ヨーロッパ

オランダのスペインからの独立<オランダ独立戦争/八十年戦争>

歴ブロ

1517年にドイツで始まったルターによる宗教改革以降、ほかの国や地域でも宗教改革が始まっていたわけですが、今回の主役、オランダでも新たな宗教が広まり始めていました。

オランダでは商業が発達したため、蓄財も良しとするカルヴァン派が多数を占めるようになっていきます。

そして、当時この地を支配していたのはスペイン王のフェリペ2世。彼は非常に熱心なカトリック教徒でカルヴァン派を弾圧していったため、独立しようという動きが生まれました。なお、フェリペ2世の妻はイングランド女王のメアリー1世だったため、イングランドとの絡みも紹介します。

というわけで、今回の記事は

  • フェリペ2世の治世化でスペインとオランダの関係がどうなったのか?
  • イングランドとスペインの関係
  • その後のオランダとスペイン

などをまとめていこうと思います。

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フェリペ2世の治世

スペインの全盛期を築いたフェリペ2世は、父カルロス1世から受け継いだスペイン王位や領地に加えて母がポルトガル王女だったことからポルトガル王も兼任しました。同君連合は1640年まで続いています。

れきぶろ
れきぶろ

スペイン国王カルロス1世は、神聖ローマ帝国皇帝カール5世と同一人物。カルロスがスペイン語読み、カールはドイツ語読みです。

広すぎて一人で統治する困難さを知っていたためか、スペインを息子フェリペに、神聖ローマ帝国を弟フェルナンドに譲っています。

フェリペ2世(wikipedia)より

さらに1571年にはレパントの海戦でオスマン帝国海軍を破り、地中海におけるオスマン帝国の西進の脅威を和らげました。

レパントの海戦

レパントの海戦(wikipedia)より

オスマン帝国の実態は衰退し始めていたものの、まだ名声は健在中。この一戦の敗北だけでオスマン帝国の優位は揺るぎはしませんが、ヨーロッパ世界にとってこの勝利はかなりの自信に繋がったようです。

Q
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一方で、輝かしい時代を迎えたオスマン帝国では大帝国の維持が困難になりはじめます。他国から見ると大国のままですが、内部では歪みが生まれ始めていたのでした。

フェリペ2世の二人目の妻メアリー1世について

フェリペ2世の2人目の妻(一人目は死別)はイングランド女王のメアリー1世でした。スペインの凋落はイングランドと無関係ではないので、当時の状況をちょっと見てみましょう。

フェリペ2世の父が神聖ローマ帝国の皇帝だった頃、マルティン=ルターによって始まった宗教改革は様々な国や地域に広がりました。イングランドも同様に国内は新旧勢力に二分します。

そこでスペイン国王としてカルロス1世はイングランドをカトリック派に引き入れる狙いで息子フェリペとメアリー1世の結婚を考えます。カトリックを信仰していたメアリー1世も国内の新宗派を一掃すべく、カトリックの盟主スペインの王太子との結婚を決意。利害一致によって婚姻関係を結んだのです。

スペインとオランダやイングランドとの関係の変化とは?

メアリー1世が亡くなり次代をプロテスタントのエリザベス1世が引き継ぐと、スペインとイングランドは関係は悪化しました。

れきぶろ
れきぶろ

フェリペ2世は妻のメアリーの死後もイングランドを支配下に置くため、エリザベス1世に求婚しますが、スペインの影響下に置かれたくないエリザベスは当然お断りしています。

れきぶろ
れきぶろ

さらにエリザベスは海外に目を向けるようになっていたため、経済的にもスペインとの対立が明らかになってきていました。

そんな中で、フェリペ2世の統治するスペインでも宗教改革の波は押し寄せてきます。特に、商業の盛んなネーデルラントでは新宗派の中でもカルヴァン派(ネーデルラントではゴイセンと呼ばれた)が多く信仰されました。

フェリペ2世は、この新宗派を認めずカトリックに強制させた上に重税を課し、都市の自由まで奪ったのでした。

結果起こったのが1568年から始まったオランダ独立戦争です。この戦争にエリザベス1世はネーデルラントを積極的に支援しています。

オランダ独立戦争(1568~1609年)

オランダ独立戦争は、ネーデルラント全地域で行われたわけではありませんでした。ネーデルラントのうち、南部にあるフランドル地方はスペインに帰順しています。

※イングランドとの羊毛の取引を行い毛織物産業を主産業としていた地域で、百年戦争の一因になったことでも知られます。

フランドル地方はカトリック教徒の割合が多く、1578年にネーデルラント総督となったパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの働きかけもあって翌年にアラス同盟を締結し、スペインの支配下に留まりました。

Q
アレッサンドロ・ファルネーゼってどんな人?
アレッサンドロ・ファルネーゼ(wikipedia)より

父は先代パルマ公、母がスペイン国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の庶子ということで、フェリペ2世の甥にあたります。

アラス同盟は、新しい宗派がどんどん広まる中で独立戦争の指導者オラニエ公・ウィレムらが決める宗教政策への不満が背景にありました。

ウィレム1世(オラニエ公)(wikipedia)より

一方、指導者のオラニエ公の下でユトレヒト同盟を結んでスペインに対抗し続けたのが北部7州です。

彼らは1581年にはフェリペ2世のネーデルラント君主としての地位を公式に否認し、名目上ネーデルラント連邦共和国として独立させました。

  • ホラント
  • ゼーラント
  • ユトレヒト

『連邦』の名が示す通り上記のような自治権を持つ諸州から成立することになるのですが、現実的に戦争が終わったわけではありません。スペイン側は独立を認めず戦争は引き続き行われていくのでした。

なお、オラニエ公は84年にカトリック教徒により暗殺され、次男がスペインとの戦いを引き継いでいます。

イギリスはオランダ独立戦争にどう絡んでいたの?

イギリスでの大航海時代はヘンリ7世の代から。エリザベス1世の代でもイギリス人航海者による探検航海が行われていました。イギリス人として初めて世界周航に成功したフランシス=ドレークもエリザベス1世が支援した一人です。

ドレークらは世界周航の際に海賊のようなやり口でスペインの植民地や船を攻撃し、財宝を奪い取っていきました。そのフランシス=ドレークが参加したのが1588年のアルマダの海戦です。

私掠船(しりゃくせん)でやられていたスペインは無敵艦隊を送り込みますが、イギリス海軍の反撃を受けて敗北。スペインが制海権を失うきっかけとなっています。

私掠船とは?

戦争状態の敵国の船を「攻撃して積み荷や荷物を奪ってもいいですよ」と国から許可を得た個人の船のこと。正確に言うと私掠船は海賊船とは違いますが、行為だけ見れば海賊そのもののため「国公認の海賊」なんて言われ方をすることもあります。

その後のオランダとスペインを見てみよう

無敵艦隊の敗北後、1598年にはフェリペ2世が死亡。跡を継いだ息子のフェリペ3世は生まれつき病弱で、彼の側近も力不足が否めませんでした。

1609年には12年の休戦条約が結ばれ、事実上オランダは『独立』を果たします。

この間にオランダはバルト海の中継貿易や、1602年設立の連合東インド会社による東南アジア貿易や21年のオランダ西インド会社設立によるアメリカ進出などで、富を蓄えていきます。日本とも貿易を続けていましたね。

こうした貿易に加え、オランダは国際金融の中心としても繁栄しはじめます。

元々国際金融の中心だったフランドル地方のアントウェルペン(アントワープ)がオランダ独立戦争で大きな被害を受けたため、オランダのアムステルダムに代わっていたのです。

こうしてオランダは17世紀前半には全盛期を迎えます。宗教的にも自由が認められるようになったことで各知識人たちが自由な交流の場がもたれ、学芸面でも栄えました。

一方のスペインはイギリスやオランダに制海権を徐々に削られ、徐々に国際的地位を失っていったのでした。

八十年戦争

スペインとオランダが休戦していた時期は、スペイン以外の国でもカトリックとプロテスタントをめぐって戦争が勃発していた時期でもありました。

1618年には神聖ローマ帝国(ドイツ)でもカトリックとプロテスタントが争う三十年戦争が起こっています。

この三十年戦争にスペイン(カトリック勢力側)とオランダ(プロテスタント勢力側)もそれぞれ参加。

最終結果はプロテスタント側の勝利に終わり、オランダの独立は三十年戦争の講和条約ウェストファリア条約で国際的にも正式に認められました。

この1609年までのスペインとオランダ間で起きた戦争と(休戦を挟んで)三十年戦争も含めた期間の戦争を八十年戦争と呼んでいます。

教科書での『オランダ独立戦争』が終わったのは国際的に認められてはいないものの実質的にスペインから独立を果たした1609年とされていますが、八十年戦争を指して『オランダ独立戦争』と呼ぶケースもあるそうです。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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