フランク王国の分裂後に起こったこととは?<東西フランク王国とイタリア>
カール大帝によってカロリング朝は全盛期を迎えたものの、孫の代以降のフランク族伝統である分割相続や他国でもありがちな末っ子への溺愛により内部が混乱。
結果、内乱が起こり、最終的には西フランク王国・東フランク王国・イタリアと分裂してしまいます。今回はその分裂後の各国の歩みをまとめていきます。
フランク王国分裂後のイタリアはどうなったの?
イタリアに関しては他の分裂した国よりも早く(875年)にカロリング家が断絶し、王位を巡る対立が起こっており、その後近代までずっと分裂状態に陥ります。
ジェノヴァやヴェネツイアなどの都市国家が有名で、今後の歴史でも結構名前を聞くことになるかと思います。
地域によって
- 北部・中部:マジャール人(アジア系の騎馬遊牧民)が侵入
- 南部:イスラーム勢力の進出
- シチリア島全域が支配下に
- シチリアを拠点に沿岸部がちょくちょく攻撃される
こういった形で外敵にさらされ続けていくと、住民たちは各自で防衛に努めるようになりました。
- 村:囲壁を持つ防備集落が作られるように
- 領主支配の拠点になっていく
- 都市:司教を中心に団結
- 各地で自治都市として発展していく
更に北方からはヴァイキングがやってくるように。
ちょうどイタリアで諸侯・都市が分立している時代にヴァイキングが活動しているのが上の表でわかると思いますが、とにかく分裂後は国内が乱れがちな困難な時代が続いていったようです。
分裂後の東フランク王国はどうなったの?
イタリアのカロリング家断絶から40年近く後、東フランク王国でもいよいよカロリング家の断絶の時を迎えます。
最期の東フランク王・ルートヴィヒ4世は6歳で亡き父の後を継いでいますが、父の存命の頃には既にヴァイキングが侵入する(父親の代では撃退して侵入を防いでいます)など外敵の侵入に悩まされるようになってきていました。
ルートヴィヒ4世の代でも同様で
- 東方:マジャール人(アジア系の騎馬遊牧民←イタリアを悩ませた民族)やスラブ人
- 北方:デーン人(ノルマン人)
の活動が活発になり、対応が困難に。ルートヴィヒ4世には摂政団がついていましたが対応できないまま、バイエルン辺境伯やロートリンゲン公らも戦死。
そうこうしているうちに17歳でルートヴィヒ4世も死亡してしまいます。若くして亡くなったため、後嗣もなく断絶することになりました。
カロリング家断絶後に東フランク王国を継いだ人物とは??
ルートヴィヒ4世の後継者には、父親の庶子である異母姉が結婚していたラインガウ伯(ラインガウはドイツ南西部辺りの土地)との間に生まれた甥っ子コンラート1世がついています。
彼の即位を持ってドイツ王国の成立とみなす人もいるそうです(実際にドイツの名称がつけられるのは先の話ですが)。
彼はゲルマンの風習の選挙によってえらばれた国王でしたが、即位直後からザクセン公のハインリヒ1世(と彼の父)をはじめとする部族の大公達と対立。ザクセン公とは何度も衝突しています。
そんな中でコンラート1世が死の淵に陥ると「国王と大公達が不仲となっていた状況での王位交代では力を失うから」と長い間敵対していたザクセン公のハインリヒ1世を後継者に指名しました。
このハインリヒ1世は後述する神聖ローマ帝国の最初の皇帝オットー1世の父であり、フランス王国国王ユーグ・カペーの祖父でもあります。
※ユーグ・カペーについては西フランク王国の所で後述します
ハインリヒ1世は反対派の大公達を抑え込み、辺境地帯にはマルク(辺境領)を設置。城塞を築いて防御態勢を整えていきました。
そんなハインリヒ1世には1人目の妻との間に息子が一人、二人目の妻マティルデとの間には三男二女を儲けています。そのうちの一人がオットー1世でした。
オットー1世が戴冠された理由とは?
これまでの王朝の弱体化は分割統治にあると強く自覚していたハインリヒ1世は、オットー1世を後継者として単独指名します。
2代続けてハインリヒ1世の家柄出身の王が誕生したため警戒されたこともあったようですが、民族移動によって侵入してきたマジャール人を撃退しカロリング家の国王がいた時代から悩まされていた敵対相手を蹴散らしたことでオットー1世の評判は一気に高まりました。
この評判の高まりを受けて、安定した庇護者の欲しいローマ教皇は皇帝を授与することに。こうして、962年神聖ローマ帝国が始まっていったのです(カール大帝とする考え方もあるけど、日本ではオットー1世からとする考え方が主流です)。
分裂後の西フランク王国は??
カール大帝の孫でルートヴィヒ1世の息子にあたるシャルル禿頭王の治世下では晩年になると政情不安に陥っています。さらにこの時期には北方からノルマン人の侵入の活発化しはじめていました。
ロベール家の台頭
シャルル禿頭王の息子や甥っ子達の代で2~5年の短命政権が続き後継もいない事態に陥ると、東フランク王シャルル肥満王が西フランク王を兼ねるようになります。
シャルル肥満王は、パリまでノルマン人の侵入を許した上に金銭の支払いを通じて講和を結んだことや後継者選びに失敗したことなどから「弱腰・無能」と見なされるようになり、甥っ子のアルヌルフには反乱まで起こされてしまいます。
※ちなみにアルヌルフは東フランク王国最後の王・ルートヴィヒ4世の父親です
この反乱にも策を打てず、シャルル肥満王は帝国議会において退位する羽目に。
一方でパリがノルマン人に囲まれた事態に陥っていた時にノルマン人を撃退したロベール家のパリ伯ウードの評判は高まっていたので、ウードが西フランクの国王となっています。
この出来事以降、西フランク王国ではカロリング家VS.ロベール家の対立が露わになっていきました。
カロリング朝からフランス王国へ
なお、このウードの次の代にはカロリング家出身のシャルル単純王がついていますが、彼の代で
- ノルマン人のロロと和解を成立
→ノルマンディー公として臣下にさせた - 東フランク王国が滅亡
→親西フランク派のロタリンギアの貴族らが臣従
といった出来事が起こっています。ただし、シャルルはロタリンギア(東西フランク王国との境界部分)に執着していた節があったようで、西フランクの他の諸侯に嫌われてしまいます。
ということで、シャルル単純王の次代とその次の代にはロベール家出身者や関係者による国王が続いています。次の代でもロベール家出身者が就くか?と思われましたが、当時ロベール家を継いでいた大ユーグは裏方に回ることを選びました。
亡命していたシャルル単純王の遺児を呼び寄せ国王ルイ4世として即位させたのです。
ルイ4世が亡くなる彼の若い息子の後見として権勢をふるっていきました。が、即位から2年後に大ユーグはなくなり、長男のユーグ・カペーが家督を相続しています。
そんな中で987年にルイ4世の孫の代でカロリング家が断絶。元々西フランク王国で力を持っていたロベール家のユーグ・カペーが国王として選出されカペー朝が誕生しました。
以降、西フランク王国はフランス王国と呼ばれるようになります。