ヨーロッパ

オスマン帝国以前のトルコにあった国の変遷を見てみよう【各国史・地域史】

歴ブロ

今回はアナトリア(小アジアとも)という地域の歴史に焦点を当てていこうと思います。

アナトリア半島は海に面した地域には平野もありますが、基本的に高原が多く東部に至っては5000m越えの山岳地帯もある地形です。ティグリス・ユーフラテス川の源流となっています。

降水量は少なく農業はあまり適していません。ヒツジやヤギといった牧畜が盛んに行われています。

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現在のトルコという国

実を言うと地域区分の仕方によってヨーロッパとも中東ともアジアとも区分される少々ややこしいお国です。

地理的にはギリシアのあるバルカン半島も含んでいることからヨーロッパに含まれてもおかしくない。宗教的にはイスラム教で中東に含んでも不思議じゃない。民族的には…元々がモンゴル高原からやってきたため完全にアジア系。

民族でいえばハンガリーのような国もモンゴル系と言われるマジャール人がメインだけど、ハンガリーをアジアの国家と言わないように確実に言い切ることが出来ません。

場所的には北に黒海、西にエーゲ海、南に地中海に囲まれたアナトリア半島に位置し、国境を接する国としてはシリア、イラク、イラン、アルメニア、ジョージア、ギリシア、ブルガリアなどがあります。

古代アナトリア半島の歴史

最初の強力な国家ヒッタイトの成立

時は紀元前20世紀の初めまで遡ります。この頃はヒッタイト人と呼ばれる人たちがアナトリアに移動してきました。彼らが力を持つとやがて紀元前17世紀頃にはヒッタイトと呼ばれる強力な国家を作るようになっています。

ヒッタイトは最初に製鉄行った国として有名(実際には2019年にヒッタイト以前に製鉄を行った可能性のある遺跡が発見された)です。紀元前16世紀に入るとメソポタミアの北部やシリアにも進出し時にエジプトとも争いました。

紀元前14世紀には最盛期を迎えますが、紀元前12世紀頃に突如出現した『海の民』の攻撃により衰退。

前1200年頃のオリエント世界・変遷図

ヒッタイトの最盛期にはまだメソポタミアの小国だったアッシリアが紀元前8世紀頃になると、かなり成長しておりヒッタイトを完全に滅亡させました。やがてアッシリアがアナトリア半島の付け根部分にあたる一部を支配し、地中海や黒海にせり出した地域ではフリギア王国を筆頭とした小国家群が形成されていきます。

紀元前1000年頃のオリエント世界・変遷図

アッシリアはその後エジプト~メソポタミアまでの広い範囲を征服しました。

紀元前7世紀頃の地図

アッシリアの後に出来た4つの国とは?

紀元前7世紀末になるとアッシリアが滅亡。新バビロニア、メディア、リディア、エジプトという4つの国に分かれ対立する時代に突入しました。

紀元前600年頃のオリエント世界地図・変遷図

アナトリアに出来たリディア王国は小国家群の一つが成長してできた国で、史上初めて金属貨幣を鋳造し経済的にも大いに繁栄しました。

そんな中でメソポタミアの更に東側のメディア王国の中からアケメネス朝ペルシアが起こり成長してくると、アナトリア・エジプト・シリア・メソポタミアを含むオリエントと呼ばれる地域全域を統一。

都のスーサからリディア王国の都サルディスまで「王の道」と呼ばれる道路が整備されています。

大帝国の登場

アケメネス朝をはじめとして、紀元前500年前後辺りからはアナトリア半島含む北アフリカ~メソポタミア、イラン高原…あるいはそれ以上に広がるような大帝国が複数出来上がっていきました。

アケメネス朝ペルシアとペルシア戦争

初代が開国してから三代でここまで大きくしたアケメネス朝ペルシア。アケメネス朝では交易を重視し、地中海貿易に活躍したフェニキア人や砂漠での交易に長けたアラム人の保護も行っていたと言います。

紀元前500年頃のオリエント変遷地図

この貿易を重視するにあたり、アケメネス朝が重視したのがイオニア地方と呼ばれる地域です。

少し見えにくいので拡大した地図を。このイオニア地方はエーゲ海を挟んだお向かいのギリシア人が多く住む植民市が建設されていました。ここをアケメネス朝が支配しますが、重要拠点だったため、どうしても締め付けがきつくなってしまいます。

ペルシア戦争

そのため、イオニア地方で反乱が勃発。ギリシアも近くの大国による圧力からイオニア植民市による反乱へ支援したため、ペルシア戦争に発展しました。

この時はギリシア勝利に終わっていますが、この戦争で力を蓄えたアテナイ(アテネ)と呼ばれるポリスを危険視した他のポリスが同盟を組み(アテナイも同じく同盟締結済み)ぺロポネソス戦争が勃発。ペルシアはこれを煽っていたと言われています。

アレクサンドロス大王による大帝国の成立

紀元前5世紀末までギリシアの南部がゴタゴタしていた頃。ギリシアの北部にあるマケドニアはペロポネソス戦争に参加せず、国力を高めていきました。

そして、とうとう紀元前4世紀後半、マケドニアに生まれたアレクサンドロス大王が誕生。エジプトの占領だけにとどまらずアケメネス朝を破り、バルカン半島~中央アジアまでの非常に広い範囲を統治下に置いたのでした。ちなみに遠く離れたインドまで遠征しています。

アレクサンドロス大王

ところが、次の遠征先を計画している中で32歳の若さで亡くなります。死因は酒の飲み過ぎとも蚊によって伝播する感染症とも言われています。

セレウコス朝~ローマ帝国の出現

若くして突然の死だったため、アレクサンドロス大王は後継者を指名していませんでした。崩御と共に大帝国は後継者争いに突入します。

  • プレトマイオス朝エジプト
  • セレウコス朝シリア
  • アンティゴノス朝マケドニア

このうち最も広大な領地を持っていたのがアナトリア半島を含むセレウコス朝でした。
これらの国々を滅ぼしたのが古代ローマです。

ローマ帝国とパルティア

ローマ帝国はどちらかと言えば西アジアや中東よりもヨーロッパ方面へ広がっていったため、上の地図では狭く見えますが、かなり広大な領土を支配しています。その古代ローマの東側のイラン高原に出来ていた大国パルティアとはメソポタミアを巡って対立しました。

やがて4世紀に入ると、東にいるフン族が西進。玉突き状にゲルマン民族がローマ帝国に流入。大混乱に陥り、最終的に二つのローマ帝国に分裂。西ローマ帝国ビザンツ帝国(東ローマ帝国)に分かれることになりました。

アナトリア半島は東ローマ帝国に支配され、3世紀初めに建国されパルティアの領土をほぼそのまま踏襲したササン朝と対立を続けています。

両者の対立はアナトリア~イラン高原を通る交易ルートを通りにくくさせたため『黒海~南ロシア経由で中央アジアへ向かうルート』や『紅海~インド洋に出ていく海上ルート』など新たな交易ルートでの行き来を活発化させることとなりました。

その結果、アラビア半島が栄えることとなるのですが…

アラビア半島では交易の活発化に伴い貧富の差が拡大。社会の分断が起こり社会的に行き詰まる人々が多数生まれ、救いを求めるように。

ちょうどこの頃、アラビア半島西部のメッカで生まれたムハンマドが唯一神アッラーの言葉を受け取りイスラム教を誕生させています。

社会的背景もあってアナトリア半島のすぐ近くではイスラム教が一気に広まることとなったのです。イスラームの目指すところに共同体『ウンマの建設が挙げられます。そのために努力して戦おうというジハードが行われ、アナトリア半島を統治したビザンツ帝国もイスラーム勢力との戦いを余儀なくされました。

こうして6世紀にはイベリア半島まであったビザンツ帝国の領地が、かなり縮小したのでした。

ビザンツ帝国(東ローマ帝国)とイスラム勢力

イスラームとの対立が度々起こったビザンツ帝国。

その困難な状況下でビザンツ帝国は国教として庇護下に置いたキリスト教会五本山の一つ・コンスタンティノープル教会の信仰をイスラム教の教義と折り合いをつけながら共生する道を選び、9~10世紀に再び勢力を回復させました。

10世紀ごろのイスラーム世界

一方で本来同じ宗教だったはずのローマ教会との溝が深まり、断絶するまでに至っています(イスラム教とキリスト教も元が同じ宗教から始まったものなので共通点がありました)

二つの教会が断絶状態になったのと同時期、ビザンツ帝国はヨーロッパの北側からやってきたノルマン人に侵入され支配していた南イタリアを失うと、これを機にどんどん衰退していくこととなります。

トルコ系民族の進出

ビザンツ帝国よりもう少し東に目を向けてみると、遠い昔はモンゴル高原にいたはずのトルコ系民族が中央アジアやイラン・イラクにまで進出してきていました(民族に焦点を当てた記事は別口で書く予定です)

彼らの特徴である体格の良さなどから戦闘に適しているとも言われ、次々と勢力を拡大していきます。彼らは西アジアに近付いて来るにつれてイスラム教を信仰するようになりました。

そのトルコ系民族が中央アジアのカラ=ハン国を筆頭にイスラム教の様々な国を建設。その中の一つ...現在のイランやイラクの辺りに出来たセルジューク朝という国が11世紀半ばに入るとアナトリア半島にまで進出していきます。

イスラーム諸王朝とキリスト教国家

こうしてセルジューク朝はビザンツ帝国の領地を削っていきますが、その後、セルジューク朝が分裂。地方政権が乱立すると、ルーム=セルジューク朝がアナトリアを支配しています。

イスラーム勢力に自国を削り取られる危機を目にして、ビザンツ帝国は過去に断絶していたはずのローマ教会へ軍を要請し助けを求めました。

が、仲の悪さが更に悪化。本来なら対イスラム勢力を目指して侵攻するはずなのに四回目の十字軍はビザンツ帝国のコンスタンティノープルを占領するという訳の分からない状態に。結果、ラテン帝国などの十字軍国家の他、ビザンツ帝国の皇族たちが亡命して出来た国が多数出来上がっています。

新たな国が出来上がった一方で、以前からアナトリア半島で最も存在感があったはずのルーム=セルジューク朝は国内有力者(ベイ)による小さな侯国が乱立し始めており、完全に低迷期に入っていました。

この頃に出てきたのがエジプト~シリア、紅海沿岸までを支配していたアイユーブ朝をクーデターで倒してできたマムルーク王朝マルムークとはイスラーム王朝に仕えたトルコ人を中心とした奴隷兵士のことでアイユーブ朝は軍事力強化のためにかなりの人数を購入していたのです。

このマルムーク朝が一時期アナトリア半島の一部も支配するようになっています。

なお、この頃は13世紀。モンゴル帝国が東から侵攻し、西アジアまで勢力を拡大していた時期にあたります。中小勢力をまとめる勢力もなく、モンゴルの侵入もあって大混乱でした。

が、そんな最中...ルーム=セルジューク朝のベイによってつくられた小さな侯国・オスマン侯国にオスマンという有力者が現われたことで、アナトリア半島の歴史は大きく変わり始めたのでした。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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