征服王ってどんな人?メフメト2世の治世【オスマン帝国史】<人物伝>
前回は、オスマン帝国の始まりについて語りましたが、今回はいよいよオスマン帝国の最盛期を築こうか…という頃のお話です。
16世紀頃の最盛期を築いたとされるスレイマン1世は有名ですが、それ以前にビザンツ帝国を滅ぼし地中海交易の中心地を手に入れたメフメト2世がオスマン帝国を名実ともに帝国に成長させています。
今回はこのメフメト2世について、まとめていこうと思います。
メフメト2世ってどんな人?
メフメトは1432年に、エディルネの宮殿でオスマン帝国皇帝の父ムラト2世と母ヒュマ・ハトゥンの間に誕生しました。ヒュマ・ハトゥンは父がキリスト教徒の奴隷出身です。後代の史料によると、フランス人あるいはイタリア人だったとの記述があるとされています(あくまで一説です)。
メフメトが生まれたエディルネはバルカン半島に位置する都市のため、キリスト教世界とも近く、イタリアをはじめとするヨーロッパ諸国の商人、知識人、外交官などが多数いるような国際都市だったそうです。
そうした環境で育ったためか、後々メフメトはイスラーム世界だけでなくルネサンスを迎えた西欧の文化などに深く興味・関心を持つようになっていきます。
11歳になると、二人の養育係らと共にスルタンの後継者になるためアナトリア西部の要所マニサの太守(知事のようなもの)の任務に就くことに。武芸を好んだメフメトでしたが、マニサで指導を受けていくうちに教養までも身につける素養を持ったのでした。
メフメトの即位(在位:1444-1446年、1451-1481年)
父のムラト2世は文化人の気質があり、12歳と若年の息子メフメトに大宰相を補佐につけた上で帝位を譲ったのですが、この生前退位を好機と見たハンガリーとポーランドの連合軍やワラキア(現ルーマニアの一地方)がオスマンに侵攻しています。
この対処のために大宰相がムラト2世の復位を求め、実際に大宰相の望み通りムラト2世が対処することになりました。メフメト2世が再度スルタンとなったのは、父王が崩御した後です。
その際、メフメト1世が最初に行ったのが幼少の弟の絞殺でした。ウラマーと呼ばれるイスラーム法を学んだ法学者たちに兄弟殺しに法的効力があることを認めさせ無罪とさせています。こうして、2度目のメフメト2世の即位以降、オスマン帝国では兄弟殺しの慣習が定着していきました。
ちなみに、メフメト最初の即位の際につけた大宰相はウラマーの出で、この頃のウラマーは少しずつ貴族化しはじめています。
ウラマー階層 vs. カプクル(宮廷奴隷)
ウラマー出身の大宰相は、変わらず反メフメト2世のまま。というのもメフメト2世は周囲の反対を押し切って、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに狙いを定めていたためです。
大宰相は過去のスルタンたちがコンスタンティノープルへ侵攻し失敗していたこともあって反対していました。この段階ではビザンツ帝国から貢納を受け取っていたため、潰す必要まではないと考えていたようです(ビザンツやヴェネツィアの交易の利権を持っていたという話もあるそう)。
一方でメフメト2世から大宰相を見ると・・・
過去に自分を軽んじた人物であるだけでなく、大宰相の家柄はオスマン朝初期の超有力家門でかなりの発言権を持つようになってきており、オスマン朝が王家を中心としてウラマーら貴族階層が力を持つ連合政権となるか否かの局面における重要人物という見え方もできます。
この頃にはデヴシルメ制度で育てられた優秀な奴隷たち、カプクル(宮廷奴隷)と呼ばれる存在が宮廷内で力を持ちはじめ、スルタンの専制君主制に移行することも可能な状況になっていました。元々奴隷の立場から選抜され、激しい競争の元で生き残り教育を施された者達ですから非常に優秀な者が多かったのです。
※デヴシルメ制:アナトリアやバルカン半島のキリスト教徒の子弟を改宗させ教育・訓練→軍人としてスルタン直属の奴隷となった。コンスタンティノープル陥落後は軍人に留まらず、宮廷侍従や官僚などにも登用されている。
そうした背景があったため、両者は最期まで打ち解けることはなかったと言われています。
- イスラーム世界における奴隷の扱いとは?
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現代の私たちが想像する過酷な労働に従事したイメージと異なり、一定の権利が保障されています。
例えば、オスマン帝国のイェニチェリという歩兵集団は、元々キリスト教徒の奴隷軍だった者から選抜された者達が改宗と訓練を経て、忠誠心の篤い少数精鋭の皇帝直属軍になりました。
この徴兵制度をデヴシルメ制と呼びますが、軍人に限らず、その後は宮廷侍従や官僚、地方官も育てられ登用されていくことに。
また、家内奴隷と呼ばれるハレム内の女奴隷や宦官なども様々な相応しい教育を施されました。
女奴隷の場合は、宮廷での振る舞いだけでなく、読み書き、刺繍、手芸、音楽、ダンスと多岐にわたる教育を施されており、その中でも将来有望な女官がハレム内の高貴な女性に仕え、スルタンの妻や妾候補に挙げられていったようです。
そこから妻や妾となり、子がスルタンとなれば、母后となってハレム内の実質的な統括者になることもでき、宮廷外にも権勢をふるえる存在になることも出来ました。
奴隷の中でも才覚のある者達は教育が施され、出世の道が残っていたのです。
※ハレムの制度自体は、メフメト2世の代から徐々に整えられていきました。
コンスタンティノープルの征服(1453年)
反対を押し切ってビザンツ帝国を攻め込んだメフメト2世。
若干21歳の若い王は、精強なビザンツ海軍に苦しめられながらも大胆で奇抜な計画により1000年以上続くビザンツ帝国の帝都コンスタンティノープルを落とすことに成功させます。
コンスタンティノープルは陥落後、イスタンブルと改称され、オスマン帝国は名実ともに帝国となっていきました。この功績から、メフメト2世は『征服王』と呼ばれています。
ちなみに、コンスタンティノープルを陥落させた後、反メフメト2世だった大宰相の一族は処刑・粛清されています。これを機にオスマン帝国では専制君主制が確立されたとする見方もあるようです。
ビザンツ帝国滅亡後の征服王
二度目の即位後は30年という長い期間を統治したメフメト2世。その後も軍事活動を続け、その治世下のほとんどを戦場で過ごしました。
ハンガリー、ワルキア、アルバニアといったヨーロッパ方面での戦いや、ティムール朝が衰退した後にイラン西方~トルコ東方にまたがるトルコ系遊牧政権の白羊朝(アク・コユンル)と戦った一方で、当時、地中海の覇権を巡ってイタリアのヴェネツィアとも戦いました。
この頃のオスマン海軍は、まだまだ発展途上ということで、ヴェネツィアとの間で起こった海戦では辛酸をなめさせられていましたが、徐々に追い詰めます。1479年には和平を結び、アドリア海東岸の占領地の一部をヴェネツィアに返却する代わりに、賠償金と毎年の貢納を受けることを約束しました。
以上のように、多方面で戦闘を続けたメフメト2世。
ヨーロッパへの影響力を見せつけていただけでなく、彼自身がルネサンス期のイタリア文化や古代ギリシアの教養を身につけていたこともあってキリスト教徒の中からもメフメト2世への信奉者が現われていたようです。
キリスト教への改宗を大前提としたうえでですが、ギリシア系の知識人の中には自らの著書の中でメフメトにローマを征服するよう呼びかけする者までいたと言われています。
が、本人に改宗の意思は当然なくイスラーム世界の皇帝としてふるまい続けたのです。
そんなメフメト2世でしたが、目的地を極秘としたまま東の方角へ遠征に向かった途中で腹部に異常を感じ、イスタンブルに近い現在のゲブゼで腸閉塞が原因で死去。カルタゴの英雄ハンニバルやコンスタンティノープルの名前の由来となったコンスタンティヌス大帝が死去したのと同じ地でその生涯を終えることとなりました。
元々、異教の地であったコンスタンティノープルを支配下に置き、さらに他宗教の者も臣下に組み込みながら軍の体制を強化。オスマン帝国の版図を一気に広げたスルタンとして名を残したのです。