北方戦争(1700~21年)の背景を詳しく解説!
北方戦争とは1700~1721年に起きたロシアとスウェーデン帝国がバルト海の覇権を争った戦いです。ほかの複数の国も巻き込んだ大規模な戦いとなりました。
ここでは関係国の状況、背景についてまとめていきます。
ロシアがロシアになるまでを簡単に解説
現在のロシアにあたる地域は、かつてスラブ人やノルマン人などの部族により土地をめぐる争いがなされていましたが、スウェード人のリューリクがノヴゴロドをまとめ上げ、彼の死後はノヴゴロドを南下しキエフ(キーウ)を占領するとキエフ・ルーシと呼ばれる大公国が誕生します。
12世紀半ばごろになると、キエフ・ルーシ以外にもロシアやウクライナ、ベラルーシ、一部ポーランド、ラトビアに諸公国が出来上がりますが、13世紀ごろに最盛期を迎えたモンゴルに多くが支配下に置かれます。
とはいえ、モンゴルと同じような草原地帯は強め支配なのに対して森林地帯のモスクワや干拓地のノヴゴロドは緩やかな支配に留まり、モンゴル衰退後には後のロシアの核となるモスクワ大公国が頭角を現すようになったのです。
そのモスクワ大公国の地位を押し上げたのがイヴァン3世でビザンツ帝国最後の皇帝の姪っ子と結婚し『第三のローマ』を主張します。ツァーリを名乗って地盤を固めていきました。
1533年にはイヴァン4世(雷帝)が即位して中央集権的な政治体制を作りあげ、農奴制の強化を徹底します。さらにツァーリの称号を本格的に使うようになったのがイヴァン4世の時代です。イヴァン4世がツァーリを名乗るようになる1547年以降のモスクワ大公国は『ロシア・ツァーリ国』『モスクワ・ロシア』なんて呼ばれ方がなされるようになり、彼の死を境に『モスクワ大公国』の呼ばれ方はしなくなります。
また、このあたりの時期から毛皮などを求めたシベリア遠征開始。東方進出の発端となりました。
ところが、その後は政権内部での争いが続き、ツァーリの権威は地に落ちてしまったのです。
そうした政治的混乱に加え、モスクワ大公国では大飢饉をきっかけとした反乱の発生、周辺諸国との戦いが続きました。
強力な指導者を感じるようになった有力者たちは会議を開き、ロマノフ家の人物が選ばれるとロマノフ朝が誕生します。以後、ロマノフ朝は領土拡大の傾向が続くことになりました。
当初は貴族たちの話し合いで決まった王でしかなく共同統治の代表のような立場でしかありませんでしたが、1670年ごろに起こったコサックたちの反乱ステンカ=ラージンの反乱を機にさらなる農奴制の強化と西欧的な国家機構の導入、中央集権国家が進められていきます。
そのステンカ=ラージンの反乱後、西欧的な国家機構を導入し中央集権化を進めた人物がピョートル1世(在位1682-1725年)です。彼は「全ロシアの皇帝」としてツァーリの地位を押し上げます。こうしてロシアが出来上がっていったのでした。
ロシアの北方戦争参戦の理由とは?
ピョートル1世の治世下には(親政を行っていなかった時期ですが)これまでの東方進出で中国の清朝と国境を接するようになったため1689年ネルチンスク条約を締結。アムール川(中国名:黒竜江)の源流・アルグン川と外興安嶺(山脈の名前)が国境線となっています。これにより両国の通商が開かれました。
1690年代に入るとピョートル1世は自ら西欧諸国を視察し、西欧化改革を始めようとします。強力な国家体制を築こうとしたためです。
その決意の表れとして取り入れられたのが『ひげ税』です。
ひげが信頼の象徴とされていたロシアだったため高額な税金をかけて貴族たちにひげをそらせようとしました。
▶かつて世界史上に存在した信じられない税5選(歴ブロ) – エキスパート – Yahoo!ニュース
強力な国家体制を築くにはお金がないとはじまりません。交易で大量の商品を運ぶには今も昔も船が一番なのですが、ロシアは寒すぎて半年間は周囲の海を氷に閉ざされてしまいます。
そこで、ピョートル1世は手始めにオスマン帝国が支配下に置いたアゾフ海へ進出しました。
当時のオスマン帝国はかつての栄光に陰りが見え始め、ピョートル1世の即位の前年には第二次ウィーン包囲に失敗。1699年にはカルロヴィッツ条約でハンガリーをオーストリアに奪われていたためです。
同時に黒海・地中海ルートだけでなく、スウェーデンが覇権を握っていたバルト海からの交易ルートの獲得も不可欠だと考えました。
こうしてピョートル1世はバルト海方面に進出するためスウェーデン相手に北方戦争を開始したのでした。
スウェーデンの状況と北方戦争の開戦
17世紀前半に三十年戦争に介入したグスタフ2世アドルフ(在位1611-1631年)率いるスウェーデンは、ウェストファリア条約で北ドイツを獲得しバルト海沿岸を支配する大国となっていました。
▶グスタフ2世の死因は驚くような死因で亡くなった歴史上の人物10選(歴ブロ) – エキスパート – Yahoo!ニュースで触れているので、興味がある方はぜひ。
そんなスウェーデンの台頭を苦々しく思っていたのがデンマークやポーランド=リトアニア共和国(共和国なのに王政が廃止されているわけではないうえ、実質的にはポーランドによる併合)です。
デンマークがスウェーデンを敵視した理由とは?
デンマークは14世紀にハンザ同盟(ハンザ同盟については『商業の発展と封建社会の衰退【西ヨーロッパ】』で触れています)に対抗するために同国が中心の同君連合による同盟・カルマル同盟を結んでいましたが、世界情勢の変化でスウェーデンが抜けて以降は互いの牽制のため覇権を争っている仲でした。
※そのために北ドイツを狙い、両国とも三十年戦争に参加しています。
ポーランド=リトアニア共和国がスウェーデンを敵視した理由とは?
17世紀前半まで黄金期を築いていたポーランド・リトアニア共和国はロシア・ツァーリ国の拡大に伴ってスウェーデンと手を結びます。
その際、政治的な思惑でスウェーデン王とポーランド王の娘の長男ジグムントがポーランド=リトアニア共和国の首都でカトリックの主導的な立場イエズス会の手によって育てられました。
ところが、スウェーデンやスウェーデン王家は完全なルター派のプロテスタント。成長後、スウェーデン王となったジグムント(ジギスムンド:スウェーデン語読み)は熱心なカトリック教徒に育ちます。
ポーランドにいたジグムントは摂政にスウェーデンを任せますが、摂政が力をつけるとプロテスタントにする改革を徹底(ポーランド・リトアニア共和国はカトリック化を進めた)。ジグムントはスウェーデンに攻め込み、敗れて廃位されると摂政の血筋が王位に就くことになったのでした。
以降、互いに反目しあっていた両国の間で何度もポーランド・スウェーデン戦争が行われ、1629年にスウェーデン勝利で休戦状態に入っています。こうした度重なる戦いの末に両国の関係はかなり悪化していたようです。
なお、このポーランド・リトアニア共和国と反目したスウェーデンの王朝はグスタフ2世アドルフの娘が従兄のカール10世に譲りプファルツ朝が誕生。
王位継承を望むポーランド=リトアニア共和国が許すわけもなく、強い意義が申し立てられており、いつ軍事行動が起こるか分からない状況となっていました。
そんな背景もあって、グスタフ2世アドルフの死後、代が何度か変わり隙のありそうな14歳と年少のカール12世(在位1697ー1718年)が即位。1699年にロシアのピョートル1世がスウェーデンに攻め込もうとする際にポーランドは大賛成し【打倒スウェーデン】のためにロシアやデンマークと同盟を結んで翌年にスウェーデンへの攻撃を開始、北方戦争を始めたのでした。