三国同盟(1882年)と三国協商(1907年)の成立【ヨーロッパ史】
19世紀後半~20世紀初頭にかけて、第一次世界大戦に繋がる『三国同盟』と『三国協商』と呼ばれる同盟関係・協力体制がヨーロッパで出来上がります。
元々の三国同盟の目的はフランスの孤立化にありましたが、国際情勢の変化と共に意義も変わっていきました。次第にフランスだけでなくイギリス・ロシアに対抗する同盟へと変化しています。
一方で三国協商は次第に強くなってきたドイツの外交や軍事的発展に警戒したことで結ばれました。
今回はそんな三国同盟と三国協商の詳しい意義やどのように作られたのか?その裏にあったお金のトラブルについてもまとめていこうと思います。
三国同盟とは
1882年に結ばれた三国同盟は独墺伊同盟とも呼ばれています。
- ドイツ
- オーストリア
- イタリア
上記の三国で結ばれた秘密軍事同盟です。ドイツの宰相ビスマルクの提案で作られました。
三国同盟が出来上がった経緯について、詳しくは『露仏同盟が結ばれた背景を流れで見てみよう』の記事に書いてあるので今回は簡単に。
そもそも三国同盟が結ばれるようになった原因は1870年代に発生した普仏戦争でフランスが領地と多額の賠償金を奪われたことから始まります。フランスでナショナリズムが高まり、ドイツに敵対感情を抱くようになったのです。
※ナショナリズムが高まった理由は更に前のフランス革命とナポレオンの台頭にまで遡ります
「復讐されかねない」と危惧したビスマルクが各国の利害を調整しながらフランスを外交的に徹底的に抑え込みました。国際政治の主導的人物にまでなった彼が作り上げた国際関係はビスマルク体制と呼ばれています。
- ビスマルク体制が出来るまでの簡単な流れ
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18世紀後半~19世紀前半ナポレオン=ボナパルトの台頭
ヨーロッパが混乱の渦に。自由主義・民族主義が活発化。
1806年神聖ローマ帝国滅亡ナポレオンとの戦いで神聖ローマ帝国が完全崩壊
19世紀前半ウィーン体制を築くポレオン失脚後に作られたのがウィーン体制。メッテルニヒ(墺)主導で自由主義・民族主義が抑え込まれ、各国で王政復古
1815年ドイツ連邦誕生オーストリアが盟主となるドイツ連邦成立
19世紀半ばフランスが共和政へ七月革命と二月革命勃発。自由主義・民族主義を掲げる運動がヨーロッパ各国へ波及した
〃多くの場所で独立運動発生ウィーン体制が崩壊し、オーストリアでも独立運動が起こされるとドイツ内での力関係が変化
1866年普墺戦争オーストリアとプロイセンでドイツ内の主導権争い
→ オーストリアは敗北してドイツから分離。プロイセン盟主の北ドイツ連邦を経てドイツ帝国となる1870~71年普仏戦争プロイセン勝利。
→ フランスは資源の豊富な地域を取られる1871~1890年ビスマルク体制ビスマルク(普)がフランスから普仏戦争の復讐に備えてフランス孤立化政策をつくりあげた
ドイツは敵対してくるフランス対策として最終的にフランスと関係の悪化していたもう一つの隣国・イタリアを独墺同盟に引き込んで三国同盟(1882年)をこっそり成立させました。
挟み撃ちされないよう、ビスマルクはロシアとオーストリアも含めた三帝協商も結んでいましたが瓦解したため、三国同盟を成立させたまま三か国での協力体制は諦めて独露間に再保障条約(1887年)を締結させています。
1890年にはビスマルクが退陣して再保障条約はなくなりますが、三国同盟は彼の退陣後20世紀に突入した後も残り続けました。
ビスマルク対陣後のドイツでは皇帝ヴィルヘルム2世を中心とした体制に移ると「ドイツ帝国外にいるドイツ民族を統合しよう」というパン・ゲルマン主義の思想を元に国家運営を始めます。
彼が即位した当初のドイツは反露の方が強く親英の方針だったとも言われていますが、英仏の植民地拡大政策に遅れてドイツも植民地獲得を目指し中欧・バルカン半島に進出しはじめると、既に植民地を確保している諸国は警戒心を強めることになっていったのです。
三国協商とは
一方の三国協商はドイツから散々煮え湯を飲まされたフランスが、ドイツを挟んだ向こう側のロシアと組んだ露仏同盟を元に出来上がった体制です。なお、露仏同盟はビスマルク退陣により再保障条約が延長されなかったことで結ばれた同盟となっています。
三国協商は
- フランス
- ロシア
- イギリス
これらの三国で構成されています。
露仏同盟が結ばれた時点では、まだイギリスはフランス・ロシアと利害関係は一致しておらず、同盟関係や協力関係は築いていませんでした。
むしろ露仏同盟自体が対ドイツだけでなく、イギリスも対象になっていた節さえあります。というのも当時のフランスはアフリカで、ロシアはアジアでイギリスと植民地争奪戦を繰り広げていたためです。
ですが、イギリスが露・仏と協力した方が国益になり得ると判断し、露仏両国もイギリスと組んだ方が良いと考えるほどヨーロッパ情勢は変化していくこととなります。
フランスとイギリスの接近
当時のフランスが最も敵対していたのがドイツですが、ビスマルク体制下だった頃のドイツは戦争に巻き込まれることなく国力を蓄えており、人口も急激に増加している状況でした。
※植民地獲得の際に、イギリス:南アでのボーア戦争(1880-81年、1899-1902年)、フランス:ベトナムを巡る清仏戦争(1884-85年)といった形で、かなり難しい戦いを行っていた
また、英仏に遅れは取っていましたがドイツで産業革命が始まると軽工業ではなく重工業で一気に発展しています。
19世紀中頃まではイギリスが世界の工業生産の約50%を占めていたのが20世紀初頭には追い抜かれ、ドイツ:約16%、イギリス:約14%になるほどの成長ぶりでした(なお、この時に工業生産を世界で最も行っていたのはアメリカの約36%)。
ということで、ドイツは英仏との国力差を縮めつつある中で「国内の余剰人口を海外移住させたい」と考えるようになります。
ヴィルヘルム2世が即位した年に外務省内に植民地局を設置。植民地拡大へ乗り出しました。1895年の清国での三国干渉もドイツにとっては植民地拡大の足掛かりにするために行われたものです。
このドイツの積極的な姿勢に危機感を覚えると、急速に英仏は接近していきます。百年戦争以来数百年(百年戦争の原因含めたらもっと前)の対立関係に終止符を打ち、英仏協商が結ばれたのでした。
- 英仏協商が結ばれた一因?ファショダ事件とは??
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アフリカの植民地化政策では英仏両国はそれぞれ
- フランス:(アフリカ北西のアルジェリアから南下後に)横に勢力を伸ばす政策
- イギリス:(エジプト~南アフリカの間を)縦に勢力を伸ばす政策
を取っていました。
両者互いに軍を進めていったため、1898年には両者のルートが交差するナイル川沿いにあるスーダンのファショダ村でぶつかってしまいます。
当時のフランスの外相は「ドイツとの衝突がいつあるか分からない」という緊張感を持っていたことなどからイギリスとの軍事衝突を避けた方が得策だと考え、フランス軍がファショダを撤退。スーダンはイギリス(とエジプトの共同での)統治となりました。
この事件がキッカケで英仏は少しだけ仲良くなったようです。
イギリスがロシアと結んだ背景を見てみよう
英露が互いに国益に繋がるようになった契機がヨーロッパの反対側で起こった日露戦争(1904-1905年)です。
ヨーロッパ列強が極東に進出していった中で起こった戦争で、イギリスは日本と日英同盟を締結して戦艦や物資などで日本側への協力体制を築いており、この時点でロシアにとってイギリスは完全な敵国扱いでした。
やがて戦争がはじまると、ロシアは日に日に不利な状況になっていきました。そうした情勢悪化が分かると、産業革命以降増えていた『低賃金・長時間労働』に不満を持つ人達によって労働運動が活発化。
更にロシアにとって悪いことは続き、ロシアが敗戦したことで
- ポーランドでは独立運動
- 黒海艦隊では兵士たちによる反乱
などが起こり、内部がボロボロになっていきます。
元々日英同盟を結んだ理由が
イギリスの植民地拡大政策(←後発の産業革命組との差をつけるために行った)とロシアの南下政策で互いの進出方向が重なったから。アフガニスタンやイランで勢力争いをするような非常に悪い関係だったのですが...
ロシアの敗戦と国内事情が変わったことで「南下までの余裕はないだろう」となったため話が変わってきます。
フランスだけでなく、イギリスにとってもドイツがヨーロッパ内で存在感を高めてきたことは非常に脅威となっていました。「ロシアといがみ合うよりドイツを抑え込むために協力した方が良い」と考えるようになってきたのです。
一方のロシアでも、敗戦と国内事情悪化の中で大国のイギリスと争うのは得策じゃないと考えたため、1907年に英露協商が結ばれています。
オスマン債務管理局について
複数の国家で協力し合う三国同盟、三国協商が出来上がった背景には、経済関係の利害も絡んでいました。
主に1881年に設立されたオスマン帝国の借金(対外債務)返済を促す機関・オスマン債務管理局が舞台となっています。
当時のオスマン帝国について
かつてはヨーロッパを震え上がらせていたオスマン帝国でしたが、17世紀以降徐々に衰退しはじめていました。
その弱体化に乗じて18世紀末以降、オスマン帝国北方にあるロシアが南下政策を始めます。オスマン帝国支配下にあるバルカン諸国の民族運動を煽るようになりました。
実際にギリシアなど複数の支配下にあった地域が独立戦争まで起こし、裏でロシアが支援するような事態も起きていた他、オスマン帝国がロシアと直接ぶつかるケースも出てきます。こうしたトラブルが続いたため、19世紀入るとかなりオスマン帝国は相当弱っていたのです。
もちろんオスマン帝国もそのまま放置している訳もなく...
産業革命によりヨーロッパ各国が力を持つようになっていたことは分かっていましたから、軍の西欧化を推進したり中央政府を刷新して近代化に務めます。
1853年にロシアとの間でクリミア戦争が起こると、西欧からの協力を得るために非ムスリムの権利を認める約束した他
- 新しい法典の制定
- 近代教育を行う学校の設立
- オスマン銀行の設立
など、かなり踏み込んだ改革を進めました。
こうした改革や戦争には多額なお金が必要となり、オスマン帝国はお金を持っている西欧列強に借金を重ねていきます。
この時点でオスマン帝国は直接的に植民地化された訳ではなかったのですが...
交流が増えるにつれ経済格差がある状態で貿易拡大したため、西欧社会で需要の高い原材料ばかりがオスマン帝国内で作られるようになり、ヨーロッパ経済に依存した経済体系が出来上がってしまっていたのです。
1873年恐慌
オスマン帝国の経済体系が西欧依存になっている中で起きたのが1873年~79年までの金融危機でした。
原因はいくつかありますが、ヨーロッパで起こった金融危機の原因は
- 【ドイツ】普仏戦争(1870-71年)の勝利によって入ってきた賠償金と銀行の設立などに戦争勝利した高揚感が重なって、株式市場への投機が過剰に加速
- 【イギリス】1869年スエズ運河が開通したが、風の影響で一部の船がスエズ運河で航行できず商品の流通が滞り、貿易に大打撃
こうした状況の中で欧州各国が銀本位制から金本位制に変えたことにあったようです。
※金(銀)本位制:金(銀)をお金の基準とする制度で貨幣価値は金(銀)に裏付けされていた
- 銀本位制から金本位制に買えたことで起こったこととは?
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元の銀貨を回収して一部を補助銀貨として作り直し、残りは鋳潰して売却する予定だったのですが...
かなり大量の銀が需要に反して売り出されることになっているところに、銀の新鉱山が発見されたり新しい技術の向上で銀の産出が増加。当然、供給量が過剰になって銀の価格が大幅に下落してしまいました。
これが理由で南米の関連事業は縮小。ヨーロッパから南米にも投資していたため、かなり大ダメージを喰らいました。
無茶な投資や大幅な銀の下落、大国の貿易が一部で滞るといった事態が重なった結果、一番最初にはじけたのがウィーン証券取引所でした。これが波及してウィーンで銀行の破綻が続くと他のヨーロッパ諸国も長い不況に陥っていきます。
一方で不況をチャンスにした国も。この時のドイツは社会インフラへの投資を増加させたことで後の工業需要に刺激を与え、成長率を伸ばすことに成功させました。逆に供給調整でどうにかしようとしていたイギリスの工業生産高はドイツの半分以下の増加率に留まっており、両国の差を縮めることとなりました。
こうした大きな経済の転換期が起きていた頃、この時点でヨーロッパ経済に依存しまくっていたオスマン帝国も不況の影響を当然受けてしまいます。これを機にオスマン帝国の財政が更にヨーロッパ諸国に支配され、これまで以上に大きな負債を抱えたのでした。
オスマン債務管理局の発足
負債がかなり多額になって返済が滞るようになると、オスマン帝国に「借金返せ」と促す機関・オスマン管理局が作られます。
お金を貸していたイギリス・フランス・ドイツ・イタリア・オーストリアに加えて、オスマン帝国にある二つの銀行から代表者を一名ずつ...計7名の元にスタッフ5000人以上も抱えた組織の発足です。
こうした機関が設立されても償還は滞ってしまったことで、お金を貸していた列強同士を対立を生んだのでした。
軍事的な警戒だけでなく、こうした経済面での対立が高じて三国同盟対三国協商の利権争いに拍車がかかるようになったのです。