ヨーロッパの転換期!三十年戦争とは?結末まで詳しく解説<1618-1648年>
大航海時代からの好景気が止まり、間の悪いことに地球規模の寒冷化が到来。寒いために作物が育たず飢饉となり、栄養不足がたたって疫病(ペスト)が流行するという負のループに入っていた17世紀のヨーロッパ。
人々の気持ちも荒れ、治安が悪化。反乱等が増えるようになります。そんな最中に宗教対立が拗れて神聖ローマ帝国(ドイツ)で始まった三十年戦争いついてまとめていきます。なお、この後ヨーロッパで存在感を増していく英仏の様子も軽く触れていこうと思います。
流れを簡単に
ヨーロッパ最後で最大の宗教戦争ともいわれる三十年戦争。複数の国家に介入され、次第にどんどん規模が大きくなっていきました。
そんな三十年戦争は最初に始まったベーメンの反乱以降、大きく4つの流れに分けることができます。
- ベーメン・プファルツ戦争
- デンマーク戦争
- スウェーデン戦争
- フランス・スウェーデン戦争
最初の段階では、単なる国内の宗教反乱でしかありませんでしたが、第二段階のデンマーク戦争の段階に入るとフランスのブルボン家とハプスブルク家の対立が見え隠れし始めます。
各段階の戦いについてちょっとだけ詳しく見てみましょう。
ベーメン・プファルツァ戦争(1618-1623年)
ベーメン王フェルディナントはハプスブルク家出身のカトリック強硬派の国王でした。当時の神聖ローマ皇帝の従弟でもあります。そんな彼がカトリックを強要したことで、現地のプロテスタントたちが神聖ローマ皇帝の使者を窓から突き落としたことでことが動きます。
事件の時点でフェルディナントは次期皇帝となるのがほぼ確実視されていた人物。ということで、プラハ窓外放出事件を受けてベーメンへの派兵を決定したのです。
実際に、翌年フェルディナント2世として神聖ローマ皇帝に即位したことでベーメンの住人たちは大反対。ベーメンの住人たちは同じプロテスタントを信仰し、同盟を結んでいたプファルツ選帝侯フリードリヒ5世をベーメン王に選出しました。当然ながら対立はますます深まります。
ちなみにフリードリヒ5世の妻はエリザベス・スチュアート。「スチュアート」の名前でピンと来た人もいるかもしれませんが、イングランドのスチュアート朝の縁者…エリザベス1世が後継者指名したジェームズ1世の娘です。
そんな繋がりからベーメン側としてイギリスの介入も期待しましたが、議会の反対で動けませんでした。
一方で旧教側の神聖ローマ帝国にはカトリック同盟の諸侯に加えてスペインも参戦しています。
このスペインと敵対していたのがオランダ独立戦争を優位に進めて1609年に事実上独立したオランダです。とはいえ玉虫色の状態だったことも確か。スペインが参戦したことでオランダも新教側として出兵したのでした。
このベーメン・プファルツ戦争では、一国だけでなく諸侯たちも参戦したカトリックが優位なまま戦いが進み、ベーメンの首都・プラハ近郊の白山の戦いでカトリック側が決定的な勝利を収めたのでした。
デンマーク戦争(1625-1629年)
続いて神聖ローマ帝国中心のカトリック勢力と戦ったのがデンマークです。当時の国王はクリスチャン4世。スウェーデン国王グスタフ2世にプロテスタントの盟主の地位を奪われることを危惧して参戦しました。
なお、この時の仕掛人がカトリックのフランスです。反ハプスブルク同盟を呼びかけてデンマークを支援し始めました。同時にイギリスやオランダもデンマークに支援していたようです。
ということで、第二段階の時点で新旧の宗教対立に加えてヨーロッパの覇権争いの様相も呈するようになっています。
この戦いで活躍したのがカトリックの傭兵隊長ヴァレンシュタインです。フェルディナント2世に仕えています。彼は非常に強くデンマーク勢力を一掃。第2段階の戦争でもカトリックの勝利に終わりました。
この時期にキーパーソンとなるのが下記の人物。
- フランス:リシュリュー
- イギリス:チャールズ1世
【リシュリュー】
1624年にルイ13世の宰相となり、三十年戦争への積極介入を訴えていました。対ハプスブルク同盟の発案者です。
【チャールズ1世】
1625年に即位し、三十年戦争に絡んでスペインに派兵しています。その際に戦費を徴収しようとしますが、議会が反発。1628年に権利の請願が出されることになりました。
スウェーデン戦争(1630-1635年)
デンマーク戦争が落ち着いた後に参戦したのがデンマーク王クリスチャン4世がライバル視していたスウェーデン国王グスタフ2世です。スウェーデンもまたフランスからの資金援助を受け、参戦しました。
この時、神聖ローマ帝国ではデンマーク戦争が終わって一年しか経っていませんでしたが、内部で大きな変化が起こっていました。前回大活躍していたヴァレンシュタインが謀反の疑いをかけられ、暗殺されていたのです。
ヴァレンシュタインが選帝侯の地位を要求して皇帝が拒否するとスウェーデンに寝返ろうとしたため暗殺されたと言われています。
この強敵が亡くなったことでプロテスタントが躍進。スウェーデン中心のプロテスタント勢力がカトリック勢力に勝利しました。ただし、スウェーデンの代償は大きく国王のグスタフ2世は戦死しています。
フランス・スウェーデン戦争(1635-1648年)
最後に登場したのがフランス。これまでも関わってきていましたが、神聖ローマ帝国のプロテスタント勢力が劣勢と聞いてフランスがいよいよ満を持して参戦しました。ここでも積極的に介入しようと言っていたのがフランスの宰相リシュリューです。
大陸の覇権を巡ってフランスが本格的に参戦するとあって、スペイン軍も本格的に参戦します。ハプスブルク家の中でもスペインによりイタリア領地を取られていた件からフランスとスペイン・ハプスブルク家は犬猿の仲でしたからね。
スペインから見れば仲の悪い隣国が覇権を取るよりも国境をまたいだ神聖ローマ帝国が覇権取ってくれている方がありがたいですよね。
そもそも同じ陣営のはずなのに足引っ張るような真似してますし…
更にこの動きにスウェーデンも同調し、介入しました。こうして、スウェーデン+フランスのプロテスタント(?)勢力とスペインメイン+神聖ローマ帝国のカトリック勢力が神聖ローマ帝国の領地で争いを繰り広げることになったのでした。
※本来のフランスはカトリック勢力です。
このフランス・スウェーデン戦争の段階になると、スペインはカタルーニャの反乱(三十年戦争での軍事費を徴収するための増税が背景にあった)やポルトガルの独立で戦争継続が難しくなり、敗退が続くように。第4段階の戦争でもプロテスタント勢力の勝利となりました。
ここでようやく神聖ローマ帝国側も和平交渉に応じたのです。
1642年から49年にかけて清教徒革命が起こっていました。王党派と議会派に分かれ、内戦に突入しています。その議会派もやがて独立派と長老派に分裂し、独立派の中からクロムウェルが台頭。チャールズ1世が処刑される(1649年)ことになったのです。
ウェストファリア条約
1648年に開かれたウェストファリア会議での主導権を握ったのは、最終的に勝利したフランスとスウェーデンです。
※この頃はフランスで三十年戦争を主導したリシュリューは亡くなり(1642年)、続くような形でルイ13世も死去(1643年)。
ルイ14世が幼くして国王に即位し、マザランが宰相についています。マザランはルイ14世の教育係でもあります。
- ハプスブルク家はアルザスをフランスへ割譲すること
- ハプスブルク家は西ポンメルンをスウェーデンへ割譲すること
- カルヴァン派を承認し、スイス・オランダの独立を承認すること
- 神聖ローマ帝国の領邦の主権を認めること
こうした内容の条約ウェストファリア条約が会議で承認されました。
①②によりフランスはライン川を、スウェーデンはバルト海の南に領土を得ることが確定し、③により実質的には「ほぼ独立状態」であったスイス・オランダの独立が国際的にも認められるようになりました。
そして最後の④。これが神聖ローマ帝国にとっては非常に重い内容となっています。『神聖ローマ帝国の死亡証明書』とも呼ばれる内容で、領邦が完全に独立国家として扱われるようになりました。ハプスブルク家の支配する地域がオーストリアを中心とした地域に限定されたのでした。
ちなみに…
神聖ローマ帝国が死亡証明書を突き付けられたのと同じ頃、東の大国オスマン帝国の衰退が目立つようになりました。一方で荒廃した神聖ローマ帝国でしたが領邦からプロイセンが台頭し始めます。三十年戦争で被害が少なかったともいわれています。
このオスマン帝国の衰退やプロイセンの台頭はまた別記事で紹介したいと思います。