯があって三十年戦争が勃発したのでした。
三十年戦争がこじれた理由とは?
経緯だけを見ると宗教戦争のように見えますが実際にはそんな単純な構図ではなく、交易路をめぐる制海権をめぐる争いを三十年戦争の中で行っていたりヨーロッパでの地位を高めるためにハプスブルク家を抑え込もうとするような力も働き、他国の介入を招きました。
背後には景気悪化や気候不順による社会不安があったと考えられています。
さらに神聖ローマ帝国内の領邦君主たちもハプスブルク家が強くなる状況は避けたいと考えていました。
そんなわけで三十年戦争は宗教戦争でもありましたが、様々な勢力の思惑が絡んだ政治的トラブルの末の戦争でもあり、非常に拗れてしまったのです。
スペイン vs. ネーデルラント(オランダ独立戦争)
最初に紹介するのはハプスブルク家と既にやりあっていた1568年から始まったオランダ独立戦争に関する話から。
神聖ローマ帝国とスペインはかつてカール5世(カルロス1世)が皇帝と国王を兼任していた大帝国でした。あまりにも広いため、スペインを息子のフェリペ2世に、神聖ローマ帝国を弟のフェルディナント1世に譲ってスペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家に別れています。
オランダ独立戦争はそのフェリペ2世がカトリックを強要したことに始まっており、三十年戦争以前の段階の反ハプスブルク家の一つが北部ネーデルラント(以下「オランダ」)でした。
独立戦争はいったん休戦していましたが、オランダが交易で台頭し始めた時期ともかぶります。世界経済の中心がオランダのアムステルダムに移り、スペインの経済的没落も相まって両者の対立は休戦中にも続きました。
三十年戦争が始まるとネーデルラントはしっかり新教側に加わっていくことになるのです。
- アムステルダムが世界経済の中心となった理由とは?
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スペインでは15世紀後半~16世紀、異端審問が多く行われていました。1580年にポルトガルとスペインが同君連合になると、ポルトガル在住のキリスト教に改宗済のユダヤ人が異端審問を恐れて移住しています。
さらにフランスでも新教徒の迫害やユグノー戦争(1562-1598年)を避けて移住してきた人たちが多くいました。イギリスでもピューリタンが(以下略)
ユグノーもピューリタンもカルヴァン派。カルヴァン派と言えば豊かな人が信仰した宗派で有名です。
移住した人たちは商業活動に熱心な人が多く、オランダが世界経済の中心になったのも納得できるのではないでしょうか。
スウェーデン vs. デンマーク
ヨーロッパで最も寒い場所の北欧。大航海時代で地中海から大西洋に交易の中心が移ったことや各国が重商主義を行ったことで自由貿易が難しくなったことから、17世紀頃にはやはり難しい立場に置かれていました。
中世後半の14世紀からは北ドイツを中心としたハンザ同盟に対抗するため、デンマークがスウェーデンとノルウェーを従える形の同君連合としたうえでカルマル同盟が結ばれていましたが、世界情勢が変わりハンザ同盟が衰退。
「わざわざカルマル同盟に入っている必要もなくなった」ということで、スウェーデンはデンマークに反旗を翻してカルマル同盟から抜けていました。両国は互いをけん制するためバルト海の覇権を争うようになります。
ということで、デンマークはスウェーデンに対抗するため、スウェーデンはデンマークに対抗するため北ドイツへの領土拡大を狙っていくことになるのです。
※プロテスタントの保護や神聖ローマ帝国の北上を阻止するため、とする説もあるようです
ちなみに北欧は北ドイツを狙える場所にあるだけあって宗教改革ではしっかりとルター派が流入し、改宗しています。スウェーデンもデンマークも同様にルター派となっていました。
ハプスブルク家(スペイン/神聖ローマ) vs. フランス
既にフランスは、ユグノー戦争をブルボン朝を開いたアンリ4世が終わらせており、そのブルボン朝では絶対王政の時代に突入し始めていました。
そもそも神聖ローマを治めるハプスブルク家はフランスと犬猿の仲。第一次イタリア戦争から始まり6度の戦争が起こりますが、最終的に
- 莫大な戦費がかかった末に両国が破産したこと
- フランスはユグノーに対処せざるを得ない社会情勢になっていたこと
以上のような理由から1559年に結んだカトー・カンブレジ条約でイタリア戦争は終結していたはずでした。
が、この条約でフランスはイタリアへの権利を放棄せざるを得なくなり、占領していたコルシカ島のほか、ミラノ・ナポリ・シチリア・サルディーニャ・トスカーナ西南岸がハプスブルク家の支配下に置かれます。その報復の機会をフランスは伺っていたようです。
※この支配地域はスペイン・ハプスブルク家の支配下に置かれています。
というわけで、宗教戦争は複数の国家や立場の人々が神聖ローマ帝国潰しやその敵対相手を潰すために介入。どんどん戦火が広がってしまったのでした。