ピョートル1世以降の混乱~ナポレオン戦争【ロシア史】
前回はロシア帝国を作り上げたピョートル1世が「自分が良いといった人物に皇帝を任せる」と言いながら次期皇帝を指名しないままで亡くなったところまでお話ししました。
今回は、ピョートル後のロシア帝国からフランスでナポレオンが登場しヨーロッパ中が混乱に陥った中でロシアがどう動いていったかまとめていきます。
ピョートル以降の苦難の時代
ロシアは別に女帝がダメという決まりもなかったため、周囲から後継者として推されたのは妻のエカチェリーナと孫のピョートルでした。後継者候補が完全に二分してしまったのです。
この時は結局妻が初めて女性として皇帝に立つこととなりましたが、彼女はすぐに亡くなってしまいます。
その後も短命政権が続いた上に人材も少なく生後2か月のイヴァン6世が皇帝に即位したこともあって、ピョートル1世が呼び寄せていたドイツ人が政治・経済・軍事を握っていきます。
ロシアにとっては正直面白くない時代だったと言えます。
結局、ドイツ人達に好きにされるんじゃ?と危惧する貴族達がピョートル1世の娘エリザヴェータ1世の元に集結しクーデターを起こして彼女が皇帝となりますが、早くから統治に対する興味を失い、重用した貴族たちに統治を任せるようになっていきます。
そんなエリザヴェータの治世下ではモスクワ帝国大学が設立されたほか、多くの戦いが起こりました。中でも特記したいのが対プロイセン。
オーストリアやフランスと同盟を結んだ上でプロイセンと戦争を開始。この戦いの背景にはハプスブルク家の継承問題があり、この継承問題に絡んでオーストリア継承戦争やシュレジェン戦争に発展。多くのヨーロッパ諸国を巻き込んだ戦いへ進むと、ロシアも戦いに参加していきます。
一方で彼女は最期まで後継者には悩まされ続けました。元々エリザヴェータは「甥っ子のピョートルを」と考えていたのですが...
彼はドイツ育ちでありロシアに来てもドイツ風にこだわり周囲から反感を買っており、エリザヴェータ1世とも関係は上手くいかず次第にピョートル3世ではなく「孫を後継者に」と考えるようになっていきます。
が、結局1762年のシュレジエン戦争中に女王は亡くなり、最終的に皇帝となったのは同母姉の息子ピョートル3世でした。
ドイツびいきでもあったピョートル3世は軍事的才能や合理的な国家運営をするプロイセンのフリードリヒ2世のことも尊敬しており、叔母の方針を翻してプロイセンとの戦争(シュレジエン戦争の後にオーストリアvs.プロイセンを軸とした七年戦争も勃発)まで取りやめてしまいます。
他にも結構なやらかしをしてしまった結果、ピョートル3世は貴族や軍人たちに嫌われて追放され殺されてしまいました。
この後を継いだのがピョートル3世の妻エカチェリーナ2世。彼女はプロイセン出身ではありましたが、ロシア人になろうと常に努力をし続けた人です。
かなりの勉強家だったので貴族たちに支持されており、夫を追放する勢力の旗頭となっていました。フランスの啓蒙思想(どんな思想かは後述)にも精通していたと言われています。
彼女の時代は厳しい農奴政策と領土拡大を行います。西方面のポーランドをプロイセン・オーストリアの三国で分割した他、南方でオスマン帝国と戦い、黒海に面する領土を確保したのです。
パーヴェルの即位(1796年)とナポレオンの登場
精力的にロシアの統治を行なっていたエカチェリーナ2世でしたが、プライベートでは息子パーヴェルとの関係が上手く行っていませんでした。
エカチェリーナの夫との仲は微妙でお互いに愛人を作っており、彼女は「パーヴェルは愛人の子」と回想録でほのめかしています。
また、後継者を望んでいた姑でもある当時の皇帝エリザヴェータにパーヴェルをすぐに取られておりエカチェリーナは息子に関心を持てなかったとも言われています。
ということで、パーヴェルは母からの愛情を感じないまま祖母の元で育てられ、父親を追放し多数の愛人を囲っている母親を嫌っていました。さらに容貌の変わる大病を患ったこともあって猜疑心の強い粗暴な性格に育っています。
そのパーヴェルがエカチェリーナ2世の後を継いで皇帝となりますが、母の政治方針を全否定。新しい皇位継承法を定め、継承者を男児のみと定めました。
そんな彼の治世下では農民達が不穏な動きを始めていきました。これに対してパーヴェルは母の代で行った厳しい農奴政策を緩める方針にしようとしたのですが、農民たちが働かなくなることを危惧した貴族たちが大反発。
それだけでなく本人が軍人気質で貴族達と相入れない部分もあったため、彼らから嫌われていました。
それだけでもやりにくい事この上ないのですが、パーヴェルを追い込む材料が別の国からも生まれてきてしまいます。
ちょうどこの頃の西側ではフランス革命が起こっており、パーヴェルはこの革命への対処を見誤り、更に貴族との関係を悪化させることとなっていったのです。
ロシアとフランス革命(1789ー1799年)の関係とは?
フランス革命についてはまだ記事を書いていないので簡単にまとめると、フランスで起きた市民革命のことを指しています。
17~18世紀以前のヨーロッパは絶対王政がまかり通っていた時代です。
当時のフランスは
- ヨーロッパ全体を巻き込んだ戦争続きだったこと
- アメリカ独立戦争でアメリカ側として参戦したこと
で財政がかなり悪化している状況でした。
さらに科学革命や近代哲学が勃興しつつある中で「教会の権威」や「封建的な考え」を否定し、人間の理性を拠り所に社会を進歩させようとする合理主義な考え方【啓蒙思想】が発展しつつありました。
啓蒙思想は「封建的な考え」の否定ですから王政とは当然相容れず、批判する立場となります。さらに啓蒙思想が発展すると、個人を封建的な立場に抑え込むことから解放し、自由を実現させようとする自由主義思想も広まっていきます。
国の財政悪化に啓蒙思想の影響まで受けて繋がっていったのがフランス革命でした。
フランスの貴族の一部は国外へ亡命すると、各国の宮廷に革命政府打倒の呼びかけます。
『打倒・王政』が蔓延している影響を受けたくない、あるいはフランスに娘が嫁いでいるような各国はフランスに対抗するために度々同盟を組みました。ロシアもオーストリアやプロイセンなどと第二次対仏同盟を結びフランス包囲網に加わっていたのです。
なお、7度にわたって結ばれた対仏大同盟にはイギリスが唯一すべての同盟に参加し、フランス革命戦争を戦っています。
ナポレオンの登場とパーヴェルの対応
フランス包囲網が敷かれ、フランスとヨーロッパ諸国の間でフランス革命戦争が勃発すると連戦連勝の活躍を見せたナポレオン・ボナパルトがフランスの英雄として人々を熱狂させるようになりました。
このナポレオンがフランス革命で混乱した自国の収拾をはかり後に軍事独裁政権を樹立させていきます。
ロシアでパーヴェルが即位したのは、そんなナポレオンが活躍し始めつつあったフランス革命後半の1796年のことでした。
彼は即位2年後の時点では第二次対仏大同盟に参加してフランスと敵対していたのですが、軍人としてナポレオンを尊敬しており後に同盟から脱退。いずれも国益を考えての行動ではなかったため、気まぐれ・暗君といった悪名が今でも残っています(ただし、彼の反対派によって綴られた評価なので実際は不明)。
終いには、こうした身勝手な政策を受けて不満が広まった結果、1801年にパーヴェルは暗殺されてしまいました。
アレクサンドル1世の即位
パーヴェルの跡を継いだのは彼の息子アレクサンドル1世(1801-1825年)です。
アレクサンドル1世を含む数々の戦争に参加した若い貴族たちは、西欧社会の自由な空気に触れたことでロシアにも新たな流れが生まれるようになっていきます。農奴解放についても議論されるようになりましたが、国内保守派の反対も大きく解放までには至りませんでした。
一方、最初の頃の彼の外交政策ではイギリスにもフランスにも近づきすぎない「等距離外交」を行っていました。ところが、彼はフランスを訪問した際にナポレオンから野心を感じ取り危険視するようになっていきます。
↑互いにこんなことを思ったそうで、相性も良くなかったと思われます
フランス革命戦争以降も断続的に行われていた戦争はナポレオンが軍事政権を作り上げた後にも残り、やがてナポレオン戦争(1803-1815年)へと突入していきます。
1804年にナポレオンが皇帝となってフランスを掌握すると、アレクサンドル1世は翌年、周辺諸国と第3次対仏大同盟を結んで牽制。
ところが、ロシアはフランス軍に完敗し協力せざるを得なくなります。
そのような状況の中でナポレオンは大陸封鎖令を出してイギリスを追い詰めようとするのですが、先進国イギリスの製品が入ってこないのはロシアにとってかなりの痛手。ロシアはこっそり貿易を行い続けました。
この貿易がナポレオンにバレた結果、怒って1812年ロシア遠征(ロシアでは祖国戦争)を実行したのです。
ロシア遠征(1812年)
遠征を始めた頃はまだ6月でロシア軍は各地で敗退していましたが...9月になってナポレオンがモスクワに入ると、ロシア側の作戦でモスクワの全てのライフラインは止められており、モスクワはもぬけの殻になっていました。
更にナポレオンが入城したその日の夜にロシア軍が(組織的に)モスクワに火をかけたため、フランス軍は冬を目前にして食糧の調達に失敗します。
3度の和議を模索しながらフランス軍はモスクワに残留しており、ようやく撤退を開始したのは10月19日のこと。
ロシアの冬は早く10月の平均最低気温で2.6度(2010~2014年の平均)。下旬ですから氷点下となることもあったことでしょう。馬が餓死したり空腹をしのぐために兵士が馬を食べるなどして退却に時間がかかったために11月になっても完全撤退まで持ち込めず、飢えに加えて凍傷になる者が続出しました。
このような経緯でロシア軍は冬将軍も味方してフランス軍を打ち破ると、これを機に各国も反ナポレオンの行動をとるように。こうしてナポレオンは失脚まで追い込まれ、このナポレオン失脚後の体制をウィーン会議で決めていきました。
ウィーン体制後のロシア
ウィーン会議(1814-1815年)で作られたヨーロッパの国際秩序をウィーン体制と呼んでおり、ロシアはヨーロッパの救済者として
- ロシア皇帝が大公を務めるフィンランド大公国を承認すること
- オスマン帝国からベッサラビア(現モルドバ・ウクライナの一部)を割譲すること
- ワルシャワ大公国の大部分をポーランド立憲王国とし、ロシア皇帝が王を兼ねること(第四次ポーランド分割)
を認めさせました。
一方、西ヨーロッパとの行き来をすればするほど自国の遅れを痛感する者たちがロシア内に多く現れていきます。かつてはアレクサンドル1世も通った道でしたが、その一部は急進的に事を動かそうと皇帝暗殺の密儀まで露見しはじめました。
若い頃は急進派と似たような考え方だったはずのアレクサンドル1世でしたが、この暗殺密儀が発覚すると自由主義運動を抑えこむ方向に動き始めます。
自由主義を放置すれば後に革命やクーデターの危険性が高まるためです。
ヨーロッパで新しく学ぶようになった分野(論理学や倫理学など)の教育は禁止され、聖書教育が徹底されます。
こうした動きが強まって反体制派がますます増える一方で、武装蜂起の手段や時期、武装蜂起したとしてもその先の政治体制をどうするか?など意見はバラバラ。反体制派はまとまることが出来ず、行動にまでは移りませんでした。
アレクサンドル1世は宗教に救いを求め政治からは身を引くようになり、そうこうしているうち1825年に急死。
ところが、弟のニコライにツァーリを継がせることを伝えていなかったために政治がストップ。その隙に革命を訴える若者たちが蜂起したのですが、ここら辺は長くなりますので次回にまとめていきます。
こうしてアレクサンドル1世の時代にナポレオン戦争で一気に軍事大国として躍り出たロシアは、この後改革の時代を迎えることとなっていったのです。