神聖ローマ帝国とロンバルディア同盟
十字軍の遠征の記事で何度も出てきた神聖ローマ帝国。十字軍や中世ヨーロッパを調べていくとローマ教会と神聖ローマ帝国の関係について何度も言及されているのを目にします。
今回は神聖ローマ帝国と神聖ローマ帝国が行った政策に対抗するため結んだロンバルディア同盟と呼ばれる北イタリアの都市同盟について探っていきます。
神聖ローマ帝国の簡単なまとめ
現在のドイツ・オーストリア・チェコ・イタリア北部を中心とした地域に存在していた国です。
962年※1、ザクセン家※2の東フランクの王・オットー1世がローマ教皇からローマ皇帝の位を与えられたことから始まった神聖ローマ帝国。ローマの名の通り「ローマ帝国の後継国家」を称しています。
※1.800年のフランク王国国王カール1世(カロリング家)の戴冠を始まりとする説もあり。ドイツでは800年説が、日本では962年説が一般的となっています。ビザンツ(東ローマ)帝国の皇帝がカール1世を認めなかったため『ローマ皇帝』なのに西だけ認めても…というところでしょうか。
※2.ザクセン家…イギリスに上陸したゲルマン人の一部族であったザクセン人がライン川一帯まで勢力を拡大するも、フランク王国に降伏。その時のザクセン人のリーダーをザクセン公としています。
神聖ローマ帝国の成立
神聖ローマ帝国を語るにはローマ帝国と教会の関係について触れなければ始まりません。
ローマ帝国の…帝政末期の頃のローマではキリスト教が公認されるようになり、やがて国教化しています。
この頃のキリスト教会には
- ローマ
- コンスタンティノープル
- アンティオキア
- イェルサレム
- アレクサンドリア
の5つの有力教会(五本山)がありました。この中で『帝国の首都』ということで最も有力となったのがローマ教会です。
ところが、やがてローマ帝国が分裂、さらに西ローマ帝国は滅亡します。
西ローマ帝国が滅亡してからは西ローマ帝国の冠位は継承者不在の状態となり、ローマ教会としては庇護者が不在の状況となった一方で、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は代々皇帝が継承され「ローマ帝国の継承者だ」としてコンスタンティノープル教会はローマ教会の首位性を否定するようになりました。
さらに、その微妙な関係は726年の聖像禁止令が出されてからの仲はますます微妙なものになっています。
800年、新たに西でローマ皇帝が立てられた頃のビザンツ帝国は、ローマ教会が認めていなかった女帝が国を治めていた時代です。ビサンツ帝国の女帝を認めないことは、西側が「正当なローマの後継者」を名乗るために必要なことだったようです。
そんな背景があったからこそ、西ヨーロッパ世界で最も勢いがありフランク王国の全盛期を築いたフランク王・カール1世がローマ教皇から帝冠を授与されローマ皇帝となります(これを持って『神聖ローマ帝国の成立』とする説もあります)。
カール1世は『古代のローマ』『キリスト教』『ゲルマン人』の文化を融合させたやり手の王で、ビザンツ帝国と肩を並べるほどの強国を作り上げていきます。
大きな功績をあげ「大帝」とまで言われたカール1世でしたが、彼の死後、フランク王国では相続争いが起きて3つに分裂(それぞれ現在のフランス・ドイツ・イタリアの原型)します。ローマ皇帝の称号は形骸化、西側はローマ皇帝の権威を示すことが出来なくなりました。
この形骸化された皇帝位を復活させた人物が東フランク王・オットー1世です。
このオットー1世の戴冠以降、東フランクは神聖ローマ帝国と呼ばれるようになっていきます。
神聖ローマ帝国とローマ=キリスト教会
ローマ教会がローマ皇帝として戴冠した理由には東西教会が不仲になるにつれて西側の後ろ盾となる国が必要だったことが挙げられます。その後ろ盾になり得るためには軍事力も必要です。
中世ヨーロッパ社会の軍事力の要は騎士階級。騎士階級を掌握しているのは諸侯達。その諸侯の代表が王という関係です。ローマ教会は大々的な軍を持っていなかったので王や諸侯に守ってもらう必要がありました。教会にとっては理にかなっていると言えましょう。
逆に王の立場から見てみると、当時の「王」の扱いは 諸侯の代表者 程度のものだったので諸侯に対する影響力が少なく「言うことを聞いてもらえない」といった事情がありました。ローマ教会によって戴冠されると、教会の威光を使うことが可能になります。
- ローマ教会:軍事力の補佐をしてもらうため
- 皇帝:諸侯をまとめる後ろ盾となってもらうため
お互いにwin-win の関係を築いた結果が神聖ローマという国であり、ローマ=キリスト教会と深く結びついていたのです。互いになくてはならない存在でした。
ローマ教会の関係悪化の理由とは?
一方で繋がりが深いからこそ対立を深めています。
諸侯達はそれぞれ自身の領地に教会※を有していたため、神聖ローマ皇帝にとっては諸侯への影響力を強めるには教会の力が不可欠でした。
※諸侯の領地に関しては『中世西ヨーロッパでの封建社会の成立と教会の権威』をご覧ください
ということで、オットー1世は聖職者の国内の任免権(任命したり辞めさせたりする権利)【叙任権】を握ります。この政策は帝国教会政策と呼ばれました。
フランク王国が分裂し教会が後ろ盾を失いはじめて以降、聖職者たちの腐敗が始まっていた部分につけ込み、時に教会への寄進を行うなどしてオットー1世は神聖ローマ帝国優位に事を進めていきます。
そんなことされると困るのがローマ教会。守りの要・神聖ローマ帝国に対する影響力を失いかねないどころかローマ教皇選出にまで影響を及ぼし始めます。
対抗措置としてローマ教会が行ったのが 聖職者の教育 です。賄賂などを教育によって事前に防ごうというもので、聖職者教育する場である修道院が作られました。
同時に教会側は叙任権を取り戻そうという動きも生まれ始め、神聖ローマ帝国と教会の間には叙任権闘争が起こります。
結果、1077年には神聖ローマ皇帝ハイリンヒ4世がローマ教皇グレゴリウス7世によりキリスト教から破門されてイタリアのカノッサで赦しを請う事態(カノッサの屈辱)に発展。
こうしてローマ教会は影響力を再び取り戻していくようになりました。
イタリア政策とはどんなもの?
イタリア政策とは10~12世紀頃に行われていた
神聖ローマ帝国によるイタリアへの遠征や政治的駆け引き
のことを指しています。
神聖ローマは「ローマを名乗っているのにローマが領土にないのはおかしい」という理由でイタリア政策を行っていきました。
目の上のたんこぶであるローマ教会の本拠地があり、尚且つ地中海に面して水運が発達しているという現実的なメリットもあるイタリア王国を支配下に置こうとする動きは神聖ローマ帝国にとって自然な流れだったと思われます。
なお、過去から現在にかけてまで水運・海運は大量に物資を運ぶことのできる非常に重要な交通手段です。
神聖ローマへの対抗のために結ばれた!?ロンバルディア同盟とは?
神聖ローマの対抗策について攻め込まれる側のイタリアでは主に2つの考え方のグループが出来上がります。
- 皇帝派:こうやって何回も攻められるくらいなら神聖ローマ帝国に下ろう
- 教皇派:教皇と神聖ローマは関係が微妙だし支配下に落ちずにイタリアを守り抜こう!
ロンバルディア同盟は、そんな考え方のうち教皇派の中心となった有力都市の同盟です。神聖ローマに対抗するために奮闘していきました。
- ロンバルディア同盟を詳しく!
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ロンバルディアとは北イタリアにある地域名です。神聖ローマ帝国と教会の対立もあったため、ローマ教皇からの支持を取り付けたうえで2回ほど同盟を結んでいます。
一度目の同盟は5回もイタリア遠征を行った神聖ローマ皇帝・フリードリヒ1世の頃のこと。
※ちなみにフリードリヒ1世は教会とかなり不仲になっていたため破門されています。
神聖ローマ帝国のイタリアへの影響力が日に日に大きくなる中、ミラノやヴェネツィア、ジェノヴァなど複数都市の間で1167年に結成されました。
最初の頃は16の都市だけだったのが31にまで増加しています。およそ20年近い期間同盟を結んでいたそうです。
同盟後20年近く経った1183年には
コンスタンツの和議で皇帝の形式的宗主権を認める代りに,諸都市の自治権を回復することに成功
させています。
そんな折、第三回十字軍遠征の話が出始めます。
元々教皇の発案で始まった十字軍のため、破門状態のフリードリヒについていかない諸侯も出始めていました。その状態で遠征するのは心許ない...という理由で、十字軍に備えてイタリア諸侯を十字軍に募るべく(イタリアへ)出兵したのが二回目のロンバルディア同盟のきっかけです
最初の頃は軍事的にロンバルディア同盟側が負けていましたが、ミラノが粘って粘ってどうにか勝利をもぎ取りました。その結果、最終的には
一応皇帝の宗主権は認められたが、実質的に帝権は後退し、都市の自治が確立し、各地に領域的都市国家群が形成された
ということです。
元々軍事的な目的で発足した同盟ではあるものの、イタリアの港町や北方の手工芸や金融業が盛んな都市も含まれていたこともあって経済的な結びつきも強くなりました。
ヨーロッパの北側にある北海やバルト海を介して貿易を行っていた『北ヨーロッパ商業圏』の中心をなしていた北ドイツの諸都市が結んだハンザ同盟とロンバルディア同盟は、南ドイツにある都市を通じて交流していたようです。