第四回十字軍遠征
第一回十字軍と並んで、かなり有名な遠征なので詳しく見ていこうと思います。
第四回十字軍が行われたのは1202年から1204年にかけてのこと。教皇権の絶頂期にあたるインノケンティウス3世の提唱がきっかけで始まっています。
第四回十字軍の大きな特徴と言えば、
- 国王が参加せず主にフランスの諸侯らのみの参加であったこと
- 輸送をベネツィア(都市)に依頼したこと
そして・・・
同じキリスト教国家であるビザンツ帝国を攻め込んだこと
が挙げられます。
なぜ、第四回十字軍遠征では「何故こういった行動に繋がったのか?」を中心に、どんな遠征だったのか詳しくまとめてみます。
第3回十字軍までの経緯
実を言うと、第4回十字軍で特別な行動をとった訳ではなく、それまでの第3回までの遠征でビザンツとの諍いのタネは出来上がっていたので、同じキリスト教国のビザンツに攻め込んだのは不思議でも何でもありませんでした。初っ端の第一回十字軍遠征の時点でかなり関係は悪化しています。
その悪化原因を簡単にまとめてみると...
こんな感じです。従軍に不慣れな民衆十字軍に不信感を抱いたビザンツ皇帝が十字軍本隊に対しても猜疑心を持ったために対立が深まっていきます。
十字軍に参加した諸侯達は理由をつけて陥落させた土地を王として治めた=『(ビザンツ帝国にとっては)約束を反故にした』ことになり、関係悪化に繋がったようです。その後も十字軍遠征とは関係なしに、その諸侯達が作った国とビザンツ帝国は度々ぶつかり合っています。そんなことが続くうち、ビザンツ帝国はイスラム王朝との関係が安定し「十字軍には遠征して欲しくない」と考えるようになっていました。
ところが、第一回十字軍で得たエデッサ伯国がザンギー朝に滅ぼされたことで、西側は第2回十字軍遠征を決定。エデッサ伯国ともぶつかっていたビザンツ帝国は、当然ながら協力することはなく、更に両者の間にますますヒビが入りました。
なお、この辺りの時期から、シリア=パレスチナでは第1回で戦ったセルジューク朝がその勢力を後退させてサラディン率いるアイユーブ朝が台頭しはじめます。
第3回の遠征では、このアイユーブ朝によりイェルサレムを落とされたことから聖地奪還を目的に十字軍を再結成。ところが、この遠征の時にはビザンツ帝国とアイユーブ朝が結び、ビザンツ皇帝のイサキオス2世により十字軍は敵対行為を取られていたと言います。
こういった経緯から十字軍はビザンツ帝国との仲はかなり険悪になっていました。
第4回十字軍は方針がブレブレだった?
第4回十字軍遠征を呼び掛けたのはローマ教皇・インノケンティウス3世でしたが、彼が教皇として即位したのは遠征の4年前の1月のこと。
そのインノケンティウス3世は即位半年後の夏頃には十字軍を招集しています。ただし、第3回十字軍遠征まではビザンツ帝国や聖地、十字軍国家による救援要請があったのに対して、第4回遠征時での聖地は小康状態で安定していたため、教皇側の意図はハッキリとしていません。
非常に組織的な動きを見せた召集で、これまでの自費での参加だったものを(国王たちは十字軍参加に対して税を集めていますが)初めて教皇側からも財政に関与しています。
ところが、集まったのは北フランスを中心とした諸侯や騎士達のみ。予想の3分の1程度の人数だったと言われています。そんな感じで第4回十字軍遠征は少々幸先の悪いスタートとなりました。
十字軍の最初の計画と途中変更した計画とは?
十字軍のメンバーとしては当初の計画は、イェルサレムを抑えているアイユーブ朝の本拠地「エジプトのカイロを海路から攻撃しよう」というものでした。
計画には船が欠かせませんから、十字軍はヴェネツィアに船で輸送してもらう契約を取ることに。ところが、人数があまりにも少ない上に国王の参加もなく資金不足に陥ります。
そこで、ヴェネツィアによる提案
を実際に行動に移し、ザラで足りない分を補填しようとしたのです。
ハンガリーのザラは思いっきり西側のキリスト教の土地だったので、教皇は大激怒。ザラに攻撃を加えた十字軍を破門にしています。
そんな中、ちょうど似たような時期に
十字軍内ではビザンツ帝国の首都・コンスタンティノープルを攻めようというとんでもない計画が立てられ始めていたのでした。
ビザンツ帝国の内部事情
第4回十字軍の遠征が行われていたのは1202年からになります。
それまでにビザンツ帝国ではいくつかの大きな動きがあったので、ちょっとだけ確認を。
【ビザンツ帝国の動き】
12歳の息子が皇帝位に就き、母が摂政を務める。親カトリックを貫き徐々に周囲の不満が募るように。
マヌエル1世の息子と共に共同統治するも2か月後には殺害した。
ビザンツを立て直すために強引に改革を進めたものの貴族層や大地主層から反発が強まった。次第に先帝を殺した負い目もあって高圧的になり、民衆の支持も失う。カトリック教会や西欧人に対する弾圧もあったと言われている。
対外的にも領土を失っており、不満が増大。
1185年に即位し、アンゲロス朝が始まる。 対外政策では難しい判断が続き、弟と対立。
兄を幽閉し、実権を手に入れるも失政が続く(後に兄は盲目にさせられています)。神聖ローマ帝国からの圧力に屈し、膨大な献納金を納めた。
この後、財政再建を目指して交易の利害を優位にさせるため、良好関係にあったヴェネツィアとの関係を悪化させる
神聖ローマ帝国にいる義兄のシュバーベン公フィリップの元へ亡命した
資金の提供と教会の東西統一を条件に、十字軍によるコンスタンティノープルへ侵攻と父親のイサキオス2世奪還を目指す
このように、幽閉された父を助け出すべくビザンツの皇子が西側へ亡命していたのです。この人物の存在もまた、第4回十字軍がコンスタンティノープルへ向かう大きな理由となっていました。
なお、コムネノス朝のアンドロニコス治世下での西欧人に対する弾圧と絡んで、コンスタンティノープル在住のローマ=キリスト教徒がギリシア人正教徒により虐殺される事件【ラテン人虐殺】が発生しています。この出来事が後々復讐を生むことに。
実際の十字軍遠征
実際に十字軍がコンスタンティノープルへ着いたのは、1203年のこと。神聖ローマ帝国にいたビザンツ帝国の皇子・アレクシオス4世を皇位に着けることを要求しますが、拒否されたため開戦しました。勢力図としては以下のようになります。
コンスタンティノープルは中東の他の都市と同じく強固な城壁を持った都市ではありましたが、ヴェネツィアの豊富な海軍力を活かした攻勢により十字軍優位に戦を進めます。同時に陸路からはフランス騎士隊が攻撃をしかけています。
この攻防の末にアレクシオス3世が逃げ出すと、残されたコンスタンティノープル市民達がイサキオス2世を助け出し城門を開け第一回目のコンスタンティノープル包囲戦を終えています。
アレクシオス4世の即位
元々十字軍が皇位継承を訴えていたアレクシオス4世は単独で即位せずに、幽閉されていた父・イサキオス2世と共同統治という形でビザンツ帝国を治めていくことになります。
ところが、実際に即位したところ
「コンスタンティノープルで自分が即位し父を助け出せた時には援助をする」
という十字軍との約束を果たせるだけの国庫がありませんでした。
追放したアレクシオス3世がヴェネツィアとの関係を悪化させた理由が「財政難をどうにかするため」ですから国庫が火の車状態なのは明白なのですが...
後世、外野だから言えるのであって、本人はその地位に就くまで分からなかったようです。現代日本でもちょっと前に似たような内容を聞いた気がします。確かじゃない約束はするもんじゃありませんね。
とにもかくにも、金の切れ目が縁の切れ目。十字軍とアレクシオス4世の間には少しずつ隙間が出来始めます。
また、ビザンツ帝国の皇帝が「教会を統一する」といったところで、ビザンツ帝国はあくまで教会を庇護しているだけ。本家本元のコンスタンティノープル教会が統一に大反対していたこともあって、アレクシオス4世は少しずつ追い詰められていきます。
コンスタンティノープルでの反乱
一方でアレクシオス4世は十字軍に渡すお金を工面するため、国民や貴族に対しての税負担を上げて約束を守ろうと努力もしていました。
が、国民からすればアレクシオス4世は西の傀儡皇帝に過ぎず、その傀儡皇帝が自分達に対して大きな負担を強制しているように思えてしまうわけです。
そのうち、親十字軍のラテン人と反十字軍のギリシア人同士が対立。トラブルが発生し対立は何か月も続きました。立て直しを図ろうとするアレクシオス4世でしたが、皇帝となった経緯が経緯だけに反発を喰らいます。
そんな時に動いたのが...
アレクシオス5世です(当初はムルヅフォロスという名前)。アレクシオス3世の娘婿に当たります。
イサキオス2世とアレクシオス4世を殺害し、アレクシオス5世を名乗りビザンツ帝国のトップとなりました。ここで十字軍とビザンツ帝国の対立姿勢が改めて確立したのです。
第二回コンスタンティノープル包囲戦の開戦
戦いが始まった当初はビザンツ帝国の方も上手くやって十字軍が苦戦していたのですが、コンスタンティノープル内にはヴェネツィアの居留民が多数住んでいたのが祟りました。このヴェネツィアの居留民たちがビザンツ帝国への抵抗を始めています。
さらに天候の変化で十字軍有利な風向きに代わり、船を都合の良い位置に置くことに成功。コンスタンティノープルの城壁を突破し、城壁にも穴をあけることができました。
ビザンツ側は火を放ち、混乱に乗じて十字軍を退けようとしますが・・・市街地が焼け落ちる被害が主で、十字軍を追い返せず思った通りの結果は出なかったようです。
流石に、ここまで侵入されると為す術もなくなり、アレクシオス5世はコンスタンティノープルを脱出。ここに十字軍の手でコンスタンティノープルが陥落することとなります。
ラテン人虐殺の件で十字軍はじめ西側には東側へのフラストレーションがたまっていた中で『アレクシオス4世の即位』という大義名分も失えば、ビザンツ帝国への遠慮も必要なくなるわけでして...
何となく酷いことになりそうという想像通り、十字軍は略奪と暴行の限りを尽くしたのと同時に、ラテン人も過去の弾圧・虐殺の報復として略奪行為に走っています。
※なお、ヴェネツィア人も略奪には参加することもあったそうですが、トップのエンリコ=ダンドロの統率力もあって十字軍程酷いことにはさせていません。主に宗教的な美術品を持ち出していたようです。
コンスタンティノープル陥落で起こった変化とは?
コンスタンティノープルが陥落した後はいくつか大きな変化が現われます。ここでは簡単にまとめてみようと思います。
十字軍国家とビザンツの後継国家の成立
十字軍によるラテン帝国が建国た他、ビザンツ帝国の元領土をヴェネツィアや主要な諸侯達で分割しています。一方でビザンツ帝国から脱出した皇族たちも近隣に国を作りました。
十字軍国家は各々が利益を追求した結果出来た国であり、ビザンツ帝国のようにまとまりのある有力国家になることはありませんでした。近隣のビザンツの後継国家や現地の反乱などで安定せず、多くが短命政権に終わります。
第5回以降の十字軍への影響
第四回十字軍遠征ではローマ教皇の呼びかけによって行われたにもかかわらず、ヴェネツィアやビザンツ帝国皇子の意向が大きく反映されました。
結局、責任を取らなくて済むような形でローマ教皇はフェードアウト。後は十字軍の好きなように動いており、教皇の制御が効かなくなっていったのです。こうして、これを機に第5回以降の十字軍は王や諸侯の思惑が大きく反映されるようになります。
なお、この様子を見た第1回十字軍遠征後に建てられた、当時現存していたシリアの十字軍国家は「こりゃ助けに入ってくれることはないな」と諦めの境地に。アイユーブ朝との休戦条約を伸ばしたということです。
ヴェネツィアの制海権獲得
ヴェネツィアは、コンスタンティノープルの一部とクレタ島などの地中海の島々を獲得したことで制海権を得ることに成功。元々、頭脳派な陣営だけあって巧みな外交努力によって長い間その制海権を握り続けています。
このような形で同じキリスト教内部からも悪名の高い第4回十字軍遠征は幕を閉じたということです。