ヨーロッパ

ロマノフ朝~ロシア帝国の成立と発展【ロシア史】

歴ブロ

前回までは『ロシアの地理的特性』と『キエフ・ルーシ~ロマノフ朝の成立』をまとめましたが、いよいよロシア帝国も登場してきます。

 

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ロマノフ朝の誕生(1613年)と発展

周辺諸国との戦いが続き、まとまる必要が出てきたモスクワ大公国。その中で代表者としてロマノフ家ミハイルが選ばれ、ロマノフ朝が成立した件は以前お話した通りです。

リューリク
キエフ・ルーシ~ロマノフ王朝誕生まで【中世ロシア史】 リューリク(wikipedia)より 前回、ロシアの地理をまとめたのでいよいよ本番「ロシア史」に入ります。 ロシアの始まりか...

 

この頃のロマノフ朝は力が弱く、多くの有力者達に支えられて維持している状況でした。

これが変化し始めたのが1654年~のポーランドとの戦争ロシア・ポーランド戦争が始まった辺りの時期になります。

 

経済面での成長

戦争にはお金がかかりますが、政府は財政難を乗り切るために新しくルーブリ銅貨(元は銀貨のみを使用)を作りました。この時、ロマノフ朝は税には銀貨を納めさせ、軍事物資の支払いにこの銅貨を用いることとしたのです。

当然、価値としては 銀貨>銅貨 ですので政府は大きな利益を上げました。

このカラクリに気が付いたモスクワの民衆達は反乱を起こしたのですが、軍隊によって一日で鎮圧されています。こうして少しずつ少しずつロマノフ朝は国としてまとまってきたのでした。

 

ロシア・ポーランド戦争(1654-1667年)の結果

当時のロシア西部を語る際に避けられないのがウクライナ。彼らはロシア人ベラルーシ人と同じ東スラブ人ではありますが、言語や宗教は異なりました。

少し時間は戻りますが、14世紀頃、ロシアの元となったキエフ=ルーシのあったウクライナは西のポーランド、北のリトアニアに軍事的圧迫を受けていたそうです。

やがて16世紀に入るとポーランドリトアニアは連合国となり、南西にあるオスマン帝国に迫るほどの広大な領地を持つように。この連合国にウクライナは飲み込まれていました。

ポーランド・リトアニア共和国(wikipedia)より

 

ウクライナの地にはコサックと呼ばれるロシア含む近隣諸国の圧政から逃れた農民などが多数居住しており、このロシア・ポーランド戦争の隙にコサック達は「ロシアと結んでポーランド・リトアニア共和国から独立しよう」と画策していたのですが...

丁度ポーランド・リトアニア共和国ができた直前のオスマン帝国スレイマン1世(1520-1566年)の治世下で領土を拡大して最盛期を築いており、17世紀に突入した後もその影響力を保ったままという事実がコサック達にとって重くのしかかります。

※スレイマン1世の方針を受け継いだオスマン帝国の次代スルタンの代で雷帝ともぶつかっています(露土戦争)

最盛期を築いたスレイマン1世とは?【オスマン帝国】<人物伝> スレイマン1世(Wikipedia)より 初代皇帝オスマン1世から始まったオスマン帝国。国存続の危機がありながらもバヤズィト1世...

 

膨張傾向にあったオスマン帝国は、ロシアともポーランド・リトアニア共和国とも仲が悪く、両国はアンドルソヴォ条約を結んで「共にオスマン帝国に対して共同防衛をしましょう」という形で戦争を終わらせることとしたためです。

 

ここで「話が違う」となったのがポーランド・リトアニア共和国からの独立を画策していたコサック達でしたが、オスマンを前に彼らの要求は受け入れられませんでした。

更に裏切りどころか彼らは住む土地を奪われてしまいます。ドニエプル川の西半分をポーランド・リトアニア共和国、キエフと東半分をロシアで分割する話にまで発展してしていたのです。

また、似たような時期に政府は暗黙の了解で認めていた略奪などの特権をコサックから取り上げツァーリ(ロシア皇帝)への臣従を誓わせて政府支配下へと置かれるようになり、まさにコサックにとっては踏んだり蹴ったりな状況となっていました。

 

なお、アンドルソヴォ条約は臨時の平和条約でしたが、20年近く後になって恒久平和条約が結ばれるとウクライナの東半分がロシア領に完全に組み込まれ、これを機に東欧の覇権がロシアに移っていくことになります。

 

領土の拡大

ロマノフ朝以前のリューリク朝で雷帝がシビル=ハン国を落としたのですが、これ以降ロシアは東への進出を加速させていました。ハンザ同盟など外国勢力との交易の際に「売れ筋の毛皮や岩塩を手に入れたい」という考えを持っていたからです。

※ただし、雷帝の治世下である16世紀の時点で西ヨーロッパでは大航海時代に突入。ヨーロッパの商圏の中心がバルト海・地中海から大西洋や北海に移行している真っ最中でした。なお、ハンザ同盟については下の記事をご覧ください

商業の発展と封建社会の衰退【西ヨーロッパ】 十字軍の遠征によって西ヨーロッパ世界では大きな変化が訪れました。それがタイトルにもなっている商業の発展と封建社会の衰退です。1...

 

ロマノフ朝に入った後も方針は変わらず、ロシアは東へと拡大し続けました。シベリアの先住民たちは原始的な弓矢などの武器しか持っておらず、対してロシアは近代的な銃で武装していたため決着はすぐにつくことになります。

結果、現在の中国に位置すると1689年にネルチンスク条約を結び、アルグン川外興安嶺を国境線と決めています。

 

ロシア帝国の誕生(1721年~)

ロシア帝国の前身は元々モスクワ大公国

このモスクワ大公国イヴァン4世(雷帝)ツァーリとして戴冠して以降、ロシア・ツァーリ国を自称するようになっており、ロマノフ朝も初期はその延長上に誕生した王朝でした。

ピョートル1世家系図

※マリヤ=ミロスラフスカヤの実家がミロスラフスキー家。

そんな中で1682年にロマノフ朝3代目のツァーリ・フョードル3世が亡くなると、イヴァンピョートルの二人が候補者として名前が挙がってきます。

この時に名前が上がったピョートルこそロシア帝国にまでのし上げた張本人になります(この時点では候補者でしかありませんでしたが)

ピョートル1世以降はロマノフ朝でありながら、これまでのツァーリではなく「全ロシアの皇帝」としてのツァーリがトップとして君臨する帝国へと変化していきました。

 

最終的にフョードル3世の後継者についたのは...?

イヴァンが生まれつき病弱だったため最初はピョートルツァーリとなったのですが、姉のソフィアイヴァンらの外戚が彼らを支援していたこともあってイヴァンが第1の...ピョートルが第2のツァーリとなることに落ち着きました。

なので4代目のツァーリについたのはイヴァン5世ということになります。ピョートルは事実上、格下げの扱いになったのです。

儀式には参加しますが、それ以外だとピョートルはモスクワ近郊の村で過ごして仲間たちと軍事訓練のような真似事に励みながらドイツ人など外国人との交流を図ることが多くなりました。こうしてピョートルは西ヨーロッパの文化にあこがれを持つようになっていきます。

なお、ツァーリの座についたイヴァン5世は姉の傀儡でしかありませんでしたが、病躯をおしながら執務に励む姿を見ていたピョートルは兄を尊敬していたそうです。

 

そのうちソフィアによる摂政政府はオスマントルコとぶつかるようになります。この時のクリミア遠征(オスマン帝国にクリミア=ハン国が従属していた)イヴァン5世が破れると、周囲からのピョートルへの期待値は高まっていきます。

これに焦ったソフィアピョートル失脚を狙って動き始めますが、有力軍人たちがピョートル支持になったため失敗。逆にソフィア(やイヴァン)の影響力は落ちることに。

こうして事実上ピョートルツァーリとなったのです。

 

ピョートル大帝の治世

再登場したピョートル1世がまず行ったのがオスマン帝国支配下に置かれたアゾフ海奪還です。

苦労の末にアゾフ海を取り返すと、続けてピョートルバルト海制するスウェーデンとの大北方戦争を開始。

大北方戦争はロシア発展のために「バルト海黒海・地中海へのルートが重要」という考えが背景にあったようです。

この戦いに勝利したロシアはスウェーデン~バルト海海域の覇権を奪取、1721年11月に記念して国家名称をロシア帝国へと昇格させました。こうしてピョートルはヨーロッパ列強の一員へとロシアをのし上げていきます。

 

また、彼の治世下には更に国を拡大方向へと進めていきます。シベリアのさらに向こう側に「何かないか?」と1725年に探検家のベーリングを東へと派遣したのです。

結局、ベーリングを派遣した年にピョートルは亡くなっているので存命中に見つけることはできませんでしたが、海の向こう側にアラスカを発見。後にロシア領としています。

 

これだけの功績を残したピョートルでしたが、致命的なミスを犯してしまいました。

「自分が良いと思った者を次の皇帝とする」と言い残しながらも、次の皇帝を指名しないままで亡くなってしまったのです。当然残された者たちは悩む事になりました。

 

こうしてピョートル1世の治世はロシア帝国を作り上げながらも少々厄介な問題を残して幕を閉じた訳です。次回はピョートル後のロシア帝国を見ていこうと思います。

 

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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