ヴァイキングの活動を見てみよう
イギリス史に入りたかったのですが、イギリス史を語る前に欠かせないのがヴァイキングによる侵略についてのお話です。
イギリス以外のヨーロッパの歴史にもヴァイキングの活動は大きな影響を与えたので、まとめていきます。
ヴァイキングが活躍していた時期とは?
ヴァイキングの活動が少しずつ確認されるようになったのは750年頃ですが、特に活発化していたのは9~11世紀頃の時期と言われています。
スカンジナビア半島(北欧に位置する)から海を渡って世界進出を始めたヴァイキングたちはヨーロッパに留まらず大西洋を渡ってグリーンランドや北アメリカ、あるいはロシア南部からイラン北部へ広がるカスピ海周辺まで活動範囲を広げました。
ノルマン人による大移動
ヴァイキングがどんなものか簡単な説明を見てみると
8世紀末より11世紀後半にかけて海上からヨーロッパ各地に侵入した北ゲルマン人(ノルマン人)の別称。
(中略)
デンマーク系、ノルウェー系、スウェーデン系に大別される。バイキング(コトバンク)より
となっています。
デンマーク系=デーン人、ノルウェー系=ノール人、スウェーデン系=スウェード人と呼ばれていますが、それぞれが別の方向へ伸張し
- デーン人 → イングランド・フランス北西部
- ノール人 → スコットランド/フランス北西部 → イタリア
- スウェード人 → ロシアの一部
といった地域にまで進出しました。
当時の北欧の状況はどんな感じだったのか?
当時の北欧は10世紀半ば頃までは、国のような統一政権も国境もない土地で現地の豪族らによる群雄割拠の時代でした。
が、10世紀半ば以降はノルウェー・スウェーデン・デンマークには三国の中心となる王権が生まれ始め、銀や贅沢品の需要が高まってきています。
なぜヴァイキングは外へ出ようとしたの?
ノルウェー・スウェーデン・デンマークの三国はヴァイキングが活発になる前からも交易をちょこちょこ行っています。どこも非常に寒い地域ですから穀物はなかなか作れず、交易で他所から穀物を仕入れなければ食べることが出来なかったので、海外に出ることが以前からあったようです。
交易の品々は近・中距離の場所だと武器、魚の干物や塩漬け、木材、生活用品など、遠距離の交易圏だと奴隷や毛皮などを扱っています。
そこから活動が明らかに増えたのが750年頃。
750年頃と言えば、スカンジナビア半島にユーラシア西部からイスラーム銀(ディルハム)が入ってきた頃と言われています。この頃はちょうど中央アジアのウズベキスタンで見つかった銀山が見つかって質の高い銀貨が作られるようになっていたのです。
銀山があるウズベキスタンは東西交易路シルクロードの中継地も含まれている場所です。661~750年にかけてはウマイヤ朝が、その後はアッバース朝が進出。新たにイスラム教が根付き始めていました。この銀を求めて海に出た説が最近注目され始めています。
更に時代が下って三国に王権が生まれ始めると、ノルマン人同士の争いに敗れた者達が海外に出るようになっていきます。750年からも海外進出し始めていますが、この三国の王権が生まれてから更に活発化するようになっていったのです。
数十年前からの積極的な海外進出によって、豊富な航海術や地理的な知識を手にしていた状況だった他...
※「オアシスの道」「草原の道」「海の道」の総称をシルクロードとすることも
先進国のイスラム世界や東アジアとの交流から工業技術・軍事技術が西ヨーロッパ諸国よりも優れていたことも指摘されているようです。
かなり簡略化したイメージ図ですが、先進国との交易が行いやすい中央アジアと直接やり取りできる北欧と、途中で色んな国々を介さないと交易が行えない西ヨーロッパ、どちらが先進技術を取り入れやすいかは一目瞭然ですね。
なお、ヴァイキングが元々求めていた銀貨・ディルハムは、ノルマン人達がイングランドへ大挙して押し寄せた時期頃から減少し始めています。イスラーム世界だけではない別の地域へ富を求めて拡大していったのです。
先進国に準じた場所を攻めるよりは、暖かくて住みやすそうなのに労力をかけずに奪えそうな場所を求めるのは分かる気がします。
イギリス・フランスへの進出
北欧の三国の中でイングランドを襲撃したのはデンマークからやってきたデーン人。最初に侵略したのは『アングロサクソン年代記』によると787年、もしくは789年とされています。
彼らは、はじめの頃は東部イングランド~フランス北西部の沿岸伝いに略奪行為を行っていたのですが、次第に河川を遡って内陸部に侵入。
沿岸部だけでなく内陸部の諸都市も襲うようになると、次第に定住化も進むようになりました。厳しい自然と穀物のあまり育たない土地よりも平地の多いイングランドを選ぶのは当然と言えば当然だったのかもしれません。
もちろん、イングランドもやられっぱなしではありませんでした。8~9世紀頃の侵略ではアルフレッド大王が領地を取られても取り返しイングランド全域をデーン人に完全に取られることだけは何とか避けることに成功。テムズ川以北の東部地域の支配(半分近く取られたけど)に留めさせています。
このデーン人に支配され、アングロ=サクソン人と異なる文化や慣習の残った地域をデーンロウと呼んでいます。
フランスへの侵略
やがて10世紀になると、特にフランスセーヌ川河口を中心に定着した者達がノール人のロロを首領として西フランク王国を脅かすようになります。
パリを含めた諸都市が侵攻に悩んだ結果、西フランク王のシャルル3世単純王が譲歩し
- キリスト教への改修
- 西フランク王国への臣従
を誓う代わりに、領地としてセーヌ川河口域を与えました。こうして、ロロは改宗してノルマンディー公となり、その領地がノルマンディー公国となったのです。
イングランドへの侵略
場所をイングランドに戻しましょう。
ノルマンディー公国が建てられた後、イングランドはデーン人に攻め込まれてしまいます。
【デーン人とウェセックス王国が険悪になるまで】
イングランド王位について以降、エゼルレッド2世はずっとデーン人の侵入に苦しめられるように
ノルマンディーを拠点にデーン人がイングランドに来ることを恐れ、エゼルレッド2世はノルマンディー公の娘と結婚し友好をはかった
ノルマンディー公と組んで強気になったか?
デンマーク王スヴェン1世の反発を招き、デーン人による侵略が激化
まだ幼いエドワード(後の懺悔王)を母方の実家ノルマンディーに亡命させた
こういった経緯を経てデーン人によるウェセックス侵攻の流れが出来上がりました。更にデーン人との諍いは続きます。
【デーン人侵略の流れ】
スヴェン1世がイングランド王に即位
- エゼルレッド2世が再度イングランド王を奪い返す
- スヴェン1世の息子クヌートがイングランド遠征を継承
死去した父に代わり、エドマンド2世が王位に
エドマンド2世も病没(暗殺説もあり)
エドマンド2世の領土がクヌートに譲られる
前々代のイングランド国王・エゼルレッドの妻でエドワードの母がクヌートと結婚
以上のような流れでイングランドはデーン朝に支配されました。
この後、デーン朝の国王クヌートが亡くなり王朝が瓦解すると、ノルマンディー公国に亡命していたエドワード懺悔王がアングロ=サクソン系の王朝を復活させています。
が、エドワードの死後にアングロ=サクソン系の王朝は長く続きませんでした。
というのも、義弟のウェセックス伯ハロルドが王を名乗り出たのですが、エドワード懺悔王の遠縁ノルマンディー公ウィリアムが待ったをかけたのです。
エドワードが亡命先にいたウィリアムに
「イングランドの王にしてやろう」
と約束していたのに話が違うとしたのがその理由です。
こうして、ウィリアムは王位を要求してイングランドに侵攻。ノルマン人による征服ノルマン=コンクエストを成功させ、ノルマン朝を開きました。
ここでフランス王の臣下ノルマンディー公がイングランド王になるという争いが起こる未来しか見えない複雑な事情が生み出されることになります。
イタリアへの進出
イングランドでイザコザがあった少し後、ノルマンディー公国などから一部のノルマン人がイタリアまで向かうようになっていました。
イタリアへ向かったノルマン人はノルマンディー公国で既に現地の貴族化したノルマン人でしたが、十字軍の時の二男・三男と同じような流れでイタリアへ向かって行ったのです(『十字軍遠征による影響と変化』参照)。
勿論、他の地域へ行った者達もいたにはいたのですが、この頃のイタリアは
- 神聖ローマ帝国
- イスラーム
- ビザンツ帝国
と統治が入り乱れ、絶好の征服の機会と見られていたのでした。
イタリア方面まで移動したノルマン人はみんな非常に強かった。というわけで、イスラーム勢力と本格的に衝突し始めていたローマ教会は考えました。
こうして、ノルマン人にはシチリアと南イタリアの領地を認める代わりに(ノルマンディーから来たとは言え、まだ改宗していたわけでもなかったので)ローマ=キリスト教へ改宗させ、両シチリア王国(1130年~)が作られるようになったのです。
ロシア方面への襲撃
一方、北欧東部を見てみると...
9世紀半ばにスウェーデンから何度もロシア方面へスウェード人が侵入するようになった頃、先住民の東スラブ人達が部族同士で抗争が続けられていたそうです。
そんな時期にバルト方面からリューリクという人物に率いられたスウェード人の一派・ルーシ達が侵入するとノヴゴロドという国を建てて混乱を収束させたと伝えられています。
リューリクの死後は彼の遺児・イーゴリを擁する一族の一人・オレーグがノヴゴロドを通るドニエプル川を南下して都市国家キーウ(キエフ)を882年に占領し、南北に住む東スラブ人達を統合。オレーグの死後はイーゴリがキエフ大公として治めるようになり、ここにキエフ公国(キエフ=ルーシ)が誕生しています。
リューリクの話は伝説的な要素が濃いと言われていますが、オレーグという人物はビザンツ帝国の文献にも出ていて確実視されているようです。また、ご想像の通り『ルーシ』という言葉は『ロシア』の語源になり、後のロシア国家の起源となったとされています。
このキエフ公国は、さらに南下した場所にあるビザンツ帝国へ外征しに行ったり、あるいはビザンツ皇帝の妹と結婚してギリシア正教を国教化したりとビザンツ帝国との関係を深めています。
これが後々ロシアがビザンツ帝国の...強いてはローマ帝国の後継国家を称する伏線となっていくことになります。