ヨーロッパ

狂女フアナの半生とヨーロッパの一大帝国の誕生【スペイン・オーストリア史】

歴ブロ

フアナ女王(wikipedia)より

 

以前書いてきたスペイン王国の基礎を築いたフェルナンド2世イサベル1世、いわゆるカトリック両王の跡を継いだフアナ女王。

彼女の半生と彼女の息子達による新たな大帝国について書いていきます。

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フアナの幼少期はどう過ごしたの?

1479年11月6日、カトリック両王の第2王女として生まれたのがフアナです。上には姉のイサベルと兄・フアン、下の妹にはマリアカタリナ(英語名キャサリン)がいます。

フアナの少女時代は内気で一人で過ごすことを好んだとされています。また、読書好きで王女としてふさわしく数々の学問を学び、複数の言語を習得した才女としても知られていましたが、政治にはイマイチ興味を持てなかったようで母をがっかりさせたそう。

そんなフアナもお年頃になると、一国の王女らしく結婚の話が舞い込んできました。

そのお相手こそが、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世の息子フィリップです。

アラゴン王の父、フェルナンド2世は当時(1494〜1495年)第一次イタリア戦争でフランスと敵対していたこともあり、スペインと同盟さえ組めば挟撃できる神聖ローマ帝国との同盟を強く望んでいました。

逆にマクシミリアンの方は2人しかいない子供を2人ともスペインとの同盟のために結婚させるのに躊躇していたのですが、フランスのシャルル8世がイタリア戦争の一環でミラノへ侵攻するのを見て決意。フアナの兄フアンと共に二重結婚の運びとなりました。

 

イケメン王子のフィリップ美公と結婚

1496年10月フアナは16歳で大規模な船団とともに夫となるフィリップの所領フランドル(現在のオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部)へ向かいます。

現在のオランダ南西部のゼーラントに到着した一行。肝心要のフィリップは議会を主宰していたため行くことができず、フアナ達を落胆させました(兄フアンに嫁ぐ予定のマルグリットが歓迎してくれています)

このフェリペ。父のマクシミリアンとは違って暗愚やら凡庸と評価されることの多い人物でしたが、見た目はすこぶる良かった。端麗公やフィリップ美公の異名もあるほどです。その上、狩りなどが得意なスポーツ万能。女性の扱いにたけ話術にも優れています。そこに父親が神聖ローマ帝国の皇帝という家柄もついてくるわけで…

とにかく、とんでもなくモテた訳です。

フィリップ美公

フェリペ1世(カスティーリャ王)(wikipedia)より

フアナはそんなフィリップ美公と婚礼日の前日に初めて顔を合わせると、一目で気に入りました。フィリップもハプスブルク家の治める地にいる女性とは違うエキゾチックなタイプのフアナに惹かれます。

夫婦となる2人の初対面に同行していたスペイン人司祭に命じて翌日の婚礼予定を前倒しし、簡易的な結婚式を挙げるほど情熱的で非常に仲の良い夫婦でした。

・・・最初は。

情熱的な出会いと結婚で、そのまま仲の良いままの夫婦になるかと思いきや、モテまくる夫の女癖の悪さにフアナは苦しめられることに。フアナは人目を憚らず激怒したり不倫相手や夫に詰め寄ったり情緒不安定さを見せるようになったのです。

※実はこのフアナの症状。フアナの母イサベル1世の母親(フアナの祖母)が同じような症状に悩まされていました。祖母は産後鬱の可能性を指摘されており、フアナも遺伝的になりやすい素質があったのではないかと言われています。

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後の親政ローマ皇帝カール5世とフェルディナント1世の誕生

2人の間には結婚後、多くの子供に恵まれました。

1498年7月にはレオノールが、翌々年の1500年2月には長男カルロスが、1501年5月には次女イサベルが誕生しています。カルロスとは、後のスペイン王カルロス1世、もしくは神聖ローマ帝国皇帝カール5世。ハプスブルク家の全盛期を築いた有名な皇帝です。

フアナが王位継承者に

一方でちょうどこの頃、フアナの周りでは不幸が続きました。

共にハプスブルク家と縁づいたスペインの嫡子である兄フアンが結婚直後に病のために死去。妻マルグリットは夫フアンの死後に男児を生みますが死産でした。ポルトガル王に嫁いでいた姉イサベルも男児を生んで産褥死し、その子も1500年で2歳にもならずに亡くなってしまいます。

さらに母親のイサベル1世も病がちになっていたため、カスティーリャの王位継承の話を本格的に進めなければなりませんでした。

こうして兄姉と甥っ子達の死によりカスティーリャの王位継承権、さらにはアラゴン、果ては新大陸の継承権までもがフアナに回ってきたのです。

スペインへの里帰りとフェルディナントの誕生

フアナの王位継承権が確実になり、1501年11月、夫婦二人でカスティーリャに向かいました。この里帰りには両親の「将来の臣下に会わせたい」という要望もあったようです。

スペインについてからのフィリップは「フアナは精神異常」と喧伝し、代わりに「自分が相応しい」と王位継承を要求します。が、そこはスペイン史でも有能で知られる二人の国王達です。フィリップの意見は通りません。

そうした諸々もあってフィリップはスペインにいるのを嫌がり理由をつけてフランドルへ帰ってしまいます。

ところが、この頃のフアナは4番目の子を妊娠中。そんな妻を1人残して帰国したため、フアナの精神状態や体調は悪化しました。

そんな体調の娘を夫の元に返すわけにもいかず、スペインに留まるようイサベルは訴えましたが、4番目の子フェルナンド(ドイツ語でフェルディナント)を産んだ後に息子を祖父母の元へ置いてフランドルに戻って行きます。

結局、体調が悪化したフアナに育てることもできないし…ということで、フェルナンドはそのままスペインで13歳まで祖父のフェルナンド2世の下に育てられました。

なお、この後にも1505年にマリア、1507年にカタリナと最終的には二男四女の子供に恵まれています。

 

母・イサベル1世の死とフアナの即位

イサベル1世はカスティーリャの後継者としてフアナを指名しつつもフィリップの政治能力の無さを見抜いて、自身が死んだ後は

「娘フアナと夫のフェリペをカスティーリャの後継者として認める」

としたのと同時に

「統治困難な場合は(フアナの長男)カルロスが成人するまで(フアナの)父フェルナンドが摂政となること」

を遺言に残していました。

1504年11月にイサベル1世が実際に亡くなり遺言の内容がわかると、フィリップはあの手この手でフアナを懐柔しようとしました。過去にはスペインで「妻は精神異常になっている」と散々言っていたにもかかわらず「フアナには何も問題はない」と言い始めます。

そのようなフィリップみたいなタイプの方が「御し易い」と考えた一部のスペイン貴族の中から彼を持ち上げようとする者も出始め、当然フェルナンド2世とフィリップは険悪に。あわや内乱かというほど混乱に陥りました。

 

夫フィリップの死

結局、フェルナンド2世は「国王」の名前だけフアナに渡し、娘夫妻をフランドルに戻して実権を握る方に舵をきりました。内乱にならないうちに抑え込んだのです。

そんな状況下で、スペインにまだ滞在していた1506年にフィリップが突如死亡。

直前までスポーツをしていた後に急激に体調変化を起こし死に至ったため毒殺が疑われています(水に当たったとも言われており実際のところ不明)

 

狂女フアナ(wikipedia)より

 

あれだけ夫に執着していたフアナですから、この死には到底耐え切れるものではありませんでした。いつか目覚めると信じて夫の埋葬はさせず、遺体の入った棺を馬車で運びカスティーリャ中を巡礼し狂女フアナとして知られるようになったのでした。

 

女王フアナの幽閉

正気を失ったフアナ。1508年には父によりトルデシーリャスのお城で、夫の死後に生まれた末娘のカタリナと侍女とだけ会うような環境に幽閉されました。

調子の悪い時にフアナの状態を臣下達に見せ、自身が国王代理として正統だと示していました。この後はカスティーリャ女王の名前をフアナが冠したまま、父が政治に携わることになります。

この幽閉や狂女フアナとして扱われたことは、実権を握りたかった父フェルナンド2世が裏で糸を引いていたのではないかという話もありますが、真相は分かっていません。

その父も1516年には死去。イサベルの遺言通り、カルロスがカルロス1世としてスペイン王に即位したのでした。

こうしてカスティーリャとアラゴンは完全に一つの国として成立。

後に、神聖ローマ帝国皇帝で父方祖父のマクシミリアン1世の死去により新たな神聖ローマ皇帝として選ばれると、カルロスはスペインだけでなく神聖ローマ帝国も治める巨大帝国の統治者になりました。

 

フアナはカルロスがスペイン国王として即位した後も女王を名乗りながら幽閉生活を続け、1555年に享年75歳で息を引き取ります。

カルロスは即位後も母を幽閉してはいましたが、戦争が終わると母に顔を見せ、度々見舞っては気遣いを見せていました。母が亡くなる頃のカルロスも既に結構な年齢。持病の痛風を抱えながら戦争続きでヨーロッパ中を転戦していたことに母の死も重なって退位を決意します。

スペインとフランドルを息子のフェリペ2世に、父方のハプスブルク家から受け継いだオーストリアと神聖ローマ帝国は弟フェルディナント1世(フェルナンドのドイツ語読み)に譲り、両国はスペイン・ハプスブルク家による統治とオーストリア・ハプスブルク家に分かれ、それぞれの歴史を歩むことになったのです。

 

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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