イスラーム帝国の形成と分裂【7世紀後半~10世紀】<中東の歴史>
ムハンマドの死後、アブー=バクルをカリフに選出するとカリフの指導の下で大規模な征服活動...いわゆるジハードを行うようになりました。
東方ではササン朝を滅亡させ、西方ではビザンツ帝国からシリアとエジプトを奪って多くのアラブ人達を移住させています。この移住した地でやがてウマイヤ朝と呼ばれるイスラーム史上初めてカリフの地位が世襲化された王朝が出来上がりました。
今回はそのウマイヤ朝の誕生と、続いて出来たウマイヤ家よりもムハンマドの家系に近いアッバース朝の誕生、さらにこれらのイスラーム王国の分裂までをまとめていきます。
ウマイヤ朝の誕生(661~750年)
預言者ムハンマドの死後は、同族でムハンマドと近い人物たちがカリフとなっています。
そのアブー=バクルから始まる4人のカリフを「正統カリフ」と呼びますが、正統カリフ第3代目のウスマーン(在位644-656年)と最後の正統カリフであるアリー(在位656ー661年)の二人が対立の結果暗殺されています(第二代のウマルも刺殺されています)。
ジハードが行われるにつれカリフ権が強大になると、その継承権を巡って共同体の内部対立が起こっていたためです。
その結果、アリーと敵対していたメッカの大商人ウマイヤ家の頭領でシリア総督のムアーウィヤが661年にダマスクスにウマイヤ朝を開いたことでイスラム史上初めて世襲の王朝が誕生したのです。
王朝の誕生によってようやく政治的混乱は収拾することができ、やがて領土を拡大していきました。
東方では中央アジアのソグディアナやシンド(西方インド)、西方では先住民族のベルベル人を排除して北アフリカを征服。さらに711年にはイベリア半島(現在のスペインの辺り)に進出し西ゴート王国を滅ぼしました。
西ゴート王国が滅ぼされた後のイベリア半島は、その後800年に渡りイスラーム政権が存続。イベリア半島ではキリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)が行われることになります。
その後、フランク王国にも度々侵入したものの732年のトゥール・ポワティエ間の戦いで敗れるとピレネー山脈の南に退きました。
こうして広がっていったウマイヤ朝でしたが、帝国の支配者集団を形成したのはアラブ人達で配下の異民族とは異なる特権を持っていました。中でも代表のカリフの権限は征服地が拡大するにつれて強大なものになっていきます。
国家財政の基礎となる地租(=ハラージュ)と人頭税(ジズヤ)は征服地の先住民にのみ課せられたもの。彼らは例えイスラーム教に改宗したとしても税から逃れることは出来ず、アラブ人の中からも「排他的な支配なのでは??」という疑問が持たれるようになりました。
※新たな改宗者をマワーリーと呼ぶ
というのも『コーラン』には「すべての信者は平等である」と説かれていたためです。
アッバース朝の誕生(750-1258年)
コーランの内容と異なるウマイヤ朝の支配に対して批判的な者が増えつつある中、イスラーム世界のトップに立つのは「ムハンマド家の出身者の方が相応しい!」と考える人たちが出始めました。
この流れに乗ったのがムハンマドの叔父の子孫・アッバース家です。
マワーリーやシーア派のムスリムの協力を得て秘密裏に打倒ウマイヤ朝の運動を開始します。
※シーア派とは・・・元々は第4代目のカリフであったアリーを支持する「シーア・アリー」と呼ばれる信者たちのことで血脈を重視しました。多数派は別の宗派のスンナ派。神から預かった言葉を記したコーランとムハンマドの言行(=スンナ)を記したハーディスを重視しています。現在では人口の約90%がスンナ派であり、当時もスンナ派が多数でした。
イラン東部で蜂起した革命軍がウマイヤ朝の軍を追って西方に進出すると、749年にはとうとう州都クーファに入城。750年には初代カリフとしてアブー=アルアッバースを推戴し、アッバース朝が開かれました。
が、アッバース朝も安定した政権維持のためにはシーア派ではなく多数派のスンナ派の宗旨を採用せざるを得ず、革命に協力的だったシーア派は弾圧され、ここからアッバース朝とシーア派には深い溝が生まれることになります。
なお、建国直後には東の大帝国・唐とタラス河畔の戦いに勝利。捕虜の中には紙職人がいたことで紙の作り方が西に広がる契機となりました。
そんなアッバース朝の難しい舵取りの中で土台を築いたのは第2代カリフのマンスール。新王朝の首都にふさわしい場所として肥沃な平野が広がるティグリス川西岸の小村であったバグダードを首都と定めると首都に見合った開発を行い、東西貿易路の結節点としました。
また、ティグリス川の両岸にはバグダード以外にも市街地が広がっていきます。各地の市場(スーク)にはイスラム世界の特産品の他、中国の絹織物や陶磁器、インド・東南アジアの香辛料、アフリカからは金や奴隷などが集まったと同時に、経済的に発展し国際都市に発展したことで知識人や技術者も集まるように。
また、租税庁、文書庁などの官庁を設けて書記を採用。更に諸官庁を統括する宰相(ワズィール)の位を創設し官僚機構の整備に努めるなど新体制を敷きました。
イスラーム法の解釈にあたるウラマーも様々な出身者により構成されており、各民族の特徴を生かした人材活用を行って500年も続く王朝となったのです。
イスラーム帝国の分裂
難を逃れたウマイヤ家のアブド=アッラフマーン1世は北アフリカからイベリア半島に渡ってコルドバを首都とする後ウマイヤ朝(756-1031年)を建国していました。
その経緯からアッバース朝とは政治的に敵対関係のままでありながらも学者たちによって東方の文化を吸収しつつ、10世紀初めにトップについたアブド=アッラフマーン3世の時代には最盛期を迎えています。
なお、後ウマイヤ朝はカール大帝時代(768~814年)のフランク王国とたびたび戦ったことでも有名です。
ウマイヤ朝の領域のうちイベリア半島以外の幅広い領域を支配したアッバース朝に話を戻すと、5代目カリフのハールーン=アッラシード(在位786~809年)の頃に最盛期を迎えていました。
この全盛期でバグダードの人口は100万人まで膨れ上がったのですが…
彼の死後の帝国内でエジプトやイランから新たな王朝が立ち上がると、カリフの権限が大幅に縮小されていきました。
10世紀初めの北アフリカではシーア派の中から急進的な一派のファーティマ朝が興り、969年にはエジプトを征服し、首都カイロを建設。アッバース朝により弾圧されていたシーア派が初めて建国した国家だけあって、建国当初からカリフの称号を用いて対立姿勢を見せています。
そんなファーティマ朝も前半期は紅海貿易の利益を享受しましたが、後半期に入ると幼いカリフが増え宰相の地位を巡る内部争いが勃発してところに十字軍に侵攻されて苦しめられるようになりました。
イランに目を向けると、もう一つシーア派の王朝ブワイフ朝(932~1062年)が誕生していました。ブワイフ朝はアッバース朝の首都バグダードを支配し946年にはアッバース朝から実権を奪うことに成功。
アッバース朝のカリフから大アミール(軍司令官たちの中の第一人者)に任じられるのと同時に、イスラーム法を施行する権限を与えられています。アッバース朝のカリフは完全にお飾りなだけの存在になってしまったのでした。