ルイ14世の治世下で変わった軍の変化とは?【フランス各国史】
フランスの絶対王政全盛期を築いたのがルイ14世(在位:1643-1715年)。国際的にも大きくフランスの存在感は増し、その地位を高めていました。
ル・テリエ、ルーヴォア父子を軍の責任者に据えて傭兵に頼らない膨大な常備軍を持つ陸軍大国になるよう改革を進め、同時期に生まれた自然国境説を唱えて侵略戦争を盛んに行なうようになっていきます。
ここではルイ14世がその自然国境説を理由に周辺諸国に攻め込むことが出来るようになっていたフランスの軍隊事情に迫っていきます。
中世から近世までの軍の変化
まだ封建制度が残っていた中世の軍の集め方は、有力貴族が軍役奉仕義務を持つ封臣(土地を介して結ばれた臣下)を招集するのに加えてお金で傭兵を雇い戦闘を行っていました。
当時は一人の諸侯が二人の国王と主従関係を結ぶこともあったため、状況次第では臣下が思いっきり逆らうようなこともあり、逆らう際に軍を持っていると非常にまずい。ということで、心の中で国王は「できる限り諸侯たちに軍なんて持ってほしくない」と考えていました。
そんな中で時代が変わり、諸侯や騎士の権力が弱くなり王権が強くなると「国王のみが軍を持つことが出来る」と主張しはじめます。
常備軍の始まり
フランスでは1445年の百年戦争の最中にシャルル7世の治世下で行われた軍制改革で創設された王令部隊が常備軍の始まりです。百年戦争でイギリスやイギリスと結んだフランスの諸侯との諍いが長く収まらず、強い軍隊を持つ必要がありました。
※常備軍自体は爵位を持つ貴族たちも持っていたようです
やがて16世紀になると志願兵(傭兵)で構成された部隊の常備軍化がさらに進みます。
ここに過去のイスラーム勢力との戦いで流入してきた火器の使用や戦闘・戦術の発展と連動し、その火器などを使った新しい戦争になったのがイタリア戦争です。
国王のみが軍を持てるようになった経緯とは?
イタリア戦争のように火器の使用と洗練されはじめた戦闘や戦術には
- 訓練された大軍
- 大軍を賄うだけの(人用の)食糧と(騎馬用の)飼料
- 武器
が必要になりました。
それだけの準備ができるのは国家に限られるようになります。そうじゃないと「敵に勝利できない!」という言い分も出来ますし、諸侯による反乱の目もなくすことが出来ます。一石二鳥の言い分だったんですね。
以上のような経緯で、この辺から更に王に権力が集中し始めます。その権力と権力のバックボーンである軍事力を確保するため、やがて重商主義が取られていきました。
元帥職の廃止と軍の最高責任者・陸軍卿の創設
ルイ14世の父であるルイ13世の頃の宰相リシュリューは、国王に匹敵するほどの実力者がついていた軍のトップ・元帥職を廃止し文官である陸軍卿を軍の最高責任者にしています。
この地位に就いたのがル・テリエ(1603-1685年)、ルーヴォア(1641-1691年)父子で、二代に渡って軍の統制を強化しました。
- 陸軍卿と軍隊との文書(命令/報告)の増加
- 部局の増加
- 各地の軍に軍政監察官を派遣
- 後方支援体制の整備(糧秣貯蔵庫/弊社の建設など)
- 傷病兵の収容施設の設立
こうした変化が表れています。
また、フランス東北部を中心に築城の盟主ヴォーバン(1633-1707年、73歳没)により要塞群が築かれたのもこの頃。『ヴォーバンの防衛施設群』として現在では世界遺産にされています。この要塞群も国家事業として戦争が行われていたことを示したものです。
陸軍の兵員数の変化
下のイラストは、フランスが常備軍を作ってからの兵士数の推移です。
※何となく、この辺の時期に◯◯戦争があったんだ程度で見といて下さい。
15世紀末と比較すると、フランソワ1世の頃に少しずつ動員人数が増えていますが桁が変わったのがルイ13世の時期。絶対王政の全盛期に入りつつある頃と一致しているのが分かります。
このようなルイ14世の治世下には他国が警戒するほどの大きな兵力を持つようになっており、周辺諸国に攻め込める体制が整っていたようです。