ローマが後世に残した最大の遺産とは?【キリスト教の成立と発展】
キリスト教は4世紀にローマ帝国で国教化された後も信仰され続け、現在の信者数は全宗教の中で最も多い23億人を超えているとも言われる世界宗教の一つです。
今回は、そんなキリスト教がどう誕生し発展していったのかを確認していきます。
当時、パレスチナで信仰されていたユダヤ教を簡単におさらい
イエスの出身地であるパレスチナは、当時はローマの支配下にありました。このパレスチナで当時信仰されていたのはユダヤ教です。
この場所は過去にヘブライ人と呼ばれる人たちがエジプト新王国があった時代、圧政に耐え兼ねモーセに率いられながらエジプトを脱出【出エジプト】した者達が苦難の末に同胞と合流した場所でもあります。
周囲の民族の多神教の影響を受けていた時期もあったのですが、出エジプトの際に民族的苦境を受けると彼らは周辺民族とは異なる一神教を信仰するようになっていきます。
ヤハウェを唯一神として認め、神と契約関係を結んだユダヤ人だけが救済される選民思想や苦境からの救済を実現する救世主【メシア】の到来を待望するという信仰です。
さらに出エジプトだけでなく、前6世紀には彼らの国は滅ぼされた上に新バビロニア王国の王により捕虜として連行される出来事まで起こります【バビロン捕囚】。
やがて新バビロニア王国の滅亡により捕囚とされていた者たちは解放され、故郷へ戻るとその信仰心を目に見える形に変えていくようになります。ヤハウェの神殿を再建したり儀式や祭祀の規則を定めて確立させ、いよいよユダヤ教が始まっていきました。
なお、ヘブライ人という名称は他民族によって用いられた民族名のようなものであり、バビロン捕囚から解放された頃辺りからはユダヤ人と呼ばれるようになっています。
キリスト教の成立
キリスト教が信仰されるきっかけとなったイエス(前7or4~後30年頃)はユダヤ教の発祥の地パレスチナの出身ということは前述した通りですが、そのユダヤ教は当時一枚岩ではありませんでした。
- パリサイ派:神の戒めである律法を厳格に順守。ユダヤ教の知識を独占して守ろうとした
- 熱狂的な反ローマの民族主義者
- 禁欲的な修道生活を送る者達
こういった人々などに分かれていたそうです。
イエスの先駆者とは??
その中の『禁欲的なタイプ』の者達の中から『洗礼者』と呼ばれるようになる者が出てきます。それがヨハネ(B.C.6~2?年生誕-A.D.36年死去)という人物です。
※洗礼者ヨハネとイエスの高弟のヨハネは別人です
彼は
「祭司たちのような上層ユダヤ教徒が最近堕落している」
「神の怒りと裁きを受けるだろう」
とユダヤ教の上層部を批判するようになっています。
その批判された側に共和政ローマ末期~ローマ帝国初期の頃に元老院からユダ王国(過去のユダ王国とは別物)の王号を得たヘロデ大王(在位:前41~前4年)の一族がいたため、捕らわれ殺されました。
※ローマから支援を受けてヘロデ朝が成立。完全服属後は息子が一領主として統治しています
この時ヨハネの首を求めた娘がヘロデ大王の孫娘...サロメ(へロディアの娘)という人物だと言われています。
後にまとめられたキリスト教の聖典『新約聖書』に複数の記述があることでも知られていますが、古くから多くの芸術作品(絵画・戯曲・オペラなど)として取り上げられているため違う方面で名前を聞いたことがあるかもしれません。
そういった人物もポツリポツリ出てきている中でナザレ(イスラエル北部の都市)で少年時代を過ごしたイエスが現われました。
イエス・キリスト
おそらくヨハネの影響を受けていたと思われるイエスが活動を始めたのは後29年頃。
当時のユダヤ教内部で最も力を持っていたのはパリサイ派と呼ばれる人々でした。このパリサイ派に対してイエスは疑問を持ち始めていたのです。
前述したように
- ヤハウェ信仰
- 神と契約しているユダヤ人だけが救済される排他的な選民思想
- 苦境からの救済を実現する救世主【メシア】の到来を待望
ユダヤ教はこのような信仰心を持っていましたから、イエスにとっては到底受け入れられないものだったと考えられます。
というのも(キリスト教の教えを聞くと納得できるかと思いますが)イエスは
- 神の絶対愛(無差別)
- 隣人愛(民族的な区分を否定)
を基本として説いていたためです。
こうしてイエスは自身を救世主(ギリシア語ではキリスト)であることを自覚。やがてイエスの考えに賛同する者や弟子まで出てくるようになり、危険視されるようになっていきました。
ユダヤ教の律法を厳格に遵守しようとしていたパリサイ派にとって「契約関係にある者を救ってくれる」のが唯一神であるヤハウェであって、無差別的な愛や隣人愛を唱えるイエスは危険人物でしかありませんでした。
その結果、後30年頃...
イエスは十字架の磔で処刑されてしまいます。
この時、パリサイ派と一線を画する反ローマ的な民族主義者達の中にイエスを政治的指導者とみなしていた者たちがいたのもあってローマへ反逆を企てる者として捕えられたのです。
ところが、処刑後にイエスが3日後に復活したという信仰が生まれ始めます。
イエス・キリストの復活を祝う日がイースターです。
その年によって、あるいは(後世、東西に教会が分裂したので)東方教会か西方教会かによって日付は変わってきますが、大体3月後半~5月のはじめにお祝いします。
イエスの復活を信じる者達は悔い改めと感謝を持って神を信じるようになり、イエスの再臨と神の国が到来するのを待つための共同体である教会をパレスチナにあるイエルサレムやガリラヤなどに作りあげていきました。
彼らはユダヤ教の聖典・旧約聖書でいうメシアがイエスであったと考えるようになりました。
こうしてイエス・キリストと呼ばれるようになっていき、原始キリスト教が誕生します。
キリスト教の発展
キリスト教の発展には高弟の十二人の存在なしでは語れません。
このように考えたイエスの直弟子である使徒たちによってキリスト教の教えが広まっていくことになりました。
- ペテロ(ペトロとも。?~後64年):ローマへの伝道に尽力した
- ゼベダイの子ヤコブ:ペテロと弟のヨハネと共に特に地位の高い弟子とされた
- 使徒ヨハネ:教派に関係なく聖人とされる人物 ・・・など
他にも十二人の使徒の一人に数えられながらも十字架にかけられる前にイエスを銀貨30枚で売ったとして裏切り者として知られるユダや、(十二人の中には加わっていないけど)パウロ(?~後60年以降)という東方各地への伝道に尽力した人物も有名です。
なお、十二使徒のうち指導的立場であったペテロが初代ローマ教皇となっています。
彼らを含めた宣教者達は布教活動と共にイエスとイエスの弟子たちの活動をまとめた『新約聖書』も4世紀までに現在のような形にまで作り上げ、ユダヤ教の一宗派のような形であった原始キリスト教が発展しキリスト教が確立されていきました。
ローマ帝国との関係
キリスト教はかなり遠い場所にまで伝来し、1世紀後半にはギリシアの諸都市、ついには首都ローマにまで教会が出来上がるほどになりました。
伝道する使徒のために信者が献金をしつつ教会同士で援助しあったり貧民への施しが行われたりしたことで広範囲で社会的弱者から信仰されるようになっていたのです。
が、キリスト教はユダヤ教と対立して分離するような形で成立したこともあり、しばしばユダヤ教徒から迫害を受けています。
逆にユダヤ人はローマ帝国から
「多神教を拒み神々や皇帝の像に対する礼拝を行わない」
「都市の政治や社会生活に溶け込もうとしない」
とあまり良い目で見られていませんでした。
ネロ帝による国からの初めての迫害
キリスト教も初期は「ユダヤ教のしきたりを守った礼拝や生活を行う」「唯一神のみを信仰している」こともあって、ギリシアやローマの一般人にとってはユダヤ教もキリスト教も違いが分からなかったそうです。
キリスト教徒もあまり良い目で見られていなかったわけです。
そういった背景があった中、ローマ帝国でネロ帝が皇位についている時代(後64年)にローマで大火が発生。この大火がネロ帝によってキリスト教徒のせいとされてしまい、犯人として処刑されてしまいます。
これがローマ帝国としての初めての迫害となります。
責任転嫁されただけのとばっちりだったのですが...この後も根も葉もない噂が立てられるようになり、2世紀頃から本格的に都市の民衆による迫害が行われていきました。
この後、国としての迫害は暫く行われていなかったのですが...
ローマ帝国の転換期
3世紀に入ると、ローマは発展しすぎて高度なインフラ整備に高額な維持費が賄いきれなくなり、重税で補おうとしはじめるなど求心力を失いはじめるようになります。
ローマ帝国に求心力がなくなったのを見た各属州の実力者が独自に皇帝を立てはじめた頃(軍人皇帝時代に突入)、寒冷化による民族大移動が重なり、北からはゲルマン人、東からはササン朝が侵入する異常事態に陥っていました。
こうした社会の混乱と共にキリスト教は貧しい者達だけでなく上層市民の間にも広まりはじめていきます。
様々なピンチをどうにか収めたディオクレティアヌス帝ですが、彼は国の求心力低下を権力の強化と皇帝の神格化で乗り切ろうとしました。広く受け入れ始めてきたキリスト教が唯一神信仰である以上、相容れないものです。
その結果、303~313年にキリスト教は大迫害を受けますが、帝国内にかなり浸透していたため殉教者が続出。
一方、迫害されていた信者もただ迫害されているだけでなくカタコンベと言われる地下墓地に逃げ込んで見えないところで信仰を深めていったため、大迫害のわりに効果はなかったと言われています。
日本だけでなく、本家本元のローマ帝国でも隠れキリシタンがいたんですね
このディオクレティアヌス帝の死後、ローマ帝国の中心についたのがコンスタンティヌス1世でした。彼は逆にローマ帝国に深く浸透していたキリスト教徒の公認して国の力にさせようという方針で進めました。
※なお、自身もキリスト教徒です
とうとう313年にミラノ勅令を出しローマ帝国内でのキリスト教の立場が確かなものとさせ、最終的にはテオドシス帝が392年に国教として定めるまでに至ります。
3つの公会議
以上のような形で徐々にローマ帝国に浸透し始めていたキリスト教ですが、規模が大きくなればなるほど教義を巡って内部で考え方の違いが露わになりました。
この解釈の違いを巡り度々公会議(宗教会議)内で論争が巻き起こされています。
- アタナシウス派 vs. アリウス派 → アリウス派が異端
- ネストリウス派
- 単性論
それぞれどんな話し合いが行われたかは表にまとめてみます。
年号 | 内容 | 備考 | 結果 | |
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ニケーア公会議 | 325年 | アタナシウス派 vs. アリウス派 | 【アタナシウス派】 三位一体説…父なる神、子なるイエス、精霊の三者は本質的には一体という説 =イエスは人の姿を借りて地上にやってきた →「皇帝が人の姿を借りて地上にやってきた」と発展させた考え方にすることも可 【アリウス派】 イエスが人であることを強調 | アリウス派が異端、アタナシウス派が正当とされた →ローマで活動できず、北方のゲルマン人にアリウス派が広まる |
エフェソス公会議 | 431年 | ◆イエスは神か人か? ◆イエスの母マリアの扱いは? | 「人間であるイエスに神の霊が入り、その霊が十字架にかけられた時に離れた」と考えるネストリウス派(コンスタンティノープル主教中心)にアレクサンドリアの主教が強く反発 神の霊が人(イエス)に入ったとする考え方のため、「マリアは『キリストの母』であって聖母ではない」とした | ネストリウス派が異端とされた →東方のササン朝や唐へ。唐では景教と呼ばれた。 |
カルケドン公会議 | 451年 | 単性論 vs. 両性論 | 【単性論】 イエスの神性のみを認めようとする 【両性論】 イエスは神でもあり人でもある | 両性論が正当とされ、単性論は異端とされた |
こういった会議を何度も行いながら教義を巡る論争を繰り返し、異端派は追放されることを繰り返していくうちにローマ以外の場所で異端派が離れて布教されるようになります。
教義を巡る論争を繰り返すうちに互いに受け入れられなくなって国を巻き込みながら教会が分裂するなんてことも後々出てきます。教会の分裂に関しては神聖ローマ帝国とロンバルディア同盟でチラッと書いているので良かったらご覧ください。