簡単で分かりやすいオランダ独立戦争以前までのネーデルラントの歴史
オランダ独立戦争以前の『オランダ』という地域がどんな歴史をたどっていたのかを簡単にまとめていきます。
オランダの地理・特徴を簡単に
下の地図は現在のものですが、日本でいうオランダは地図でいう緑の部分にあたります。ライン川の下流に位置する九州とほぼ同じ大きさの面積を持つ国で、海面より低い干拓地が国土の約4分の1を占めるのが特徴です。
白地図ぬりぬりさんで作成より
なお、日本に伝わった『オランダ』の言葉は『Holland』がなまって伝わったもの。
『Holland』は本来なら国全体を指す言葉ではなく、歴史的に経済発展が特に著しかった地域の名前を指しているので、国全体を指す言葉としてはネーデルラントの方が正確といえそうです。
ローマ帝国時代~フランク王国
古くはライン川下流以南がローマ帝国領、以北がゲルマン諸族の土地でした。西暦300年ごろからのゲルマン人の民族大移動後はフランク王国の統治下に入ります。
そのフランク王国が分裂すると中フランク王国に属しますが、その後の情勢変化で中フランク王国が再分裂。今度は大部分が東フランク王国に、南西部のフランドル地方は西フランク王国に含まれることになりました。
東フランク王国は現ドイツ、西フランク王国は現フランスの原型となった国です。ネーデルラントは東フランクと西フランク王国の間に位置していました。
ヴァイキングによる侵略の時代
800~1000年ごろにかけては、ほかのヨーロッパ諸国と同様にヴァイキングに悩まされます。841年~873年と短い間ですが、ヴァイキングにより支配されている時期もありました。
神聖ローマ帝国とフランス王国による支配<10世紀~>
その後、西フランク王国はフランス王国(カペー朝)、東フランク王国は神聖ローマ帝国と呼ばれる国に移行しました。
フランク王国が神聖ローマ帝国と呼ばれる国やフランス王国になった10世紀以降、そのままネーデルラントは北部を神聖ローマ帝国が、南西部をフランス王国が支配するようになっていきます。
とはいえ、神聖ローマ帝国もフランス王国も当時は王権なんてあってないようなもので、国王は一領主のような扱いでしかありません。王様なんていうのは名前だけだったようです。
ネーデルラントも同様にブラバント公やホラント伯、フランドル伯と言った諸侯領やユトレヒト司教領などの諸侯による統治がなされていただけであって、統一されていたわけではありませんでした。
ブルゴーニュ公国による支配<14世紀>
やがて11世紀末から始まった十字軍遠征が終わりを迎えると、ネーデルラントにも色々と変化が訪れます。特に大きな変化が
- 王権の強化
- 商業の発達
こうした変化でした。
14世紀には、ほぼ独立のような形で支配されていたフランドル地方に親フランス派の領主が誕生します。
さらに、
- 商業の発展で物品の売買が盛んになったこと
- 世界的に寒冷化が進んでいたこと
から、イングランドから羊毛を輸入して加工した毛織物を輸出したため恩恵を受けて非常に豊かな地域となりました。
交通網が発達して、様々な地域に加工品を売り出せたわけですね。
百年戦争とブルゴーニュ公によるネーデルラント支配
ところが、この経済圏をめぐってイングランドとフランスが対立していきます。領主がフランス派なのに対して住民たちはイングランド派ということで両者はかなり拗れました。
同時期にフランスではカペー朝が断絶。王位継承問題が起こると、フランドル問題も絡んで百年戦争が勃発します。
そんな中、フランス南東部に本拠地を持つフランスの大領主でブルゴーニュ公が婚姻関係を結んでフランドル地方を支配すると、ブルゴーニュ公はそれをきっかけにネーデルラント全域の支配の動きを強めていきました。
ブルゴーニュ派 vs. アルマニャック派
百年戦争は初期の頃よりイングランド優位で進みます。さらに当時のフランス国王シャルル6世(狂気王)が精神疾患を発症して国を統治できる状況じゃなくなったことでフランス内部では内紛が起こります。
フランドルを統治するブルゴーニュ公を筆頭とするブルゴーニュ派はシャルル6世の甥(弟の息子)をはじめとするアルマニャック派と対立したのです。
※シャルル6世の弟はブルゴーニュ派に殺害されています
ブルゴーニュ派はイングランドと結びつきが強くなっていきますが、ジャンヌ・ダルクの登場で流れがフランスに吹き始めます。最終的に百年戦争はフランス勝利で終わったためにブルゴーニュ公の勢力は衰えていったのです。
ハプスブルク家(神聖ローマ帝国)の支配<15世紀>
百年戦争後のフランスではアルマニャック派が擁すシャルル7世が即位しました。
その後、フランスは王権を強めブルゴーニュ公を追い詰めると、フランスとブルゴーニュ公国の間で起こった戦い・ブルゴーニュ戦争で領主が戦死。
フランスがブルゴーニュ公領をどんどん接収していく事態となり、ブルゴーニュ公の一人娘マリーは当時の神聖ローマ帝国皇帝の息子でオーストリア大公マクシミリアン(後の神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世)に助けを求めます。
※ブルゴーニュ公は生前からマクシミリアンと娘の結婚を考えていました
当時の神聖ローマ帝国の皇帝はSOSに応じてブルゴーニュ公領へマクシミリアンを送り込み、マリーとの結婚を承諾。ブルゴーニュ公領の本拠地はフランスに、ネーデルラントから現フランスの東部の地域はハプスブルク家領になったのでした。
この一件は、フランスと神聖ローマ帝国の間に大きな禍根を残すことになります。
スペインの支配下に
マクシミリアン1世とマリーの間には息子のフェリペと娘マルグリットが誕生しています。彼らは二人とも(イベリア半島の)アラゴン王家と婚姻関係を結びました。
アラゴンを治めていたのはカトリック両王。彼らはスペインの基礎を作った人物です。
マクシミリアン1世が結婚させたのは、そんなカトリック両王の息子フアンと娘のフアナでした。娘の夫となったフアンは結婚後すぐに亡くなっていますが、フェリペとフアナには子供が多く誕生しています。
その一人がスペイン語でカルロス、ドイツ語でいうカール。神聖ローマ皇帝のカール5世です。ドイツの宗教改革の頃によく出てくる名前です。弟にはフェルナンドもいます。
一方で、カトリック両王の間にはフアン以外の男の子はおらず、フアナの姉たちも早くに亡くなったためフアナにスペインの継承権が回ってきました。結果、嫡男のカルロスがカルロス1世として即位しました。
父方からネーデルラントも受け継いだ上に神聖ローマ帝国も治めることになるのですが、宗教改革などのトラブルやフランスとの戦いなど戦乱続き。持病もあって疲れ果ててしまいました。
ということで、カルロス1世は皇帝に在位している段階で
- ネーデルラントとスペイン:息子のフェリペ2世
- 神聖ローマ帝国:弟のフェルナンド1世
に継がせ、引退を決めています。
こうしてネーデルラントは、スペイン国王フェリペ2世が治めることとなったのでした。