プロイセンとオーストリア①/オーストリア継承戦争
神聖ローマ帝国が三十年戦争で有名無実化し、領邦がほぼ独立国家のような存在に成長した中で力をつけていたのがプロイセンです。
スペイン継承戦争の講和条約ラシュタット条約で大国化したハプスブルク家が治めるオーストリアに次ぐ第二の強国として、神聖ローマ帝国で存在感を放つようになっていました。
やがてオーストリアとプロイセンを対立軸としたオーストリア継承戦争や七年戦争が勃発。この二つの戦争のうちオーストリア継承戦争についてまとめていきます。
プロイセン王国の始まり
スペイン継承戦争でオーストリアが大国化した話はしていたので、まずはプロイセンの状況から簡単に。
プロイセン王国の基幹が出来たのがブランデンブルク選帝侯とプロイセン公国が同君連合国になったヨーハンと呼ばれる人物の代で、その後、ヨーハンの孫で大選帝侯と讃えられるフリードリヒ・ヴィルヘルム(在位:1640~1688年)の治世下で一気に飛躍しました。
その大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの子フリードリヒ1世(在位1701-13年)の代にスペイン継承戦争でハプスブルク家に味方する代わりに神聖ローマ皇帝レオポルト1世から王の称号を名乗ることを許されます。
こうして始まったのがプロイセン王国です。
そのプロイセン王国の2代目国王がフリードリヒ・ヴィルヘルム1世(在位1713-40年)で、彼が絶対王政の基礎を築き上げました。
※正確に国王と名乗れるのはもう少し先で『プロイセンの王』という形の王号だったようです。
イルベ川以東で力を持つようになっていたドイツの地主貴族ユンカーを官僚や軍隊の士官に起用し、財政・行政制度を整えたことで知られ、その功績から「兵隊王」「軍人王」とあだ名されています。
当時の人口200万人の中で8万人規模の陸軍を整備。国庫も整えたうえで息子のフリードリヒ2世に国を託しました。
オーストリアの事情
スペイン継承戦争の最中にレオポルト1世が亡くなり、跡を継いだヨーゼフ1世も王位についてから約6年で亡くなりますが、ヨーゼフ1世には男子の後継者がいませんでした。
※レオポルト1世の治世下の1683年に第二次ウィーン包囲が起こり、ポーランド王ヤン3世ソヴェスキの支援もあって撃退。99年にカルロヴィッツ条約を結んでハンガリーを獲得しています。
そこで弟のカールがカール6世として即位します。
スペイン継承戦争ではスペイン国王となる者が他国の国王や皇帝であるとパワーバランスが崩れるため、最終的に王位継承を放棄したフランス国王ルイ14世の孫フェリペ(5世)がスペイン国王についたんでしたね。
そのカール6世は女の子二人しか成人しませんでした。
ところが、古い時代からゲルマン人たちは「強いのが良し!」というような戦闘派・武闘派が名誉とされる集団だったことから、ハプスブルク家も「男系が跡を継ぐ」といった内容のサリカ法に基づく男系相続が基本。こうして後継者問題が噴出したのです。
マリア・テレジアの即位
<在位>
- オーストリア女大公:1740~1780年
- ハンガリー女王:同上
- ボヘミア女王:1740~1741年、1743~1780年
男子のみが後継者となれたハプスブルク家において、娘を跡継ぎにするには法令を決めなければなりませんでした。カール6世は生前、しっかりと女子も帝位を継承できるように『プラグマティシェ=ザンクティオン(王位継承法)』を出して関係国への根回しもしっかり行います。
ところが、カール6世が亡くなり実際に跡を継ぐ段階になるといちゃもんをつけてくる人たちが現れました。周辺諸国が相続を認めずに領土分割しようと攻め込んできたのです。こうして始まったのがオーストリア継承戦争でした。
オーストリア継承戦争(1740~1748年)
オーストリア継承戦争に参戦したのがどんな人たちなのかと言うと...
ハプスブルク家をうっとおしいと思っていた
- 神聖ローマ皇帝に選出されたいバイエルン選帝侯やザクセン選帝侯
- 長年神聖ローマ帝国と対立していたフランス
- スペイン継承戦争以降フランスの傍流が王位についたスペイン
- 神聖ローマでオーストリアのライバルになりつつあったプロイセン
といった国や諸侯たちです。
オーストリア=ハプスブルク家が途絶えたということで、これまで世襲のような形で決まっていた神聖ローマ皇帝位に他家がつく可能性がでてきました。
実際に1742年から亡くなるまではバイエルン選帝侯だったカール7世が即位しています(その後はマリア・テレジアの夫が即位)。
軍が整備された状態でフリードリヒ2世は即位した直後にカール6世が亡くなり「マリア・テレジアの即位に反対」としてオーストリアのシュレジエンの割譲を主張し、実際に侵攻したことで戦争が始まりました。
※シュレジエンは鉄鋼や石炭が豊富に採れる非常に豊かな土地です。
一方でフランスやスペインと敵対していたイギリスや隣接するプロイセンを警戒したロシアなどがオーストリアを支援しています。
なお、この時にも重商主義による植民地戦争が連動して発生。イギリスはスペインと西インド諸島でジェンキンズの耳戦争、フランスと北米でジョージ王戦争(1744~48年)、インドでカーナティック戦争(1744年)が勃発しました。
アーヘンの和約(1748年)
多くの国も参戦し、世界中に戦火が広がったオーストリア継承戦争は最終的に1748年に結ばれたアーヘンの和約で講和されました。
この時に
- マリア・テレジアの継承権を認めること
- プロイセンへのシュレジエン割譲
(他にもいろいろあるけど)といった内容が決められています。
なお、シュレジエンを取られるのはオーストリアにとってかなり痛手だったため、マリア・テレジアはシュレジエンを取り戻す機会を虎視眈々と狙っていくことになります。
外交革命
オーストリア継承戦争が起こった当初はマリア・テレジアの即位直後。第4子を妊娠中の23歳な上に政治的教育も受けておらず、ほとんどの各国大使たちが「無知」として軽く扱っていました。
イギリスのみが「非凡」と彼女の才を評しています。
戦争への対応を見て各国も評価を改めたようですが、更にその評価を高めたのがシュレジエン奪還のための各種改革でしょう。
「現状の政治制度では他の地方も危うい」と主張していた名門の出もないシュレジエン出身の貴族を登用して内政改革を行い、オーストリア継承戦争含む様々な戦いで戦功をあげてきた軍人に軍の改革を任せます。
そして、極めつけに行ったのが長らく敵対していたフランスとの同盟でした。誰も考えもしない大胆の政策転換だったことから外交革命と呼ばれています。
公妾のポンパドゥール夫人を通じてルイ15世を懐柔し、フリードリヒ2世を嫌悪するエリザヴェータ1世とも交渉を続け、プロイセン包囲網を築き上げました。こうしてプロイセンを外交で追い詰めたうえで戦争準備を着々と進めていったのでした。