歴史の転換期!宗教改革に至るまでの背景を詳しいけど簡単に解説
1000年以上、西ヨーロッパ世界で力を持ち続けていたのがローマ=カトリック教会。長く続く中で教会の腐敗や堕落が目に余るようになっていました。
そんな中、16世紀のドイツ(当時は神聖ローマ帝国)ではマルティン=ルターによるローマ=カトリック教会に対する批判がなされます。ここからカトリックから新たな宗派・プロテスタントが分離することに。
この一連の改革・運動のことを宗教改革と呼んでいます。
宗教改革は見方によっては後の近代国家成立に繋がる側面があるほど、世界史に大きな影響を与えました。
宗教改革が起こるまでの時代背景や一連の流れ、ルター含むどんな人たちが宗教改革を行ったのか?現代とはどう繋がっていくのか?など気になる点も見たいところですが、長くなりそうなので最初は背景を詳しくまとめていきます。
宗教改革が起こった当時の時代背景を見てみよう
宗教改革が始まった16世紀初めよりも100年も前の時点で、
- 教会に富と権力が集中
- 聖職者の腐敗や堕落
が始まっていました。
カトリック教会の権力が高まっていく経緯は下の図が分かりやすいです。
フランク王国時代、本来なら王家の家政を取り仕切る宮宰の立場であったピピンが王位に就く際に協力してくれたローマ教会に土地を寄進した756年のピピンの寄進以降、聖職者と世俗権力との繋がりが強くなっていきました。
結果、本来、キリスト教の教えを熱心に学んだ者が付くはずの教皇の地位に、世俗権力にまみれた俗人が立つことも増えていきます。国王や皇帝に口出しされることも珍しくなく、国と教会で叙任権闘争が行われることもありました。
※叙任権とはローマ・カトリック教会の聖職者を任免する権限のことです。
最も有名なのが神聖ローマ帝国のザーリアー朝、ハインリヒ4世の治世下で起こったカノッサの屈辱でしょう。
権力闘争を通じて教会の持つ権威・権力は最高潮にまで高まりますが、一方で国王や皇帝相手の権力闘争に勝てる教皇が必要だった訳で…
強権を発動したり、時に後ろ暗いことも出来たりするような人材が教皇として立つことになります。こうして権力を得ると同時に腐敗に拍車が掛かっていったのです。
ところが、十字軍遠征(11世紀末から13世紀にかけて行った)に失敗してからは状況が変わっていきます。十字軍遠征を言い出したのが教会のため、教会や教皇の権威が揺らぎ始めました。
こうして、教会に対して物申せる下地が西ヨーロッパ世界で出来上がっていきます。
異端運動
キリスト教では、教会による公認された教え以外の教義を持つ教派を異端として破門してきた過去があります。
325年のニケーア会議以降「正統か異端か」などをテーマに話し合う公会議が度々行われました。20世紀においてもヴァチカンで公会議が開かれたようです。
10世紀半ばに生まれフランス南部とイタリア北部で広まったカタリ派や12世紀にフランスの都市リヨンで広まったワルド派と呼ばれる教派は『ローマ教会の堕落への批判から生まれたもの』とも言われ、どちらの教派も公会議(第3ラテラン公会議)により議題に上っています。
※カタリ派は完全に異端宣告され、ワルド派は宣告されなかったものの説教の許可が下りずに地下に潜った運動に変化していった。
ウィクリフによる教会批判
さらに14世紀にはイングランドの神学者ウィクリフが「清貧であるべきはずの教会が特権を得て富を蓄えている」として完全に教会や教皇の腐敗に対する批判を行うようになりました。
彼は当然異端とされましたがイングランドのランカスター公の元で匿われ、国内外に影響を与えます。最期は病気で亡くなりましたが、ウィクリフの思想は大きな影響を与えていくことになるのです。
ワットタイラーの乱への影響
百年戦争中に起こったイングランドのワットタイラーの乱を指導した僧侶ジョン・ボールがウィクリフの考えに同調。その思想を持って農民たちを扇動したとされています。
フス戦争
神聖ローマ帝国の領邦国家の一つボヘミア王国(現在のチェコ)の首都プラハでもウィクリフの思想の影響を受けたフスがカトリック教会を強く批判しました。
ウィクリフの思想とは若干違って教皇の権威自体は批判していませんが、彼の説教はボヘミアの貴族や民衆にも広まり影響力を拡大させたため、教会から危険視されるようになります。フスはコンスタンツ公会議に召喚されて自説を主張しますが、危険人物扱いの異端扇動者とされて火刑に処されました。
これに抗議した貴族たちが同盟を結び、フスの支持者にウィクリフの支持者が加わって新たな宗派・フス派としてくくられるようになります。そんな背景があった上で当時のボヘミアはチェコ人が多数派ながらルクセンブルク家の支配によりドイツ語を強制されるなどしていたため、ルクセンブルク家に対する反対運動と結びついて戦争にまで発展したのでした。
フス戦争は15年ほど続きますが、最期の方は長引く戦争でボヘミアの人口が減少。農村部も疲弊して最終的には内部抗争へ発展し、最終的にカトリック側の勝利となりますが、ミサにおけるパンとワインを拝領する権利を勝ち取りました。
サヴォナローラによる神権政治
異端とされた人物や教派の紹介、締めくくりはサヴォナローラです。
イタリア北西部生まれのサヴォナローラは厳しいと有名なドミニコ会修道士です。若い頃に聞いた説教に感銘を受け、家を捨ててドミニコ会に入信し熱心に学ぶと、イタリアでルネサンスの中心地フィレンツェへ転任することに。
当時のフィレンツェはメディチ家が実質的に牛耳っており、パトロンとして文化芸術を保護していました。キリスト教の本来の教えである質素倹約の教えとは正反対の状況だったことから、サヴォナローラはメディチ家による独裁体制を批判。本来の信仰に立ち戻ろうと訴えると民衆に受け入れられて、フィレンツェは神権政治へと移行します。
サヴォナローラの方もフィレンツェでの政治は非常に厳しく、市民生活は殺伐としたものとになりました。最初の頃は受け入れられたフィレンツェ市民たちもついていけなくなったのです。
一方、サヴォナローラは教皇のやり口も見えるようになってきます。サヴォナローラが神権政治を行っていた時のローマ教皇は『悪徳教皇』として名高いアレクサンドル6世。フィレンツェだけでなく教皇国への批判もするようになり、破門させられます。
既に人心も離れていたこともあって、サヴォナローラは拷問の末に火刑に処され殉教したのでした。
ということで、宗教改革以前からカトリックに対する批判の声と運動は何度も起こるようになっていました。加えて、宗教改革が神聖ローマ帝国内から始まった理由もあるのですが、長くなるので次回に持ち越そうと思います。