イタリア

ルネサンスの背景にあるものとは??【イタリア史】

歴ブロ

中世イタリアから始まったヨーロッパ各地へ影響を与えた文化運動といえばルネサンス。そのルネサンスの中心になったのがイタリアのコムーネ(都市国家)フィレンツェです。

今回はそもそものルネッサンスがどんなものなのか、フィレンツェがどのように変わり、ルネサンスがどう起こったのかについてまとめていきます。

なお、前回の予定通りシャルル=ダンジューの支配により何が変わったのかどこが力を持つようになったのかも触れてあります。

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ルネサンスとは??

まずルネサンスの定義を知らないと話は始まりません。

ルネサンスとは「再生」「復活」を意味するフランス語。ギリシアやローマ時代の文化を復興しようとする文化運動、または14−16世紀頃の時代区分としてルネサンスという言葉が使われています。

イタリアでルネサンスが始まった理由とは?

当時は十字軍の失敗によりキリスト教会への不信感が強まり、価値観の変化が起こります。「個人を重んじよう」「人間を中心とした価値観を重視しよう」という動きになっていきました。

基本精神にはヒューマニズム(人文主義)がうたわれ「人間の理性や尊厳を尊重しよう!」という方向に進んでいきます。

が、すでにキリスト教の価値観にどっぷり浸かって何がいいのかわからない状態。そこでキリスト教が広まっていない時代、古代のギリシアやローマの古典を研究していくことになったようです。

そこから文芸面だけでなく、より写実的な絵画が描かれるようになった他、建築分野では古代ローマの建築様式を学びながら建築家の個性を取り入れた新たな手法が取り入れられていきます。

ルネサンスで宗教画が多く残った理由とは?

元々はキリスト教的価値観に反発したのが始まりのルネサンスでしたが、支援したパトロンが割とキリスト教会含むキリスト教に近い人たちでした。

既得権益側はルネサンス以前からキリスト教という土台に乗っかってその地位を築いて来たため、そう簡単に離れられるわけがありませんでした。美術品や建築物なんかだと宗教関連の作品が多く残っているのは彼らが資金を提供していたためです。

ギリシアの知識人がイタリアに

どちらが先か…はわかりませんが「古典を学ぼう」となった前後にアナトリア半島やバルカン〜ペロポネソス半島のあたりでビザンツ帝国(〜1453年)と新興勢力のオスマン帝国が対立。

ギリシア人の知識人達がイタリア方面へ亡命していたという古典を学ぶ上ではまたとない環境が整っています。

イタリアのコムーネにパトロンできるほどの大金持ちが誕生?

ルネサンスが起こる前のあたりからイタリアでは毛織物や金融業、交易で財をなす大商人達が数多く出てきます。十字軍遠征により経済活動が盛んになっていたためです。

ルネサンスの中心となったフィレンツェもそんなコムーネの一つ。

更にいうとフィレンツェの発展には前回の記事『ちょっと詳しい中世イタリア史』に書いたフランス国王ルイ9世の弟・シャルル=ダンジューのシチリア侵攻とも無関係ではありません。

シャルル=ダンジューの遠征資金を用意したフィレンツェ商人は、侵攻の成功によりシチリア王国だけでなく教皇領やフランス王国、イングランドなどにも進出することに成功させていたのです。

国王や領主達に融資して金融業を発展させ、莫大な富を蓄積させています。元々質が良いと有名だった毛織物産業でも推定約80000人の人口のうち約25000人もの人々が従事していたようで、この業界もフィレンツェの発展に寄与しています。

ルネサンス以前の芸術分野の出資者は主に教会でしたが、これを機に商人も投資しパトロンとなったのでした。

フィレンツェに降りかかった受難について詳しく!

ところが、このフィレンツェの繁栄は長く続きません。北にあるフランスとイングランドで起こった百年戦争(1337年〜)による大きな混乱から不景気の負のループに突入します。

断続的に続いた百年戦争はフランスが主戦場。イングランドにより騎行と呼ばれる生産拠点を根こそぎ略奪・襲撃する作戦でフランスでの経済活動は困難になりました。

更にフィレンツェ商人は融資を国王や領主なども対象にしており、イングランド王国にも戦費の貸付を行っていたのですが、イングランドは戦時中であることを理由に債務の支払い停止という暴挙に躍り出たため窮地に追い込まれます。

例えばバルディ家と呼ばれるフィレンツェの有力な一族は、百年戦争を開始したエドワード3世に戦争ローンを貸し付けたものの借金のうち幾らかを現金で…それ以外はイングランドの主要輸出品である羊毛の補助金で支払われる程度で全額返金されず、1344年に破産しています。

全ての商人が債務支払い不履行により潰れたわけではありませんが、他にもこの前後にバルディ家含むフィレンツェの4つの巨大金融会社が破産したそうです。

このような経済危機に対してフィレンツェの市民達は大商人のせいだと不満を募らせていきます。

イタリア社会が困難に直面した時に取る方法とは??

イタリア社会では、平常時は共和政をとりつつも混乱への対応では「1人の人物に権力を集中させて収めよう」とする動きが度々見られています。この時に立てられた人物をシニョーレ、シニョーレが運営する政体をシニョリーアと呼んでいます。

フィレンツェでもシニョーレを立てて大商人対市民となって二分していた困難な状況に立ち向かおうとしました。

この時にシニョーレとして呼び寄せられたのがアンジュー家のアテネ公です。フランス王家のカペー家の傍流の家柄で、以前シチリア王国を追い出されナポリ王国に亡命したシャルル=ダンジューから始まった家系です。アンジュー=シチリア家とも呼ばれています。

ところが、アテネ公はフィレンツェ内の対立に乗じて独裁者のように振る舞い、わずか2年…1343年に追放されました。

最大の危機?ペストの蔓延

ここからさらに経済恐慌に追い打ちをかけたのがペストの蔓延でした。時に英仏両国が百年戦争を休戦した理由にもなったほど大流行します。特にイタリアは交易の中心地。人やペスト菌を媒介したとされるノミ付きのネズミの出入りが非常に多く入り込んでしまいます。

ペストの伝播

ペスト(wikipedia)より『中世ヨーロッパにおけるペストの伝播(第二のパンデミック)』を改変

パンデミックが始まると、当時の町では避難する余裕のある者達は田舎に逃げ込みました(感染者もともに入り込んでしまったために広がる結果となってしまいます)

れきぶろ
れきぶろ

ジョヴァンニ=ボカッチョによる『デカメロン』は1348年に大流行したペストから逃れるためにフィレンツェ郊外に引き篭もった10人が10日間にわたって各人1日1話ずつ語る形式で計100編を所収した短編小説集です。

当時のフィレンツェの惨状が描かれています。

フィレンツェは被害が大きく人口の約6割が死亡した(『「史上最悪の感染症」から学ぶこと』参照)とされており、当然ながら経済活動を行う余力はありません。

商人と市民の仲は更に悪化します。あくまで想像でしかありませんが、一般市民達にしてみれば「人との接触が多く病を広げているくせに、お金持ちは疫病から逃げるだけの余裕もある。ふざけるな」といったところでしょうか。

労働者達による反乱の発生

当時のフィレンツェではアルテ(←イタリア語。英語では「ギルド」)と呼ばれる21の商工業者による組合に所属する有力証人や新興商人が幅を利かせ、公職者はアルテから選挙で選出されていました。

アルテに属さない中下層の商人、労働者は排除されていたのです。

ここに不満を持つ「チョンピ」と呼ばれる毛織物工業に従事する労働者たちが蜂起。チョンピの乱(1378年)を起こします。

この時に政権運営を行なっていたアルビッツィ家の政策運営に不満を持つ有力市民も彼らと手を結びました。その有力市民としてチョンピを支持し、反乱のきっかけを作った者こそが新興商人のメディチ家の人間でした。メディチ家は大商人だったものの市民階級の支持を集めることに成功させています。

結局、チョンピによる新政権も倒されてしまいましたが、こうした一連の動きでこれまで栄えていた大商人の一部が没落。新興勢力が台頭します。

メディチ家もその新興勢力の代表でルネサンス期を盛り上げたパトロンとして後世まで名を残しました。

メディチ家は何故パトロンとなったのか?

彼らは主に金融業で成り上がったキリスト教徒です。

基本的にお金儲けを良しとしない宗教改革以前のキリスト教を信仰していたため、その贖罪のために芸術家のパトロンとなり宗教画を発注したり礼拝堂や教会を建てたと言われています。

同時に美術工芸品としての価値やローマ教皇庁がメディチ銀行の収益の半分以上を担っていたのも無関係ではありません。

こうして条件が重なって華やかなルネサンスが展開、考え方の一部は後々の啓蒙思想や近代思想に継承されていったのです。

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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