フランス

露仏同盟が結ばれた背景を流れで見てみよう【ヨーロッパ史】

歴ブロ

世界史視点から見た日露戦争』の記事では、フランスとロシアが結びついたことを簡単にお話ししました。

今回は補足として露仏同盟が結ばれるに至ったヨーロッパ事情を探っていこうと思います。

 

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ウィーン体制の崩壊

ウィーン体制とは、18世紀後半~啓蒙思想と自由主義の広がりを背景にフランスで市民革命が起こり何とか終結させた後に作られた国際秩序を指しています。

この革命により周辺諸国は政体まで変わっていたりするので、ちょっとだけ詳しく書いていこうと思います。

ナポレオン=ボナパルトの台頭

フランスで起こった市民革命・フランス革命ではナポレオン=ボナパルトが混乱を制すると、国民たちは彼に熱狂し支配を受け入れるようになりました。

多くのヨーロッパ諸国が革命を抑え込んだため、フランス国民たちは周辺国から敵対行動をとられたと認識しはじめます。そこで、国民支持のもとでナポレオンが対外戦争を開始。多くの場所でナポレオンは勝利を収めました。

やられた側の(領邦の集合体で名ばかりになっていたとは言え)神聖ローマ帝国は完全に消滅し、後にオーストリアを盟主とするドイツ連邦が発足しています。

なお、この戦いにおいて各国では「自分達の国・民族を守ろう!」という気持ちから民族主義(国民主義やナショナリズムとも)が生まれ始めました。

大陸封鎖令

やがて、一度敗れてフランスに協力していたロシアがイギリスへの制裁(=大陸封鎖令に非協力的だったことを理由にロシア遠征(ロシアでは祖国戦争)で攻め込まれると、風向きが変わりはじめます。

冬将軍の助けもあってロシアがフランスを撃退したのです。これを機に他国もフランスへ反撃を開始、ナポレオンは失脚まで追い込まれました。

ピョートル1世以降の混乱~ナポレオン戦争【ロシア史】前回はロシア帝国を作り上げたピョートル1世が「自分が良いといった人物に皇帝を任せる」と言いながら次期皇帝を指名しないままで亡くなったとこ...

 

ここで出来上がったのがメッテルニヒ(墺)主導で革命勢力を抑え込もうとするウィーン体制です。自由主義民族主義が広がって革命が起こったので元の体制に戻そうと各国で王政復古が行われます。

ウィーン体制はロシアのアレクサンドル1世が提唱した神聖同盟(1815年)【英・土・ローマ教皇を除く全ヨーロッパの君主たちが参加】と現状維持を目的とする四国同盟(1815年)【英・露・墺・普が参加、後に仏が加入して五国同盟に】が柱となりました。

・・・とは言え、一度自由を知った後に抑え込まれるのは至難の業。再びヨーロッパに啓蒙思想や自由主義、民族主義が広まるようになっていきます。

 

19世紀に入って起こったこととは?

ウィーン体制が出来たとしても想像通り、1820年前後辺りから

  • ドイツ:ブルシェンシャフト運動
     学生団体による自自由主義運動
  • イタリア:カルボナリの運動
     小地主や商工業者らの秘密結社による運動。イタリア統一を目指し、墺支配へ抵抗した
  • ロシア:デカブリストの乱
     ナポレオン戦争で自由な空気に触れ、農奴の悲惨な状況に悲観して専制政治に反対

など、各地で自由主義・民族主義運動が起こり弾圧されるようになりました。

そのうち抑え込むのに失敗し、ラテンアメリカ諸国やギリシアの独立といった例も生まれ始めます。

さらに、フランスでも1830年に王政を再度否定する七月革命が発生。七月革命で新しい王朝が建てられますが、その王朝も二月革命で倒されると自由主義を目指す動きは各国へ波及していきました。

七月革命と二月革命の影響

上の地図で特に注目して欲しいのがオーストリア帝国でのハンガリー独立運動です。この独立運動ではロシアがオーストリアへの支援を行っていました。この関係が後々オーストリアの立ち位置を変化させ、欧州内でのパワーバランスを変えることになります。

 

クリミア戦争

こういった外国との戦いや交流の中で西側諸国との差を痛感し始めたロシアは貿易による経済発展を目指して不凍港を目指すようになっていました。

ロシアの南には冬でも凍らない黒海がありますが、その先を目指すにはオスマン帝国の支配する海峡を通らねばなりません。力を失いはじめたオスマン帝国を見て「港を自分達の影響下に置きたい」と考えたロシアはクリミア戦争を起こしました。

結局、クリミア戦争ではロシアの南下を危惧し始めた英仏の支援もあってオスマン帝国が勝利しています。

バルカン諸島をめぐるロシアとオーストリアの関係

この戦争で一つ特記しとく出来事が露墺関係の悪化です。関係悪化によってハンガリー独立運動へのロシアからの支援が期待できなくなり、後にオーストリア=ハンガリー帝国という二重帝国成立に繋がりました。

 

パリ条約の締結(1856年)とその影響

数々の自由主義運動で無効化しはじめていたウィーン体制は、クリミア戦争を終結させるためのパリ条約で神聖同盟がなくなり完全崩壊しました(ウィーン体制で協調関係を結んだ列強同士が戦ったので当然です)

※フランス二月革命やオーストリア三月革命でメッテルニヒが追放されて崩壊と捉える考え方もあります

支配地域で独立運動を起こされて少しずつドイツ内での影響力を落とし始めたオーストリアは、体制崩壊でヨーロッパ内での影響力も下げてしまいます。

 

クリミア戦争後のドイツの変化

こうした変化の中、ドイツ連邦のトップを巡る普墺戦争(1866年)が勃発しました。

この戦争に勝利したプロイセンがドイツの盟主となり、北ドイツ連邦が新生。敗れたオーストリアはドイツから外され、他のドイツ諸邦はプロイセンに近付きました。

更にオーストリアは支配していたハンガリーとの力関係を考えて、敗戦の翌年にはオーストリア=ハンガリー帝国を成立させています。

 

クリミア戦争後のフランスの変化

1870年になると、プロイセンはフランスとも戦いました。いわゆる普仏戦争です。

ドイツ統一に弾みをつけたいプロイセン宰相のビスマルクがフランスの皇帝ナポレオン3世を挑発して始まっています(ナポレオン3世としてもプロイセンの影響力を阻止したい思惑がありました)

オットー=フォン=ビスマルク(wikipedia)より

この普仏戦争ではイギリスは不介入、ロシアはアレクサンドル2世の時代で隙を見て南下を開始しています。

普仏戦争の裏で起こっていたこと

普仏戦争で皇帝が捕虜となったのを知ったパリ市民達が蜂起して帝政が崩壊。1870年には臨時国防政府が成立しましたが、ドイツ軍はそのまま侵攻しました。臨時政府はそのまま抗戦を続けるも結局は降伏しています。

フランスは普仏戦争での賠償金を支払うと第三共和政へと政体が変更されました。さらに鉄鉱石や石炭を産出するアルザス=ロレーヌ地方も奪われています。

※共和政:君主を持たない政治体制のこと

プロイセン主導!ビスマルク体制の構築

普仏戦争を起こしたビスマルクは、自国を守るためフランスとは反対にある大国・ロシアとオーストリアとの軍事同盟・三帝同盟(1873年)を結びました。

三帝同盟

ただし、露墺関係はバルカン半島の問題を抱えて上手くいきません。同盟締結中に起きたバルカン諸国独立を巡る露土戦争の後処理で、三帝同盟は瓦解したのです。

それでもドイツはロシアとオーストリアどちらかがフランスと結ばれると「窮地に追い込まれかねない」と危惧して、まずは二国間での同盟を締結させました。

ここがビスマルクの上手いところ。対ロシアを見据えた独墺同盟(1879年)を結んでロシアにプレッシャーを与えつつフランスに対する危機感を煽ります。こうして再度三か国での協力体制三帝協商(1881年)を結ぶことに成功させたのです。

三帝協商と三国同盟もちろん、二国間関係でオーストリアを優先させた理由にはロシアのような大国が「不凍港を手に入れたら手に負えないかも...」という警戒感もあったようです。

 

イタリア、露墺同盟に加盟する

さらにビスマルクはフランス孤立化のために手を緩めませんでした。

この辺りの時期にフランスと国境を接するイタリアがアフリカにあるチュニジアを巡る問題で対立したため、独墺同盟に加盟する形で三国同盟(1882年)を結んだのです。

 

フランスとイタリアで起こった問題とは?

この頃のフランスは、ビスマルクにヨーロッパでの活動をかなり制限されていたため、アフリカやアジア方面へ植民地拡大政策を加速させています。

一方のイタリアでは、かねてよりチュニジアと経済交流が盛んだったことから「チュニジアは自国の経済圏」と考えていたのですが、フランスが政策の一環として保護国化したために反発。イタリアの対仏感情が大幅に悪化したようです。

 

露墺同盟へのイタリア加入による問題点とは?

当然、ロシアを抑え込む形の「独墺同盟への加盟」ということで三帝協商(独・墺・露)と矛盾点を含んでいることから周囲には内緒の秘密同盟となっています。

なお、この時点でイタリアとオーストリアは領土問題を抱えていました。イタリアは統一を目指して支配者側のオーストリアと何度も戦っていたためです。

歴ぶろ
歴ぶろ

いわゆる「未回収のイタリア」と言われる領土問題です。

後の第一次世界大戦では同盟を組みながらも味方であるオーストリアの手助けをせずに相手方に与するという分かりにくい状況になるのは、この問題をはらんでいたためです。

イタリアに「フランスとオーストリア両大国を相手にするのはきついだろう」とビスマルクが提案してようやく締結できた条約でした。

 

独露間で作り上げた協力体制とは?

ドイツは独墺同盟でオーストリアと二重同盟を結びましたが、ロシアとの間には同盟を結んでおらず、三帝協商も期限が切れてしまいました。そこで、独露間で再保障条約(1887年)を結び後顧の憂いを断っています。

1878年の列強

ロシアにとっては中央アジアやイランでイギリスとぶつかる懸念があったため、対英を見据えての条約だったようです。

 

ビスマルクの失脚と独露関係の悪化

普仏戦争以来、対独復讐熱が続いている状態の中で不況が重なったフランスでは、度々ブーランジェ事件ドレフュス事件といったドイツ(+ユダヤ ←お金持ち)を対象とする排外ナショナリズムが結びついた問題が発生しており、ビスマルクは対仏関係にかなり気を使っていました。

ブーランジェ事件:ドイツへの強硬姿勢を示したブーランジェ将軍が人気となって反体制の大衆運動が行われた
ドレフュス事件:ユダヤ人将校ドレフュスがドイツのスパイとして流刑にされた冤罪事件

そのために矛盾も含んだ同盟や条約を結んでいたわけですが…

皇帝ヴィルヘルム2世の即位

強い信頼感の元、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の治世下で長期政権を築き上げたビスマルクでしたが、90歳という高齢で皇帝が亡くなると状況は一変します。

次に即位したフリードリヒ3世は100日経たずに咽頭がんのために死去。次に皇帝となったのは29歳のヴィルヘルム2世でした。

彼が即位した頃のドイツでは既にルール地方の鉱山労働者によるストライキが全国的に広がっており、ビスマルクによる現状維持政策も徐々に手詰まり感が拭いきれなくなっていました。

皇帝は労働者に共感して体制側に取り込むために社会主義者鎮圧法の延長を拒否する政策を推しますが、ビスマルクはこれに反対。他の政策でも対立すると、ビスマルクは1890年辞表を提出。彼の時代は終わりを遂げることになります。

これだけの大物の失脚はドイツ外交にも大きな影響を与えました。同年、更新期限が迫っていた独露間の再保障条約は三国同盟と矛盾することを理由に拒否されています。

 

パン=ゲルマン主義とパン=スラブ主義の衝突

ヴィルヘルム2世の政策を裏付ける思想で忘れてはならないのがパン=ゲルマン主義。「ドイツ系民族の統合をはかろう!」というものです。

そこには重工業で産業革命をしてからのドイツ経済の躍進で「人口増加による膨張傾向」と「生産した商品を国外へ売りたい…!」という思惑が隠れていました。

 

この思想にオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世も同調します。連合する構想はありませんでしたが、

  • バルカン半島への進出
  • 国内に多数抱えているスラブ系住民を抑え込むため

にドイツとの連携を重視しています。

 

何故そんなにドイツを重視したのか?というと、オーストリアがロシアの「スラブ民族で連帯して統一しよう」というパン=スラブ主義に反発していたため。

  • オーストリア内のスラブ系住民が傾倒した
  • ロシアがその思想を理由にオーストリアと隣接するバルカン半島へ進出した

ことでロシアとオーストリアは完全に敵対していたため、大国とやり合うにはドイツの協力が不可欠だったのです。

 

ドイツの親英反露政策

ドイツはロシアとの再保障条約を拒否した一方で、ロシアが南下政策を行って中央アジア~イラン付近でぶつかるようになったイギリスと近づき、1890年に海外領土と交換をするという条約を結んでいます。

この条約を機に三国同盟側にイギリスを引き込もうという意図があったとされ、しばらくの間の基本姿勢は親英反露となりましたが、拡張方向に向かうドイツと既に植民地を確保しているイギリスが上手くいくはずもなく二国間関係は悪化することとなります。

 

露仏同盟の結成

ロシアはドイツの露骨な姿勢から、これまでドイツが最も警戒していたフランスと近づき始めます。

フランスの方もビスマルク体制により散々抑圧されていたことに加え、ドイツとは領土問題を抱えたまま。更にイギリスとも植民地拡大政策でぶつかるケースがあった上に周りは敵だらけでしたから、互いに利害に一致して露仏同盟が結ばれることとなったのでした。

 

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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