神聖ローマ帝国の変化【中世ドイツ・各国史】
ドイツの元となった神聖ローマ帝国とイタリアの関係は『神聖ローマ帝国とロンバルディア同盟』で記載した通りです。その結果、両国がどのような変化を遂げていったのかをまとめていきますが、長くなりそうなので今回はドイツだけに焦点を当てて紹介していきます。
神聖ローマ帝国のはじまりとイタリア政策の影響
神聖ローマの王朝や皇帝はどう変わっていったの?
ローマ教会から戴冠されたオットー1世から誕生したと言われている神聖ローマ帝国皇帝ですが、ハプスブルク朝のカール5世までは皇帝としてローマ教皇から戴冠されなければ皇帝とは認められませんでした。
ローマ教会から戴冠されたオットー1世から誕生したと言われている神聖ローマ帝国皇帝ですが、ハプスブルク朝のカール5世までは皇帝としてローマ教皇から戴冠されなければ皇帝とは認められませんでした。
先程の説明の通り、戴冠してもらえる人物は基本的に諸侯による選挙で選ばれたローマ王となります。基本的には選挙によって君主を決めています(選挙君主制と呼ぶ)が、時代によっては世襲制(に見えるような形)で継承されてることもあったようです。
その系譜や君主の出自や選び方などから
- ザクセン朝(リウドルフィング家)【919~1024年】
- ザーリアー朝【1024~1125年】
- ザクセン朝(ズップリンブルク家)【1125~1137】
- ホーエンシュタウフェン朝【1138~1208年、1215~1254年】
- ヴェルフェン朝【1198~1215年】
- 大空位時代【1254~1273】
- 跳躍選挙の時代【1273~1437年】
――――――――中世終わり―――――――――
- ハプスブルク朝【1438~1740年】
- ヴィッテルスバッハ家【1742~1745年】
- ハプスブルク=ロードリンゲン朝【1745~1806年】
のように王朝が分けられています。流れを含めた各王朝の移り変わりについて詳しくは別記事で更新予定です。
神聖ローマ帝国の皇帝が名実を伴うだけの権力を持っていたのはザクセン朝とザーリアー朝の初期の頃のみ。あとは皇帝とは名ばかりの大諸侯の中の一人といった感覚です。
そのザーリアー朝の代では叙任権闘争の末にカノッサの屈辱にまで発展。この一件は皇帝の権力の低下と教会の多大な影響力を映し出すこととなります。
そのうち...世襲のような形で形式通り次代の『ローマ王が選出されローマ教皇による戴冠で皇帝となる』流れが、反王家派により対立王が推挙されるようになると崩れていきました。
※ 王家派/反王家派は便宜上つけただけで、本来はそれぞれ
シュタウフェン派(王家側)/ヴェルフ派(反王家側)と呼んでいます
教会内でも教皇派と反教皇派が生まれていたため、その反教皇派の中から対立教皇を立ててその対立教皇にローマ王の戴冠をしてもらうなど滅茶苦茶な状況になっていき、皇帝が上手く決まらなくなってしまったのです。
こうして皇帝が決められなくなるうちに嫡子がなくて断絶したり、皇帝位が適当に扱われている影響から身内により王位が簒奪されたり獄死させられたりして断絶してしまいます。
また、このイザコザには王や皇帝と縁戚関係のあるイングランドからの介入や、そのイングランドと対立しているフランスの介入を招くことに繋がりました。
大空位時代
大空位時代の頃は、前王朝シュタウフェン朝が断絶したにもかかわらず、前王朝からの派閥争いで諸侯の分裂は継続したままでした。それぞれの派閥が推していたり外国から介入されたりでカスティーリャ王とイングランド王の弟がローマ王として即位します。
が、ほとんどドイツに顔を見せることもなく戴冠まで至りませんでした。
それぞれフランス国王・イングランド国王の傀儡であったため、神聖ローマ帝国の諸侯達はこのままだと「これまで以上に国外からの干渉を招くかもしれない」と危惧するように。
そこで諸侯らは「自分達で選挙して国王を選ぼう」という流れになり、次の跳躍選挙の時代に移ります。
跳躍選挙の時代
最初に選ばれたのはハプスブルク家のルドルフ1世。息子の性格やハプスブルク家の成長を警戒した諸侯は世襲化を望まず、ルドルフの次はナッサウ伯アドルフが選出されています。
その後も世襲化することなく、ハプスブルク家やルクセンブルク家、シュヴァルツブルク家、ウェッテルスバッハ家などが王位に就くようになっています。
こんな経緯から神聖ローマ帝国では王位がコロコロ変わる状況となり、帝国全体の利益よりも領邦君主としての利益を重んじるようになります。また、皇帝として戴冠される者もいたにはいたのですが半分以上がローマ王の地位に留まりました。
元々神聖ローマ帝国にとって皇帝位が必要となったのは諸侯らをまとめ上げるためですし、教会側も皇帝の役割を諸侯が担ってくれるうえ、完全に教会が東西分裂していたのですから必要性が薄れていたのでしょう。
そんな状況の中でルクセンブルク家のカール4世が七選帝侯を金印勅書(黄金文書とも)の発布により確実なものとしており、七選帝侯は殆ど主権国家と変わらない同等の権限が与えられ、ますます国内がバラバラとなっていきます。
なお、跳躍選挙の時代は分断と対立が進んだ時代でした。この理由として諸侯や教会、皇帝の力関係の変化も挙げられますが、ペストが原因の社会不安も背景にあったようです。
※イタリア有名ブランドが「病禍の後」誕生した訳ー中世に感染症禍を克服した国と歴史に学ぶーより
ハプスブルク朝以降
15世紀に入ると、いよいよハプスブルク家が世襲でドイツ王や神聖ローマ帝国皇帝としての即位が続くようになります。強力な皇帝として即位していたわけではなく、実態を伴わない官職の一つとして残っていったような形でした。
やがて16世紀に入ると、宗教改革の波が神聖ローマ帝国内にも及びはじめ、イタリアを巡る情勢も変化してカトリックを後ろ盾とする戴冠をせずに皇帝に就くようになります。
更に三十年戦争(1618~48)を終結させたウェストファリア条約で領邦君主は更に自立性を高めていくと、神聖ローマ帝国は完全に形骸化。神聖ローマ帝国の領邦国家への分裂は決定的なものになりました。
そのうち、隣国のフランスで1789年にフランス革命が起こり、革命に対してヨーロッパ諸国が干渉する形でフランス革命戦争が勃発。後にナポレオン戦争へと移行した影響で、すでに形骸化していた神聖ローマ帝国が名実ともに滅亡することとなったのです。