カロリング朝の治世<フランス・ドイツ・イタリア>【中世各国史】
フランク族をクローヴィスがまとめ上げメロヴィング朝を開くも、ゲルマン人の慣習である分割相続が仇となって徐々に力を失った結果、フランク王国の政務を取り仕切る宮宰が力をつけて行きました。
メロヴィング家が衰退している中で宮宰となったピピン3世が教会の同意を得た上で王位を簒奪(と言っても選挙で選ばれたものですが)して始まったのがカロリング朝です。今回はカロリング朝について詳しくまとめていきたいと思います。
ピピンの寄進(756年)
ピピン3世がどのような経緯で王位についたのかはメロヴィング朝の治世でも触れていますので割愛しますが、このピピン3世が国王になる際に教皇ザカリアスの同意を受けた見返りとして行ったのがピピンの寄進とよばれるものです。
当時、ローマ教会の拠点であるイタリアにはランゴバルド(ロンバルディアとも)王国と呼ばれる国がありました。
ランゴバルドはピピンの寄進の数年前に最盛期を築きあげ、ローマ教会にも影響を与えていたビザンツ帝国をイタリア半島から追い出しています。
いくつかの勢力があるうちはローマ教会に被害がいくことはありませんでしたが、一つになればローマ教会もその勢力の支配下に置こうという流れになるのは必然でした。
が、だからと言ってローマ教会はビザンツ帝国には
- キリスト教の首位性を巡って敵対している同じ五本山の一つでビザンツ帝国の首都を拠点とするコンスタンティノープル教会を庇護下に置いていた
- 726年に聖像禁止令を出していた
ため、頼れません。
そこでローマ=キリスト教会がランゴバルド王国対策として頼ったのがフランク王国でした。
ピピン3世がランゴバルドに攻め込むだけでもローマ教会に恩を売ることが出来たのですが、それだけだと後々ランゴバルドと同じく警戒されかねません。
加えて、伝統を重んじる傾向のフランク王国の貴族が「前王朝を簒奪しただろ」と理由をつけてピピン3世をひっくり返そうとする可能性も捨てきれません。念には念を入れてローマ教会との関係を強化して不満因子を抑えておきたいという思惑がありました。
そんな理由から2度のイタリア遠征で獲得したランゴバルド領のラヴェンナ・ペンタポリス地方を教皇に献上したのです。これがピピンの寄進です。
カロリング朝最盛期・カール大帝の治世(768~814年)
父・ピピン3世が教皇領を寄進した際に、息子達もフランク王国国王となる儀式を行っています。こうして息子のカールとカールマンが後継に指名されていました。
そのうちカールマンは父の死後数年で亡くなりカールマンの妻と息子は妻の実家のランゴバルドへ亡命したため、カールが遺領を継承し単独でフランク王国を統一することに。
結局、カールは46年間もの長い治世を単独で統治し、その間53回もの軍事遠征を行っています。ザクセン人を平定し、アジア系遊牧民のアヴァール人を撃退...ついには領土ビザンツ帝国と対等になるほどまで成長させています。
これに目を付けたのがローマ教会。カールの父ピピン3世の代でも縁がありますし、ローマ教会としてはコンスタンティノープル教会がビザンツ帝国を庇護者としているような関係を西ヨーロッパ諸国の何処かと結びたいと望んでいました。
逆にフランク王国側はカールの代で更に急激に領土拡大しており、これまで以上にまとめる必要が出てきていたため、ローマ教会との関係を強化するのは有効な手でもありました。
コンスタンティヌスの寄進状
元々キリスト教世界の中ではローマ教会がトップのような形で進んでいたのですが、西ローマ帝国が瓦解したことでコンスタンティノープル教会が『ローマ皇帝の存在』を根拠として自分がトップと主張するようになっていました。
ローマ教会は元々『ローマ帝国の首都』だったことを首位性の根拠としていた上に、ローマ教会の影響下にある西ヨーロッパでは異端派のアリウス派を信仰するゲルマン人を多く抱えています。
その上でビザンツ帝国が聖像禁止令を出したこともあって、教会内での力関係が崩れ始めていたのです。これまで通りトップを張りたいローマ教会はローマ皇帝を作ることを思いついたのですが…
実際にローマ帝国時代に教会が皇帝を決めた前例なんてある訳もなく行き詰っていました。
そんなどうにもならない中で出てきたのが『コンスタンティヌスの寄進状』です。
教会が皇帝に戴冠する根拠となった文書で結論から言えば後世に偽書と判明したのですが…この偽物の文書があったからこそ、中世ヨーロッパのローマ・ゲルマン・キリスト教の融合した文化圏を作り上げられていったのです。
コンスタンティヌスって誰?
ローマ帝国において306~337年に皇帝となった人物がコンスタンティヌスです。四帝分治世を行ったディオクレティアヌス帝(284~305年) の死後、ぐちゃぐちゃになったローマ帝国を再度まとめています。
コンスタンティヌス自身がローマ皇帝として初めてキリスト教を信仰。さらに国をまとめ上げる際にキリスト教をローマ帝国の国教として公認したためキリスト教の歴史から見ても重要人物の1人とされ、現在でも主要な宗派で聖人認定されています。
コンスタンティヌスの寄進状の内容とは??
かなり意訳すると「教皇の洗礼受けて病気(ハンセン病)治ったから、お礼に西側あげるね。自分は東のコンスタンティノープルに行くわ」という内容が書かれた文書です。
これは「ローマ司教とその後継者にローマ帝国西半分の支配を委ねます」ということを意味しています。
コンスタンティヌスの存命中...文書が書かれた頃にローマ教皇だったシルウェステル1世が皇帝の冠を固辞したため「代わりに教皇が統治者を任命した」とされています。
つまり、この文書は
- 教皇が『皇帝を任命する』のはおかしくないですよ
- 『世俗権力・皇帝 <<< 教皇』ですよ
ってことを伝えているわけです。
こうして皇帝の戴冠についての根拠も作り上げ、800年のカールの戴冠に繋がっていきます。形式上、西ローマ帝国が復活したのです。
当然、当初のビザンツ帝国はカール大帝の戴冠を認めていませんでした。
カールが東方の大国でビザンツ帝国と隣接するイスラム王朝のアッバース朝と使節を交換して友好関係を築いたのは、そこら辺を意識してのことでしょう。
最終的に812年にはビザンツ皇帝からの了解も得て、西ヨーロッパの皇帝権を確実なものとしています。
なお、後々神聖ローマ帝国で起こったカノッサの屈辱含む叙任権闘争(二つのザクセン朝)では、この偽書を根拠に皇帝側が屈服させられてます。そう考えると、少々ハインリヒ4世が気の毒...
ちなみに「偽書じゃないの?」と疑うようになったのはラテン語研究が進んだルネサンス期(15世紀頃)です。4世紀頃に作られた文書のはずなのに当時の文法とは異なる文法が使われていると発見されて以降、議論を重ね、最終的に判明するのは18世紀まで待たなければなりませんでした。
西ヨーロッパの統一
こうしてカールは戴冠までされてカール大帝と尊敬を込めた敬称で呼ばれるほど勢力を拡大し非常に広い領地を治めるようになりました。
当然、統治にあたって工夫を施すことになります。
- 人口数万人ごとに管区を設定する
- 地方の有力者や家臣の中から国王直属の伯(グラーフ)を任命
- 伯は軍事と政治の両方を担当
- 土着化されて力を持つと厄介なため世襲を禁じる
- 臨時で巡察使を派遣して伯を監督
- イスラームの影響の強いイベリア半島にはスペイン辺境伯を置く
こういった体制を作り中央集権体制にしようと努めています。
ところが、そのような体制を敷いてもゲルマン諸民族には部族ごとに慣習法が存在していて完全に抑えつけることはできませんでした。各部族が独立志向のあるままフランク王国に部族が組み込まれることになります。
そのため、カール大帝は一か所に留まり続けることができず、絶えず領内を移動。伯とカール大帝、個人的な結びつきを確認していく必要があったのですが...
この『個人的に結んだ関係』というのが息子の代以降ネックになってしまいます。
カール大帝の息子達以降のカロリング家の分裂と滅亡
メロヴィング朝でもネックになった分割統治でしたが、カール大帝の時代でも同様でした。
カール大帝は奥さんが複数いて子も約20人ほどいたそうですが、多くが早世しています。
一旦はカール(フランク王・小カールとも)・ピピン(イタリア王)も相続の対象となってはいたもののカール大帝が亡くなる前に死去したため、ルートヴィヒ1世が単独相続しています。
ルートヴィヒ1世にはロタール・ピピン・ルートヴィヒの3人の息子の他に、2番目の后との間に出来た末弟のシャルルがいたのですが、この末弟のシャルルを偏愛したことで兄達の反乱を招いています。
この混乱の中でピピンと父ルートヴィヒ1世が先に亡くなると、ルートヴィヒとシャルルが結んで長兄のロタールに対して戦いに挑んだ後、843年にヴェルダン条約を結んで
- ロタール : 帝位と中部フランク及び北イタリア
- ルートヴィヒ : 東フランク
- シャルル : 西フランク
に分割させました。
やがてロタールも亡くなると今度はロタールの子供とルートヴィヒ・シャルルの間に戦いが勃発。870年にメルセン条約を結んで北イタリアを除いて中部フランクが分割、東西フランク王国に併合されています。
こうして、最終的にフランス王国、神聖ローマ帝国、イタリア王国に分かれることとなったのです。
詳説世界史図録 山川出版社より