世界史

中世ドイツ史<2つのザクセン朝(神聖ローマ帝国)>【各国史】

大まかな概要のみの説明は以前『神聖ローマ帝国の変化【中世ドイツ・各国史】』で記事にしたので、今回は流れも含めた解説をしていきます。

ザクセン朝(919~1024年)

ザクセン朝は東フランク王・ハインリヒ1世の時代から始まります(フランス王国のカペー朝にも連なる人物です)

ゲルマン人には王を選挙で決める風習があり、東フランク王国の時代から選挙で国王を選んでいました。その選挙で選ばれた東フランク王・コンラート1世(ハインリヒ1世の前の国王)が武力衝突が続いていた当時のザクセン公・ハインリヒ1世に国の分裂を防ぐため後継者として推挙したのが始まりです。

このハインリヒ1世の子供の一人がオットー1世であり、神聖ローマ帝国の最初の王朝を開くこととなりました。このオットー1世の血縁による王朝をザクセン朝と呼んでいます。

ザクセン朝

オットー大帝の孫・オットー3世がローマ帝国の再興を目指していた(=例に漏れずイタリア政策をガッツリやっていた)のですが、21歳で独身・子もいないまま死去。オットー3世の後は又従弟のハインリヒ2世が継ぎました。

ハインリヒ2世は敬虔なキリシタンであり、堕落し始めていた教会の立て直しを積極的に行っていきます。聖職者の国内の任免権(任命したり辞めさせたりする権利)叙任権】を使い聖職者に高潔な人物を推挙していたのです。

同時に諸侯の弱体化を図るため、諸侯の荘園や私有の修道院などを皇帝の影響下にある教会へ委譲したりしていたのですが...

 

教会と神聖ローマ帝国の結びつきを強くしたことで、聖職者の間で

という懸念も生み出しました。これが後々の叙任権闘争の流れに繋がっていきます。

 

そんな彼も病弱で子がおらず、1024年にザクセン朝は断絶。この後にドイツの聖俗諸侯たち全員一致の推薦でコンラート2世が選ばれザーリアー朝(ザリエル朝)が誕生しました。

 

ザーリアー朝(1024~1125年)

ザクセン朝の次に開かれたのがオットー1世の娘の孫・コンラート2世から始まったザーリアー朝です。

ザーリアー朝家系図

 

ザーリアー朝の最盛期は?

最盛期を作り上げたのは、2代目のハインリヒ3世。王権の強化に邁進し、諸侯達の経済基盤を弱体化させる動きが見られました。ザクセン公国もやられた国の一つで目をつけられていたようです。

一方の教会ですが、ベネディクトゥス9世という乱れた私生活を送る教皇がおりました。殺人、姦淫という暴挙を引き起こしていただけでなく、教皇位まで売り払っていたと言われています。

その結果、正当性を持つ教皇が3人も生まれてしまったのです。

ベネディクトゥス9世(ローマ教皇)(wikipedia)より

このローマ教皇庁の改革に乗り出したのがハインリヒ3世でした。結果、3人の教皇たちを追放し、新たな教皇を立てることになります。

状況が状況だけに避けられなかったとは言え、教会側としては神聖ローマ帝国含めて、「君主による介入は不本意」だと考える者も当然出てくるように。

 

ザクセン公国とザクセン朝との関係は・・・?

ユトランド半島の付け根(現ドイツ北部~デンマーク南部)の辺りに住んでいたザクセン人が徐々に勢力を拡大したのが2~4世紀。

そのうちユトランド半島南の付け根だけでなく結構な範囲を支配するようになります。

ザクセン公国(wikipedia)より

9世紀初めになるとフランク王・カール大帝の支配下に置かれることになりました。この際、ザクセン人の諸部族をまとめていたのがリウドルフィング家で後々ザクセン朝を開くことになります。

リウドルフィング家出身で初の神聖ローマ皇帝となったオットー1世は、その立場からザクセンを度々留守にしがちとなりました。そこで統治を任せたのがビルング家の人達です。

この時点で完全にザクセンは、リウドルフィング家の元を離れてビルング家の系統に変わっていったのです。

 

そんな状態のままハインリヒ3世が若くして亡くなり、跡を継いだのが僅か7歳の息子ハインリヒ4世です。

 

ハインリヒ4世の治世とカノッサの屈辱

ハインリヒ3世の急な死にあっても生前お膳立てをしてくれていたおかげで正式な後継者としてハインリヒ4世が継ぐことになりました。ところが、本人に政治能力がないほど幼かったため、母・アグネスが摂政として支えています。この時点で

  • 諸侯:聖職者を使って抑えつけられていたため反感を持っていた
  • 教会:皇帝への警戒心が生まれていた中で、ハインリヒ3世の治世下で改革を強行。反感を持つようになっていた

という状況だったため、相当上手くやらないと教会や諸侯(中でもドイツ内での重要地・ザクセンの貴族)から一矢報いられるのは想像できますね。

ただ教会も諸侯も一枚岩ではなく、反ローマ教皇派の(母・アグネスの支援する)対立教皇が立てられたり…とゴッチャゴチャな状態で全員が敵といった状況ではなかったようです。

 

味方(敵の敵は味方ってタイプもいた模様)もいるとは言え、ハインリヒ4世は諸侯と組んだ教会の一部の人間に誘拐されて政治を握られた時期もあったほど子供の頃から苦労続きでした。そんな微妙な環境の中でも何とか親政を行うまで成長していきます。

親政開始後はザクセン経営も推進させていったのですが、ザクセン貴族にとっては国に色々言われることは不満の種となっていきます。結局、ザクセン貴族によって反乱・ザクセン戦争(1073~)を引き起こされてしまいます。

この事態を受けて、ハインリヒ4世は自身の息のかかった(諸侯を抑え込むことに繋がるため)司教を次々と任命するようになっていったのですが...

 

この対策は、前王朝・ザクセン朝の代から聖職者たちの間で

 

  「皇帝に教会が掌握されかねない」

 

という懸念が渦巻いてる中で行うには諸刃の剣となる対策でもありました。

 

ハインリヒ3世の代で「教会が掌握されるかも」という懸念していたものが、その息子の代で一気に現実味を帯びたわけです。教会側からすれば司教任命を受け入れ難いのは当然の流れでした。

 

グレゴリウス7世ハインリヒ4世にとって最悪な事に、ちょうどザクセン戦争が始まった頃にローマ教皇となっていたのはフランスのクリュニー修道院から大きな影響を受けていたグレゴリウス7世(在位1073~1085)でした。教会や聖職者を世俗権力から脱却させようと志した人物です。

※修道院では腐敗する聖職者対策のためにも「しっかり教育しよう」という動きが強くなっていました(=教会刷新運動)。この運動が始まったのがクリュニー修道院と言われています。

グレゴリウス7世(wikipedia)より

 

グレゴリウス7世ハインリヒ4世の父・ハインリヒ3世の改革によって追放された教皇(←この方は高潔と名高いお方ですが、教会内での争いの結果追放に至った)の付添人の一人でもあります。そんな背景も相まって次々に叙任権を行使するハインリヒ4世との関係も悪化していきました。

叙任権を取り戻したいグレゴリウス7世は俗人が聖職者を任命することを禁じる教皇勅書も出していますが、ハインリヒ4世はこれを無視し続け、ついには破門されてしまいます

 

ということで、ハインリヒ4世は教会からの破門によってザクセン戦争含む諸侯との対立で不利な状況となり、非常に厳しい立場に置かれてしまいました。結局、教皇に破門取り消しをカノッサの地で乞うカノッサの屈辱と呼ばれる事態にまで陥ったのです。

カノッサの屈辱Gang nach Canossa(wikipedia)より

 

カノッサの屈辱の結果とは??

ハインリヒ4世カノッサの屈辱の後に巻き返しをはかり教会にも一矢報いたのですが、次男(兄は夭折したため実質、長子)コンラートグレゴリウス7世の2代後の教皇ウルバヌス2世側についてしまいます。

※なお、コンラートを教皇側につくように説得したのはマルティダと呼ばれる女傑です

元々ローマ王として即位させ、行く行くはコンラートを皇帝にと考えていたハインリヒ4世でしたが、この対立により帝国議会を開催してコンラートからローマ王位を剥奪。ハインリヒ5世を王位継承者に定めました。

ところが、このハインリヒ5世も継承者に定められたのに実権がないことに不満を持ち始めるようになっていきます。

結局、ハインリヒ5世も父に反旗を翻していますが、コンラートとは異なり、周囲の聖俗諸侯に完全な後継者として認めさせることに成功(父・ハインリヒ4世はこの後、失意の中で亡くなっています)させ、実権を得ることとなったのです。

 

こうして、ハインリヒ5世が皇帝となって叙任権闘争の解決を図ろうと条約を結んだのですが、その内容が

「国王が叙任権を放棄する代わりに教会は世俗的な土地、財産、諸権利を返してね」

というもの。

この内容が公となると教会側は反発。教会側のお偉いさんたちを拉致して強引に戴冠と叙任権闘争の解決を図ろうとしますが、当然、反発を招きハインリヒ5世も破門される事態に陥りました。

※戴冠は無理やり終わらせたので、皇帝にはなっています

 

諸侯達はそれぞれ勢力拡大を狙っていましたから、教会とハインリヒ5世の反対諸侯の結びつきが強くなります。この諸侯の中にはザクセン公・ロタールも含まれていました。

こうしたイザコザの結果、ハインリヒ5世ローマ教皇和解を約束させられ、さらに1122年のヴォルムス協約を結んだことで叙任権闘争の終結を迎えます。

主な内容は,ドイツ以外(イタリアとブルグント)の叙任権はローマ教皇が掌握すること,ドイツでは司教選挙に関して,皇帝に選挙への出席と俗権の授与,教皇側に選挙と司教職の叙任権を認めた。

ヴォルムス協約とは―コトバンク― より

 

この条約を結んだ結果、皇帝のドイツでの教会に対する実質的な影響力は失わなかったものの、皇帝の地位は一層の低下をもたらしました。そんな失意の中で子のいなかったハインリヒ5世が死去。ここにザーリアー朝は断絶となったのです。

 

ザクセン朝(1125~1137年)

時を戻し、ハインリヒ5世が生前皇帝に就いていた頃のこと。

元々ビルング家の人々がザクセンを統治していたましたが、最後の当主が後継者を持たずに死亡してしまいました。そこでハインリヒ5世がズップリンブルク家出身で後にロタール3世となる人物を選出しています。

ところが、後々両者は敵対関係となり、ザーリアー朝を追い込んだ一人として名前が挙がるようになっていきます。

ハインリヒ5世もこの敵対関係を何とか対処しようとしていましたが、その矢先に本人が亡くなってしまったため選挙を行うことに。こうして選挙で選ばれたロタール3世が皇帝の地位に就いたのです。

※ということで、このザクセン朝はオットー1世から始まる系譜のザクセン朝とは異なる系譜となっています。

そんなロタール3世も継嗣のないまま死去。生前、後継を娘婿のハインリヒ10世に…と望んだものの選ばれることはありませんでした。

こうして一代限りで二度目のザクセン朝は途絶え、ホーエンシュタウフェン朝と呼ばれる新しい王朝に突入していきます。

 

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歴ブロ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから始めました。 文章メインのmiumagaとイラストメインの歴ぶろで運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。いつか歴史能力検定を受けたい。どうぞよろしくお願いします。