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中世ドイツ史<ホーエンシュタウフェン朝とヴェルフェン朝>【各国史】

歴ブロ

『二つのザクセン朝』では

  • 叙任権闘争カノッサの屈辱を経て皇帝の地位が低下したこと
  • 教会の存在感が増すようになっていたことと
  • 一連の経緯により力を増した諸侯【ザクセン公】から皇帝(ロタール3世)が生まれたこと

をお話ししました。

今回は、その諸侯出身の皇帝の次代からの話です。

※なお、この辺りの時期から少しずつ始まっていったのが東方植民。最盛期が13世紀前半のため中世ドイツ史の次の記事でも触れる予定です。

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ホーエンシュタウフェン朝(1回目:1138-1208年)

シュタウフェン朝

ザーリアー朝の皇帝・ハインリヒ4世の娘でアグネスの息子・コンラート3世から始まったのがホーエンシュタウフェン朝(単にシュタウフェン朝とも)です。

ドイツ南西部シュヴァーベンのシュタウフェン城が家名の由来となっています。

他の諸侯達もザクセン公だけに力を持たせると面白くない訳で、領地をあまり持っていない人物がふさわしいと考えていました。

そんな諸侯達が納得できたのが「血筋も良くて条件に当てはまる人物」がコンラート3世です。

コンラート3世は前王朝ザクセン朝で皇帝を決めた際にロタール3世の対抗馬として名前の挙がった人物でした。

ロタール3世が「次期皇帝に」と生前推していたハインリヒの方はバイエルン公(10世)とザクセン公(2世)も兼ねていたため、ドイツ南西部のシュヴァーベン公国を治めていた(比較すると)弱小勢力のシュヴァーベン大公・コンラート3世に焦点が当たったのです。

一方でロタール3世の娘婿・ハインリヒ10世やザクセン人側の立場の人達から見ればコンラート3世の選出は「法に則った形で選ばれてない」と不満が残る人選でもありました。

コンラート3世はこの事態に対してハインリヒ10世の死後、彼の治めていた土地をそれぞれ

  • バイエルン:ハインリヒ2世(ゲルトルートの再婚相手でコンラート3世の異父弟)
  • ザクセン:アルブレヒト1世(ドイツの東方進出に寄与した人物。新設されたブランデンブルク辺境伯にも封ぜられたが、この時点でブランデンブルクは社会的、経済的な立場が非常に弱い領地だった)

全く関係ない人物に与えて収拾を図ろうとしています。

自分の身内や立場の弱いものに土地を治めてもらって、ザクセン公となったハインリヒ10世の息子・ハインリヒ獅子公(ザクセン公だとハインリヒ3世/バイエルン公だと12世)に力を集中させないようにしていたわけですね。

ところが、その後コンラート3世の思惑に反して、ザクセン公のハインリヒ獅子公がこれらの領土を取り返しています。

れきぶろ
れきぶろ

この一件からもザーリアー朝の流れを汲むシュタウフェン朝ロタール3世の流れを汲むヴェルフ家の関係が想像できますね。

フリードリヒ1世の治世

領土を取り返した件や『獅子公』の名前の通り、ハインリヒ3世は結構なやり手で最盛期には広い領土を所有していました。

 ※ハインリヒ獅子公東方植民ハンザ同盟の主導都市・リューベックをはじめハンブルクミュンヘンといった複数の都市の建設を請け負っています。

が、そこに立ちはだかったのはシュタウフェン朝きっての人物で『英雄』と呼ばれたフリードリヒ1世でした。神聖ローマ帝国内の混乱を治めて協調をはかった人物です。

シュヴァーベン公時代から頭角を現していたことでコンラート3世の後継として選ばれており、ハインリヒ獅子公の従兄弟に当たります。

イタリア語で赤髭王を意味する『バルバロッサ』があだ名となっている様にイタリア政策に力を入れた皇帝として有名です。

フリードリヒ1世はイタリア政策の方針の違いをキッカケに一度は関係改善したはずのハインリヒ獅子公ローマ教会と対立が深まっており、ハインリヒ獅子公に関しては神聖ローマ帝国から追放までしてしまいます。

この時に獅子公ハインリヒ獅子公が頼ったのが義父にあたるイングランドプランタジネット家・ヘンリー2世でした。彼はアンジュー帝国とまで呼ばれる程の領地を持つ、ヨーロッパ内でも有数の実力者です。

イギリスとフランスの関係を書いた記事にも書いてありますが、当時のイギリスはフランスとの仲が拗れはじめていたため、後々神聖ローマ帝国内の争いにイギリスだけでなくフランスも絡んでくる伏線になってきます。

一方でイタリア政策を進めていたフリードリヒ1世はオーストリアやブルグンドなどの領土を拡大させることに成功させています。

さらに、息子のハインリヒには南にあるシチリア王国の王女との縁談を進め、イタリア北部にある反皇帝派の筆頭都市ミラノで挙式させています。これはローマ教皇領を挟んだ南北の大国の協力体制を意味し、ローマ教会に対する大きな圧力となっていたようです。

※教皇領は時代によって大きさがだいぶ変わっています。今回は『神聖ローマ帝国とは―コトバンク―』の「神聖ローマ帝国の領域の変化(ホーエンシュタウフェン朝時代)」を参考に地図を作っています。

Q
シチリア王国について

ヴァイキングによるイタリア進出が進み、1130年にシチリア王国(ノルマン朝またはオートヴィル朝)が成立した際の初代国王がルッジェーロ2世です。

彼の娘が(シュタウフェン朝の)ハインリヒ6世の妻となったコンスタンツァ【1154年誕生、グリエルモ1世とは33歳?差の兄妹】で、父ルッジェーロ2世が亡くなった後に生まれました。ルッジェーロ2世には男児も産まれていましたから、その後は息子が跡を継いでいます。

シチリア王国(ノルマン朝またはオートヴィル朝)の歴代国王
  1. ルッジェーロ2世【在位期間:1130~1154年】
  2. グリエルモ1世(ルッジェーロ2世の息子)【在位期間:1151~1166年】
  3. グリエルモ2世(グリエルモ1世の息子)【在位期間:1166~1189年】

    この後も男児が続けばそのまま直系と行きたかったところなのですが、グリエルモ2世に嫁いできたイングランド王リチャード1世の妹ジョーンとの間には男児が出来ず、コンスタンツァが王位継承者として1185年に貴族らによって認められることとなりました。

    この1年後に神聖ローマ皇帝のハインリヒ6世との結婚が決まっています。

    ということで、ハインリヒ6世がコンスタンツァと結婚したことで表向きシチリア王国はシュタウフェン朝の支配下に置かれることとなったのですが、外国に嫁いだコンスタンツァの王位継承を嫌ってシチリア国民はグリエルモ2世の従兄弟タンクレーディを擁立。

    一方で貴族達にとってはタンクレーディは庶子出身だったため王位継承に不満を持つ者が多く、コンスタンツァ派が優位だったようです。

    このねじれ状態が後々シチリア王国の反乱を招く事態を引き起こしていきます。

    神聖ローマ帝国とシチリア王国に挟まれることを嫌がっていたローマ教会にとって、シチリア王国内部で混乱が起こったままの状態は利になる状況となっていたのです。

    ハインリヒ6世の即位とヴェルフェン朝

    そんなフリードリヒ1世第3回十字軍の遠征中に不慮の事故(暗殺説、卒中説もあり)で死去。この跡継ぎがシチリア王女と結婚したハインリヒ6世です。

    教会との関係を改善させるために十字軍遠征の準備を進める裏で、ハインリヒ6世の息子フリードリヒ2世へ皇帝位継承を弟のフィリップらの協力を得て確実なものとさせました。

    こうしてフリードリヒ2世がローマ王として選出されることになったのですが、選出されたのと似たような時期にシチリアではドイツ王の支配者を良しとしない者達による反乱が勃発。この反乱に対応する中でハインリヒ6世が赤痢によって死去してしまいます。

    この頃のフリードリヒ2世は幼少であり、周囲から良いようにされることを危惧した母が、ローマ教皇のインノケンティウス3世を頼り摂政となりました。ところが、母コスタンツァも死去。ハインリヒ6世と母コスタンツァの死後はインノケンティウス3世が後見となりフリードリヒ2世は成人を迎えることとなります。

    なお、インノケンティウス3世は歴代ローマ教皇でも最も大きな権力を有した教皇です。「教皇権は太陽、皇帝権は月」という有名な言葉を残しています。

    ヴェルフェン朝(1198-1215年)

    ハインリヒ6世が亡くなり、ゴタゴタし始めていた中で隙をついてきたのがヴェルフ家オットーです(反シュタウフェン派が当初擁立しようとしていたのはオットーの兄ハインリヒでしたが、十字軍遠征で不在だったため、オットーが擁立されました)

    ヴェルフェン朝

    この事態を重く見たシュタウフェン朝支持派の諸侯達は幼少のフリードリヒ2世では対抗できないと踏んでフィリップをローマ王に推しました。

    オットーの支持者の中に「ローマ王を正式に戴冠できる」大司教がいたことを理由に帝位の主張がなされると、ローマ教皇インノケンティウス3世はフィリップではなく、オットーの方を認めることにしたようです。

    Q
    フリードリヒ2世・フィリップ・オットー4世の在位期間と主な出来事

    ハインリヒ6世が24歳の時、皇帝フリードリヒ1世が死亡して即位したのを機に、ヴェルフェン家が動き始めます。元々司教となっていたオットーロタール3世以来の皇帝位を目指して還俗。

    シュタウフェン家と反シュタウフェン家の対立関係が表立って見えてくるようになりました。

    ※シュタウフェン派:ハインリヒ6世、フィリップ、フリードリヒ2世
     反シュタウフェン派:オットー4世               

    その還俗から2年後。イングランド国王のリチャード1世が第3回十字軍の帰路で捕虜となっています。巨額の身代金がシュタウフェン派のトップで皇帝のハインリヒ6世に支払われるという出来事が起こりました。

    オットーは父ハインリヒ3世フリードリヒ1世(赤髭王)の対立から母の実家であるプランタジネット朝に匿ってもらった時期があり、その関係性からオットー4世はプランタジネット朝(当時はヨーロッパ有数の領地持ちです)の恩恵も受けていたのですが...

    身代金の支払いでプランタジネット朝の財政は悪化し、逆にシュタウフェン派の懐事情が温まったことで軍事力など必要な部分にしっかりお金をかけられるように。

    そんな背景もあって、リチャードが捕虜となった件は神聖ローマ帝国内の勢力争いに直接的な影響を与えました。

    その翌年にフリードリヒ2世が誕生しますが、数年後父母が死亡。インノケンティウス3世が後見に着きますが、まだ子供だったため反シュタウフェン派に追い込まれる可能性を危惧してフィリップがローマ王に推戴された経緯は先程の説明の通りです。

     

    その条件としてオットーに「教皇に服属する」ことを約束させているのですが、彼はその意向を無視して皇帝の権威を取り戻そうとしはじめました。

    オットーの振舞を見てインノケンティウス3世は彼から手をひこうかという時にフィリップが娘の結婚問題をこじらせ暗殺されてしまいます(1208年)

    こうした経緯から、結局はオットー4世として戴冠されることになったのですが...

    その後も相変わらず教会の威光を一切無視し続けるオットー4世に対して「話が違う」ということで、インノケンティウス3世フリードリヒ2世支持に回り、とうとう1210年にオットー4世は破門、廃位となったのです。

    ホーエンシュタウフェン朝(1215-1254年)

    以上のような経緯でインノケンティウス3世によってフリードリヒ2世が支持された後、ヴェルフェン朝からシュタウフェン朝に皇帝位が戻っています。

    このフリードリヒ2世はシチリア島で育ったため、イスラム王朝への造詣も深く言語も堪能。第5回十字軍では外交交渉によるイェルサレム奪還に成功させた異例の皇帝です。中世において『時代を先取りしすぎた皇帝』として評価されています。

    が、これまでの皇帝と教会の争いの流れもあってフリードリヒ2世も破門。

    この後も諸侯や教会との諍いは継続されてフリードリヒ2世にも対立王を立てられるなどした結果、シュタウフェン家の勢力は急速に衰え、コンラート4世の代で断絶しています。

    こうして互いに譲らない権力争いが続いた結果、大空位時代を迎えることとなったのです。

     

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    歴ブロ・歴ぴよ
    歴ブロ・歴ぴよ
    歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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