北方戦争とは?ロシアが強国化するまでの経緯を解説!!
ロシアの皇帝ピョートル1世は強力な国家体制を築こうと考えますが、そのためには交易が必要です。
オスマン帝国の支配していたアゾフ海に進出し黒海 → 地中海 ルートを確保しようとしましたが、ロシアの海の出口を西のバルト海に求めようという考え方が強まります。
この時点でバルト海の覇者はスウェーデン、ただし王位に就くのが年少のカール12世だったこともあり1700年には北方戦争がはじまりました。
今回は北方戦争でロシアが強国化するまでの経緯をまとめていきます。
北方戦争/大北方戦争(1700~21年)のはじまり
北方戦争では、当時バルト海の支配者だったスウェーデンを引きずり下ろしたい国々が同盟を組み
スウェーデン vs. 反スウェーデン同盟
の大きな対立軸が存在していました。
この反スウェーデン同盟は当初
- ピョートル1世:ロシア
- フリデリク4世:デンマーク=ノルウェー
- アウグスト2世(強健王):ザクセン=ポーランド=リトアニア
で構成されています。
※上記の君主たちが反スウェーデンになった理由は『北方戦争の背景を詳しく解説!』の記事に載っているのでよかったらご覧ください。
若き王の活躍
14歳と若くして即位し周辺諸国から侮られていたスウェーデン王カール12世は、そんな反スウェーデン同盟を打ち破り、フレデリク4世とアウグスト2世を一時的に退場させています。
ちなみにカール12世は後に「兵隊王」と呼ばれ、軍事的天才と評されることになります。このくらいの年齢で跡を継いでも能力のある国王はしっかりと結果を残していますね。
そんな感じで当初はスウェーデン有利で戦争は進んでいきます。ロシアもナルヴァの戦いでスウェーデン軍に大敗。装備の差が大きかったとされ、ピョートル1世は敗戦後に軍の再建や装備を強化しました。
その後、ロシアは何だかんだでスウェーデンに勝利したりもしていましたが、ポーランドの方はそうもいかず…
国土に侵攻されると各地で敗北し、ザクセンまで侵入されています。
対ロシア戦、ポルタヴァの戦い
ロシアがかつての敗戦後に行った軍の強化が実を結んだ北方戦争最大の一戦がポルタヴァの戦いです。すでに連戦して長期遠征となっていたスウェーデンは、食糧不足に寒波の到来という不運も重なり大敗したのでした。
重傷を負ったカール12世は南下し、オスマン帝国へ亡命。スウェーデン軍として参戦して生き残った者たち21000人はシベリア送りとなり、生きて帰った者たちは5000だったそうです。
ピョートル1世はオスマン帝国支配下にあったアゾフ海(黒海や地中海に繋がる海)を奪っており、カール12世と同じくロシアを敵対視する国でした。
この戦いにより、強国だったスウェーデンの没落と新興国ロシアの台頭が明らかになっています。ちなみに、この時にピョートル1世を中心に再度『新北方同盟』を結びました。
一度脱落したフレデリク4世やアウグスト2世も参加。さらに後にイギリスでジョージ1世として即位するハノーファー選帝侯やプロイセンの王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世も参加し、以前よりも規模の大きな同盟になっています。
オスマン帝国の参戦
一方のカール12世は亡命先で皇帝・アフメト3世を説得してオスマン帝国をロシアとの戦いに駆り出すことに成功しますが、ピョートル1世が賄賂でオスマン軍との講和に持ち込みます。
この和議でオスマン帝国にアゾフ要塞の返還させるなどロシア側が不利な条件での条約を締結し、スウェーデンは孤立化したのです。
戦争終結とロシアの強国化
カール12世はオスマン帝国が撤退後に粘るも転戦の末に敗死。
彼の死後もしばらく戦争は続きますが、スウェーデンの劣勢は覆せず1721年にスウェーデン側の敗北がきまりニスタット条約が締結されました。これによりロシアがバルト海東岸を獲得。ロシアがバルト海の覇者になったのでした。