ハプスブルク家の最盛期を作ったカール5世(カルロス1世)の華麗なる経歴<人物伝②>
1500年2月24日、ブルゴーニュ公フィリップ美公とスペイン王女フアナの長男としてブルゴーニュ公の居城ガンでカール(カルロス)は誕生し、その宮廷で成長します。ところが、その成長の過程で幼少期に父を亡くし、母が病を発症して...と子ども時代から波乱万丈な道を歩むことになりました。
カールの幼少期の肖像画を見ると、父親と似ているのがよく分かります。
既に兆候はあるけど、あごはまだ控えめですね。
今回はそんなカールの生涯を追うと非常に長くなりますので、カールが国王や皇帝に即位するまでの経緯をまとめていこうと思います。
少年時代
曾祖父母にまでさかのぼると、神聖ローマ帝国・スペイン・ポルトガル・フランスの王家に繋がるサラブレットとして誕生。
フアナは病を発症していたため、祖父フェルナンドが摂政についてカスティーリャの共同統治を行った。
父が亡くなり、6歳で跡を継ぐことに。
9歳で団に迎え入れられ、16歳で団長に。
カールが生まれたのはフランドルのガン、現在のベルギー・ヘントです。17歳までをネーデルラントで過ごしました。
母フアナの兄や姉らが亡くなり、フアナがカスティーリャの王位継承者に指名されると1501年には2歳にならないカールを置いて父母がスペインへ向かいます。
この時、父フィリップ美公は自身の治める領地に近いフランスを重視した形で独断でフランス国王ルイ12世と条約を結び、カールとルイ12世の娘との婚約を取り決めたと言います。スペインに到着した後も王室の共通語、ラテン語ではなく祖父母のカトリック両王が分からないのを分かったうえでフランス語で話すなど、かなりひどい態度をとっていました。
当然、カトリック両王のフィリップへの印象は最悪でした。
これに対して婿を君主の器じゃないと判断したイサベルは「フィリップに王位は渡さない(意訳)」とあからさまにした遺言を残すことに。
父フィリップはスペインの気候や厳粛な雰囲気を嫌っていたようです。
ということで、あまりに馴染めないことから父は臨月の妻を置いて帰国。母がスペインで弟フェルディナントを生みますが、スペインに行く前に既に浮気されていたため一人で戻った夫の浮気を不安に思い、出産を終えると母も夫の元に戻っていきました。
※この頃は既に母の病が発症。精神的に不安定に。
こうした母の精神状態の不安定さや父母のスペインとフランドルの度重なる往来のなかでカールの面倒を見てくれたのは父フィリップ美公の妹マルガレーテです。彼女は女傑と言ってもいいほどの人物で政治力に大層優れていました。
※スペイン王家とハプスブルク家は、フィリップ美公とフアナ、マルガレーテ(下の肖像画)とフアン(フアナの兄)の間で二重政略結婚をしましたが、フアンは結婚1年で亡くなり、地元に戻っていました
マルグリット・ドートリッシュ(wikipedia)より
Hugo Maertens – Musée municipal de Bourg-en-Bresse
マルガレーテはルーヴァン大学学長で聖ペテロ教会司祭長のアードリアン・フロリゾーンをカールの家庭教師につけています。のちのローマ教皇、ハドリアヌス6世です。
フランドルの騎士道の崇高さを好む風土や「最後の騎士」と呼ばれた祖父マクシミリアン1世の影響、若い頃から騎士団団長という立場に立ったこと、アードリアンによる宗教改革...さらにマルガレーテの政治家としての生き方を間近に見たことがカールの生涯に影響を与えたのでした。
後のライバル国王との一騎打ちや宗教改革への対応にはカールの成育歴が垣間見えています。
フランドルに両親が戻ってきた後のカールは再び両親と共に暮らしますが、一方、スペインで生まれたフェルディナントはそのままスペインで育てられています。
そんなおり1504年に祖母イサベル1世が亡くなり、いよいよ母が王位継承することに。この時「カスティーリャ王位をフアナに」「統治がダメそうならカールが20歳になるまでは(フアナの)父フェルナンド2世が摂政につくように」と遺言を残しました。
王位継承に関するやり取りなだけに両親はスペインに行かなければなりませんでしたが、その先で父が水に当たって急死。1506年にカールは6歳でブルゴーニュ公を継ぐことになったのでした。
スペイン国王と神聖ローマ皇帝へ即位する
祖父フェルナンド2世が死去。アラゴン王に即位した。また、母は存命ながら政治を一人で任せられる状況でもなく、カールがフアナと共にカスティーリャ王位にも即位。
※スペイン王国の始まりは1479年、フェルナンドとイサベルの同君王国として成立している
なお、この即位によりカルロス1世は本国スペインの他、ナポリ王国やシチリア王国、サルデーニャ王国などの現イタリアにまたがる地域や大航海時代に手に入れていたスペイン領アメリカなど広大な領域を相続することになった。
以後、しばらくの間スペインはハプスブルク家(アブスブルゴ朝/スペイン・ハプスブルク朝)が治めている。
ドイツ中部出身のルターによりカトリックの腐敗を批判して宗教改革が始まる。
カールがオーストリアなどのハプスブルク領を相続した。
カール(カルロス1世)とフランス国王・フランソワ1世が対立。最終的にカールが神聖ローマ皇帝に即位した。
スペイン国王に即位(1516年)
さて、ヨーロッパ貴族のサラブレットとして人生を歩んでいたカールにとって1516年に大きな転機が訪れます。スペイン国王・フェルナンド2世が亡くなり、遺言通りカルロス1世としてカールがスペイン国王の地位に即位したのです。
ところが、彼はフランドル生まれのネーデルラント育ち。スペイン語が分からず、スペイン生まれでスペイン育ちの弟フェルディナントを周囲は推していました。なんなら生前に祖父のフェルナンド2世も弟フェルディナントを推していますし、フェルディナントが即位できるように祖父も動いてたようですが、タイミングも悪くイサベルの遺言が優先されることになったのです。
カールが即位しスペイン入りした後は、彼に代わりフェルディナントがハプスブルク家の本拠地オーストリアに向かっています。
以後フェルディナントがスペインに戻ることはありませんでした。
※そんな長らく離れていた二人の兄弟は生涯良好な関係を保ち続けています。
一方、カールがスペイン王になった翌年、ヨーロッパでは大きな変化が生まれはじめます。
宗教改革(1517年)
ローマ・カトリック教会の腐敗から神聖ローマ帝国でマルティン・ルターによる宗教改革が始まったのです。
神聖ローマ皇帝への即位
宗教改革開始直後の神聖ローマ帝国は祖父のマクシミリアン1世の治世下にありましたが、すぐに祖父が死去。神聖ローマ帝国では有力貴族である選帝侯が選挙で皇帝を選んでおり、その候補者としてカールとフランス国王フランソワ1世の名が上がりました。
フランスからしてみればハプスブルク家が神聖ローマ皇帝につけば、西にスペイン、東に神聖ローマ帝国と挟撃されかねない形になるため、どうしても避けたかったということでフランソワ1世も皇帝選挙の有力な候補者として名乗り上げたのです。
当時の各国の特徴は?
当時、すでに神聖ローマ帝国は両方の力が強くなっており、皇帝はあくまで複数の領邦の調整役のような役割を持っています。一方でライバルのフランスという国の場合、絶対王政全盛期とまではいかなくても神聖ローマよりも遥かに強い王権と財力を持っていました。
一方で、カルロス1世としてカールが統治していたスペインは中央集権化と絶対王政の進んでいた地域です。カールはこのスペインからお金を引っ張ってくることになります。
選挙に必要なこととは??
これは今も昔も変わりません。資金力です。
神聖ローマ帝国と比較して国王の権力や財政が豊かなフランソワ1世に対立するため、カールは各方面で借金を重ねなくてはならなくなりました。
主にドイツのアウクスブルクの豪商・フッガー家から借金していたようです。
スペインから懐柔工作費用や借金返済金としてお金を持ち出したため、スペイン本国では反乱が発生しています。スペイン国王が勝手に国からお金を持ち出せてしまう絶対王政の体制に反発したのです。
スペインで反乱を起こさせてしまうほどの大金をつぎ込んだ甲斐もあって、選挙ではフランソワ1世を撃退。カール5世として神聖ローマ皇帝に即位することになるのです。
そんな感じでスペイン国王として神聖ローマ皇帝としての華やかな肩書を手に入れたカールでしたが、この時点で
- カール(スペイン国王/神聖ローマ皇帝)vs. フランソワ1世(フランス国王)
- マルティン・ルターらによる新宗派
- スペイン本国での反乱
と内外に敵を作ってしまいました。
結果、カールの人生はヨーロッパ各地で戦い続ける人生となっていくのです。カールの戦いに焦点を当てた人物伝は別の記事で改めて紹介しようと思います。