スペイン=ハプスブルク家の断絶とスペイン継承戦争
カール5世(カルロス1世)が息子のフェリペ2世にスペインを、弟フェルナンデスに神聖ローマ帝国の皇帝位を継承させたことでハプスブルク家はスペイン=ハプスブルク家とオーストリア=ハプスブルク家に分裂していました。
そのうち、スペイン・ハプスブルク家がカルロス2世の代で断絶。このスペインは領地を本国以外にも多く持っており、その領地や利権を得るために国王の後継者を巡る争いが1701~1714年まで起こっています。
ここではスペイン継承戦争の背景や内容についてまとめていきます。
スペイン・ハプスブルク家の断絶
今回のテーマ『スペイン継承戦争』は名前の通り、スペインの王位継承問題が直接的な原因となって起こった戦争です。
ハプスブルク家はカルロス1世(カール5世)の治世以降、オーストリアとスペインに分かれましたが、正直近親婚が多すぎてスペインなんだかオーストリアなんだか、すぐに見分けがつかないくらい入り組んでいます(兄弟姉妹は省略)。
その度重なる近親婚の末にスペイン・ハプスブルク家最後のカルロス2世は病弱な身体で誕生します。
ハプスブルク家の顎(下顎前突症)が著しく、食事の際には咀嚼できずに嚥下することが多かったそうです。大人になっても常時よだれを垂らしていたと言われています。さらに様々な感染症にかかった上にくる病も発症し足底装具も必要でした。
そうした状態のカルロス2世もお年頃になると血筋ゆえに結婚しますが、生来の虚弱体質により性的にも不能だったと言われ(周りも諦めていた)、子が産まれないままで亡くなったのでした。
近親婚ばかりになった背景とは?
フェリペ2世はプロテスタントを強く弾圧していましたし、カトリックの盟主としての自負もあり、結婚相手は「カトリックの王妃を」と考えていました。
※カトリックの王妃となった一人がエリザベス1世の姉メアリ1世です。下の記事ではメアリとフェリペ2世の結婚についても少しだけ触れているので気になる方はご覧ください。
すでにカトリックの王妃や女王と3度結婚していたものの子を授からず、苦渋の決断で姪っ子との結婚を進めていきます。その結果、唯一育ったのがフェリペ3世でした。彼もまた病弱で生まれたと言います。
フェリペ3世の代でも太陽の沈まない国と言われたほどの大国の王妃に相応しい血筋のカトリックの人間はおらず、近親婚。こうして代々近親婚を続け、カルロス2世はその弊害が諸に出るような形で生まれたのでした。
なお、カルロス2世の姉マルガリータは近親婚の影響はそれほど現れなかったと言います(面長で多少アゴはあったようです)が、彼女の近親交配度が親兄弟の4倍の数値になっていたそうです。
彼女もまたオーストリア・ハプスブルク家出身の母方の叔父と結婚しています。
スペイン継承戦争に他国が干渉した理由とは?
カルロス2世は生前から子をなさずに亡くなるだろうということは織り込み済みになっていました。当然ながら後継者候補が何人かピックアップされます。
カルロス2世はナポリ、シチリア、ネーデルラント、さらに海外植民地(南北アメリカやフィリピンなど)を統治する存在でした。
継承権を持つ者にとっては「自国や自身を大いに飛躍させるかもしれない」とスペイン王になることに躍起になり、逆に継承権に関係ない人たちにとっては「下手な奴に持たせたら自分が脅かされるかも」と干渉せざるを得なかったようです。
フランス国王/ルイ14世
スペイン王家の血筋を持つ者は何人かのうち、当時もっとも力を持っていたのがフランス・ブルボン朝の国王ルイ14世です。
ルイ14世の治世下のフランスは絶対王政の全盛期に突入し、戦争に投入できる兵力が数十万人単位にまで増えていました。しかも、ルイ14世は親政開始後、領土欲を隠しもせず、ネーデルラント継承戦争(1667-1668年)や仏蘭戦争(1672-1678年)、プファルツ戦争(1688-1697年)と次々と戦争に関わっています。
ルイ14世は王妃がカルロス2世の異母姉マリー=テレーズ、しかもルイ14世の母親もスペイン・ハプスブルク家出身で十分に王位継承を主張できる立場だったのです。そこで孫のアンジュー公フィリップに王位継承を…と考えました。
現国王に王位を渡すとヨーロッパ本国の他に、カルロス2世の持つ権益を手に入れることになります。
他のヨーロッパ諸国にとって歓迎できる事態ではなく、話し合いの結果、王位継承権を持たない人物がスペインを継承するよう決められました。仮に決まっても王位継承権を放棄できる立場の人物が候補に挙がることとなります。
当然ながら、スペインの所有する領地を手に入れたいと考えたのはルイ14世だけではありませんでした。
神聖ローマ帝国/レオポルト1世
三十年戦争で神聖ローマ帝国は大きく力を落としましたが、オーストリアの領主としては依然として大きな力を持っていた人物がレオポルト1世です。
彼は在位中の1683年にオスマン帝国による第二次ウィーン包囲の危機を脱してハンガリーの領地を回復したという乗りに乗っている時期でルイ14世に対抗心を持っていました。
もちろんレオポルト1世も次男のカール(後のカール6世)のスペインの王位を主張しています。
最終的にカルロス2世が決めたのは…?
婚姻関係により勢力を拡大していただけに、ハプスブルク家は有力者の親戚が多くいました。ルイ14世の甥っ子、バイエルン選帝侯、サヴォイア公、ポルトガル王も王位継承を主張しています。
そんな中、カルロス2世が生前に署名した遺言書に書かれた後継者の名前はルイ14世の孫フィリップで、実際にカルロス2世が亡くなった後にフェリペ5世として即位しました。
スペイン継承戦争の勃発(1701-1714年)
ルイ14世は前提条件のはずの王位継承権をフェリペ5世に放棄させませんでした。王になれば将来的にフランス/スペインが同じ国になるとヨーロッパでのフランスの覇権がかなり強まります。
それを嫌ったイギリス・オランダは反発。オーストリアのレオポルト1世も改めてカールを新たなスペイン国王として擁立しようと動きます。
ちなみに、この頃のイギリスの国王はオランダ総督でもあるウィリアム3世(ウィレム)でした。
オランダと言えば過去にルイ14世とネーデルラント継承戦争や仏蘭戦争でバチバチやっていた国ですね。
イギリスもオランダも共に海洋貿易に関心が強く、フェリペ5世が王についてからスペイン国王が持つ『アメリカにおける奴隷貿易の特権(アシエント)』をフランスの貿易会社に与えたことは両国がフランスに反発する一因になりました。
こうして、イギリス・オランダ・オーストリアはフランスとの戦争に突入していくのでした。
戦争の流れ
当初、ウィリアム3世を中心として軍事活動を開始した三か国でしたが、ウィリアム3世は割と早い段階で落馬事故の末に死去。跡を継いだアン女王に戦争は引き継がれていきます。
王位継承戦争でありながら、当時は重商主義政策による植民地獲得競争をしていたという時代背景から、戦場はヨーロッパに留まらずスペインが領有していたアメリカ大陸にも広がりました(英仏植民地戦争/第二次百年戦争)。
初めはフランスも大軍を率いることができたため同等かと思われましたが、国内でのプロテスタントによる武装蜂起やドイツ諸領邦国家の同盟国側への参戦によりフランスが不利に陥っています。
が、やがて同盟国側にも長すぎる戦争に厭戦気分が広まるようになったうえ、イギリスでは戦争推進派を擁するホイッグ党が選挙に敗れ、戦争の英雄が横領でアン女王の信を失うと戦争に対して消極姿勢を取りはじめるようになりました。
そんな折、オーストリアではレオポルト1世やその後を継いだレオポルトの長男ヨーゼフ1世が亡くなり、スペイン国王に擁立した次男のカールがカール6世として神聖ローマ皇帝に即位することになります。
カール6世が神聖ローマ皇帝となってスペインを手に入れれば、結局はフランス国王がスペインを継ぐことによる弊害と同じ事態になってしまいますね。
結局、各国はフェリペ5世を引き続きスペイン国王とする方向に傾いていったのでした。
ユトレヒト条約(1713年)
以上のような経緯から休戦となり、講和に向けて話し合いが持たれました。
その中で
- ジブラルタル海峡
- 北米大陸の植民地
- スペインが独占していた黒人奴隷供給権
をイギリスは獲得。
逆にフランス側は
- フェリペ5世をスペイン王として認める代わりにフランスの王位継承権を永遠に放棄する
- アメリカ大陸の領土を失う
ことを余儀なくされています。
上記のような、フランスがスペインとの王位を統合することを禁止するなどを定めた英仏・スペイン間の講和条約をユトレヒト条約と呼んでいます。
ラシュタット条約(1714年)
一方でフランスとハプスブルク帝国との間で締結された講和条約がラシュタット条約です。
- オーストリアが南ネーデルラント、ミラノ公国、ナポリ王国、サルディーニャを領有すること
- フランス側について戦った選帝侯の復帰
を取り決めました。
以上のような条約をそれぞれ結んで
- イギリスは18世紀以降行われた 『アフリカ ⇔ 本国 ⇔ アメリカ』の間で行われた三角貿易による巨利を獲得
- 既にハンガリーやポーランドを支配していたオーストリアがさらなる領地を獲得したことで大国化
していったのでした(同時にオーストリアは他民族を抱えることとなり、統治に苦労することになります)。