フランク王国・メロヴィング朝の治世<フランス・ドイツ・イタリア>【中世各国史】
ゲルマン系フランク人の一派サリ族出身のクローヴィスが481年にフランク人をまとめ上げて作ったのがフランク王国でした。
このクローヴィスの祖父メロヴィクスが
- 民族大移動の際にサリ族を率いていた
- 祖父率いるサリ族たちはローマ帝国の傭兵的な立ち位置で同盟関係にあって東からやってきたフン族と戦って打ち破った
...なんて話も残っていますが、伝説的人物のため詳細は分かっていません。
この英雄メロヴィクスの名前が由来となって、フランク王国の最初の王朝はメロヴィング朝と名称がつけられています。
そんなメロヴィング朝の治世がどんなものだったのか?どのように力を失って次の王朝カロリング朝へ受け継がれたのかをまとめていきます。
クローヴィスの治世(481~511年)と最初の分割統治
クローヴィスは非常に強い国王で当初は現在のフランス北東部~ドイツ北西部辺りの領地のみだったものを最初の頃の4倍近い大きさの領地まで拡大させています。
さらに、クローヴィスはガリア制圧後にブルグント王国の王女クロティルダと結婚。一夫多妻制で既に複数の妻を持っていましたが、彼女の存在がフランク王国の命運を大きく変えました。
フランク王国、アタナシウス派に改宗する
フランク王国の在り方が大きく変わったのは、他のゲルマン民族がキリスト教アリウス派を信仰している中でキリスト教の主流派・アタナシウス派への改宗を妻により勧られクローヴィスがアタナシウス派を受け入れたためです。
ローマ帝国の範囲だった地域ではアタナシウス派が主流であり、他のゲルマン民族に比べてローマの統治下にあった人々との協調関係を築きやすくなっていきます。
このクロティルダ、クローヴィスの改宗の功績に加えて救貧院や今でいう児童自立支援施設のようなところへの社会奉仕をしたことから後に聖人と呼ばれるように。また、政治的役割も担っていたとされています。
妻の実家・ブルグント王国との関係
クローヴィスは妻がブルグント王国の王女ということで場所(隣接する地域)だけでなく、関係も非常に近かった。そのため、クローヴィスはブルグント王国の王家内部の権力争いにも大きく関わっています。
その結果、クロティルダのおじ達両者を影響下に置くことに成功させました。
が、この後、西ゴート王国と組んだグンドバトはゴドギセルから再度王位を奪っており、ブルグント王国との関係悪化は後々息子の代にも影響を与えています。
フランク族の分割相続について
メロヴィング朝を立てたフランク族を含むゲルマン人は基本的に分割相続が基本。クローヴィス以後はこの分割相続によって分割・統一を繰り返し結果的にメロヴィング朝の力を失わせていったわけですが、この分割相続になったのには理由がありました。
ゲルマン民族の大移動でも少し書いてあるのですが、彼らの社会経済活動は基本的に牧畜と狩猟です。農耕と異なり土地を基盤としない家畜などが持ち得る財産でしたから、親が死んで財産を受け取る際には兄弟間で平等に分けていたのです。分割して相続しても割と容易に財産を増やすことが出来たことから出来上がった制度でした。
息子達による分割相続
こうしてクローヴィスの死後は、4人の息子達が分割された領地をそれぞれ継いでいます。他のフランク族の小王達の多くはクローヴィスが晩年に滅ぼした状態だったので周囲に脅かされることが少ない状況で受け継げたようです。
なお、オルレアンはブルグントに含まれた地域ですが、クローヴィスの死の直後はあくまで一部でしかありませんでした。ブルグントが本格的にフランク王国の支配下になるのは534年なので、クロドメールの手に入れた地域は最前線の一部の地域ということになります。
ブルグント王国への侵攻とオルレアン王国の分割
3人の息子達はクローヴィス時代から悪化していたブルグント王国へ523年にいよいよ侵攻開始。この時、おそらく背後にいたのは母クロティルダだと言われています。
- 母クロティルダがブルグント王国と対立していた理由とは?
-
教義を学んで成長しました。一方で、叔父グンドバトはアリウス派。宗派の違いによる対立がありました。
加えて、過去にはクロティルダの父をグンドバトに殺され、母と本人は故国から追放されたという説もあります。何より夫がグンドバトの王位を奪ったことで、叔父と姪の仲は最悪になっていました。
侵攻により敗れた側のブルグント王の一族は処刑されていますが、今度はブルグント族の残党が東ゴート族と手を結んでフランク王国へと攻め込んできました。
反撃を受けた結果、最前線の土地が拠点のクロドメールが3人の息子と妻を残して戦死。クロタールがクロドメールの遺児で自分の甥っ子たち(末っ子は何とか逃げて聖職者となりました)を殺して遺領を奪い、キルデベルトとクロタールで分けてしまいます。
こうしてオルレアン王国は分割され、パリとソワソンに組み込まれました。これが524年のお話です。
さらに532年にキルデベルトとクロタールは共謀して再度ブルグントへ遠征。完全にブルグントを取り込もうとなったのです。
妹の結婚と兄の死
一方、似たような時期。西ゴート王国へ嫁いだ彼らの妹・クロティルダが宗派の違いを理由に夫から虐待を受けていることを知ったパリ王キルデベルトがそれを理由に西ゴート王国へ侵攻します。南フランスの西ゴート王国領を完全に掌握しました。
ブルグントや西ゴートでの領地の変動が起き始めた頃、フランク王国内でもあわや勢力図が変わるか?という出来事が起こりました。長兄のランス王テオデリクが亡くなったのです。
テオデリクの遺領は、やはりキルデベルトとクロタールに狙われ始めます。
が、幼子3人の時とは違って長兄の息子テウデベルトは出来る男。根回しに奔走し、このピンチを乗り切りました。この一連の出来事で息子のいなかったキルデベルトは
テウデベルトを跡継ぎ候補として見るようになっています。強力な利害の一致する協力相手が見つかったことでテウデベルトとキルデベルトが共同でクロタールを攻め込んだりするようになりました。
最終的に統一したのは・・・?
こうした形でフランク王国内部では分割や統合を繰り返していた中、結局最後まで残って統一したのはソワソン王のクロタール1世でした。
キルデベルトが「跡継ぎにしたい」と考えていた一番年少のテウデベルトが最初に亡くなり、キルデベルトもクロタールより先に亡くなったためです。
ところが、クロタールは統一後にもゲルマン人一派のサクソン族と戦って優位に進めて順風満帆に見えた一方で末の息子との対立に悩まされるようになっていきました。
一度だけではなく何度も対立したため、息子一家を追い詰め殺してしまうと自責の念に駆られ、ほどなく没したそうです。
結局、クロタールの死後も別の4人の息子達に領土は分割され、最終的に
- 王国北東部:アウストラシア
- 王国北西部:ネウストリア(中心都市:パリ)
- 王国南東部:ブルグント
に分かれるようになっていきます。
フランク王国、3度目の統一
こういったフランク王国内での内部争いが続いていた中でネウストリア王のクロタール2世(クロタール1世の孫)がかなり久しぶりに王国を統一しています。どうやって王国を統一したのか少しだけ見ていきましょう。
クロタール2世を語る上で欠かせないのが母フレデグンドの存在です。
フレデグンドは元々『王妃の召使から愛妾』『愛妾から王妃』へと成り上がっていった女性でした。その成り上がっていく際に、父王の妻であるアウストラシア王妃の姉が邪魔になり、フレデグンドは彼女を殺害していたのです。
これ以降、アウストラシアとの関係は悪化。以後40年ほど両国は抗争を続けることになっていました。
クロタール2世はそんなネウストリアとアウストラシアが対立していた状況下でネウストリア王として生後4か月で即位していました。当然、政治を取り仕切れるわけもなく母のフレデグンドが摂政となっています。
やがてクロタール2世が親政するようになって暫く経った頃、アウストラシア内で反乱が起こります。
ネウストリアと長い期間抗争を続けていた前アウストラシア王妃が長らく息子や孫・ひ孫を摂政の立場から操っていたため、アウストラシア内で不満が貯まった末の反乱でした。
この時にアウストラシア内部ではピピン1世らが反王妃に同調する貴族をまとめて敵対勢力のクロタール2世へ寝返り、どうにもならなくなったアウストラシアはネウストリアに下りフランク王国統一となったのでした。
※なお、ピピン1世らの寝返りの時点でフレデグンドは既に亡くクロタール2世による親政が行われていました
このような経緯を経て国を統一したこともあってクロタール2世はピピン1世らアウストラシア貴族に頭が上がらず、貴族たちの要望を聞き入れて生前に息子のダゴベルト1世をアウストラシア王に任命(父クロタール2世が亡くなった後は全フランク王国の国王となっている)。ピピン1世がアウストラシアの宮宰(国王の補佐役)の職務に付くようになりました。
ピピン1世が亡くなってアウストラシア宮宰についたのはピピン1世の息子グリモアルド。
グリモアルドは息子のキルデベルトを後継者のいなかったシギベルト3世の養子とし、キルデベルト養子王として即位させてアウストラシアを名実ともにピピン家の支配下に置こうとしました。
※ダゴベルト1世の死後、ゲルマン民族の分割相続の原則からアウストラシア王とネウストリア王が別々に即位し、再度フランク王国は分割した
が、やり過ぎたこと・約束を守らなかったこと(←アウストラシアがネウストリアの下につくという約束を反故にした)からネウストリア貴族を含む反対勢力が続出しグリモアルドは暗殺されてしまいます。
この後にアウストラシア宮宰を継いだのがグリモアルドの妹の子ピピン2世でした。
※なお、キルデベルトはグリモアルドの亡くなった翌年に死亡しており、王位はメロヴィング朝の手中に戻ります
ピピン(カロリング)家の台頭とフランク王国の統一
アウストラシアの宮宰となったピピン2世はやがて大きな権力を持つようになり、フランク王に危険視されて排除されかけますが、逆に返り討ちにして西隣のネウストリアの宮宰までも打倒。
それ以降、表向きはメロヴィング家の王がフランク王国全土を統治する体を持ちながら、ピピン2世が事実上の統治者となっていました。
ピピン2世の死後、ピピン2世の正妻が唯一生き残っていた息子(庶子)カール・マルテルを幽閉して実権を握っていきます。実権を握った後は(ピピン2世の)孫にあたる幼子を宮宰に選出したため、ネウストリア貴族が反対するなど再度グチャグチャになりました。
その混乱に乗じてカールが脱出するとアウストラシア軍を指揮してネウストリアを黙らせ、全フランク王国の宮宰についたのです。
イスラーム帝国の襲来
カール=マルテルが宮宰となっていた時期にイスラーム帝国のウマイヤ朝が攻め込んできたのはフランク王国の発展と分裂で書いた通りです。
結構詳しく書いたので内容については割愛しますが
トゥール・ポワティエ間の戦いが勃発
↓
カール=マルテルがウマイヤ朝を破る
↓
フランク王国とキリスト教の危機救った英雄となる
こうした変化が現われると、本来王家のはずのメロヴィング家の存在感はますます小さくなっていきました。
ピピン3世の誕生
フランク王国だけでなく、キリスト教世界からの英雄にもなったカール=マルテルも享年55歳で亡くなります。彼もまた息子達に分割して相続を考えていました。
生前は国王がいない時期にもカール=マルテルによる統治が行われる程の実権を握るようになっていますので、息子達からすればかなり魅力的な地位や遺領だったわけです。
そんなわけで、正室の二人の息子達ピピンとカールマンは庶子の弟を捕らえて遺領を奪ってしまいます。加えてピピンとカールマンの二人は国王にメロヴィング家のキルデリク3世を王位につけ、その影響力を行使していきました。
ところが747年。理由は定かではありませんが、突然兄のカールマンが隠棲を望んで修道院に引っ込みました。カールマンにも嫡男はいましたが、ピピンは彼を認めず唯一の宮宰として実権を握っていきます。
やがてピピンは宮宰だけではなく王位も望むようになると、当時のローマ教皇ザカリアスに
「王の称号と実権を行使する者どちらが王に相応しい?」
と尋ねて「実権を持つ者」という回答を得たことをチラつかせ、フランク貴族から国王に選出させることに成功。
こうしてメロヴィング朝は幕を閉じ、ピピン3世がフランク王となった新たなカロリング朝が始まっていくのです。