ドイツ以外で誕生した新たな宗派とカトリック教会の反撃【1523年以降】
ドイツで起こったルターによる宗教改革は他のヨーロッパ諸国にも伝わっていました。当時のドイツにあった神聖ローマ帝国を治めるハプスブルク家の支配下にあったスイスや海を隔てたイギリス(イングランド)も同様です。
今回は、その二か国で起こった宗教改革と、どんどん広がる新宗派に対する対抗策としてカトリック教会が何を行ったのかを探っていきます。
なお、旧教のカトリックに対して新たに誕生した宗派はプロテスタントと呼ばれるようになります。
スイスの宗教改革<カルヴァン主義>の誕生
ドイツに次いで宗教改革が起こったのはスイスです。
13世紀末、スイスの農民達はハプスブルク家による支配に対し、独自の同盟を築いて抵抗していました。ここに自由都市も参加してますます力を持ちはじめ、1499年には租税や裁判権に関して独立するようになります。神聖ローマ帝国支配下にあったスイスの自由都市・チューリヒもその一つでした。
ツヴィングリによる宗教改革
スイスでの宗教改革は、1523年にチューリヒの都市指導者・ツヴィングリがルターの『九十五か条の論題』から影響を受けて始まっています。彼の理念は『六十七か条の提題』に記されていました。
やがてツヴィングリの支持勢力とカトリック勢力は武力衝突に突入します。その結果、ツヴィングリはその武力衝突の中で戦死。後を継いだ人物はツヴィングリほどの影響力は持ちませんでしたが、チューリヒ以外の周辺諸州でも宗教改革は受け入れられるようになりました。
一方でカトリックを信仰したまま、あるいは2宗派を併存させる都市や農村も混在していたため、過去、神聖ローマに対抗するために築かれた同盟はバラバラになっています。
カルヴァン派の誕生
ツヴィングリにより始まったスイスの宗教改革は1536年、ジュネーヴにフランスのカルヴァンが立ち寄ったことで新たな局面を迎えました。
カルヴァンはフランス国内の大学で神学と法律を学んだ人物。
彼もまたルターの影響を受けており、同年『キリスト教綱要』を出版し、新教派の論客として注目されるようになっています。この神学書には、土台にルターの教えがありながらも独自の立場を表明。
神の意志の絶対性を強調し、人間の意志や善行の有無にかかわりなく救いと滅びは神によってあらかじめ定められている
詳説世界史研究 木村靖二・岸本美緒・小松久男編 山川出版
という教え、予定説を提唱したのです。
天職に励み、神を讃えて勤勉に生活することで神からの救済を確信出来るという考え方が広まります。さらに、まじめに働いたのであれば蓄財してもいいですよという清貧を理想とし蓄財を肯定していなかったキリスト教では革新的な教えも含んでいました。
世間から良い目で見られていなかった商工業者や勤労市民たちはカルヴァンの考え方を支持するようになります。
※ただし、カルヴァン派は贅沢を良しとしていたのではないため、生活自体は質素倹約です。
ヨーロッパではお金があっても使わないため『オランダ人=ケチ』のイメージがあるのですが、こうした宗教的な背景も隠れています。
こうして広まったカルヴァン派でしたが、教会は牧師と信徒の代表・長老により運営されています。いわゆる長老主義と呼ばれるものです。
長老主義による教会の運営は、君主に従うドイツの領邦内にある教会とは違った運営の仕方で牧師に強い指導力が必要になりました。そのため「ジュネーヴでは神権政治が行われていた」とする歴史家の方もいるようです。
カルヴァン派がヨーロッパ各国に…!!
ジュネーヴは宗教改革以前、司教の支配を受けていた都市です。自立のためにスイスの諸都市との連携を探っていました。
そういう背景もあってカルヴァン派は周辺諸都市が信仰するツヴィングリ派との対話と統合を進めていきました。この話し合いで統合が進んだスイス系のプロテスタントを総称して「改革派」と呼ぶことも多いようです。
この改革派…中でもカルヴァンの教えはスイスにとどまらず、16世紀後半になるとヨーロッパ中に広まっていきました。
- ピューリタン:イングランド
- ユグノー:フランス
- プレスビテリアン:スコットランド
- ゴイセン:ネーデルラント
他国では、以上のように呼称されています。
イギリス国教会の成立
続いて新しい宗派が誕生したのがイングランドです。こちらの新宗派は他の宗派とは成立の仕方が少し変わっていました。めちゃくちゃ政治的な思惑で登場しています。
1520年代には大陸からの亡命者ティンダル(1495~1536年)などを通じて宗教改革の教えや英訳聖書は広まっていましたが、現地で改革が起こるほどの影響力は与えられていませんでした。
そんな中で宗教改革を主導していったのがヘンリー8世でした。元々はカトリックに忠実なイングランド国王です。
イングランドの当時の状況は?
当時のイングランドはフランスとの戦い百年戦争や内戦のバラ戦争が続いて、ヘンリー8世の父の代でようやく落ち着きを取り戻し始めた時期でした。まだ足元は覚束なかった時期でもあります。
また、イングランドでは12世紀の無政府時代を引き起こした女王の存在により「女性が君主では務まらない」という意識があったとも言われています。
イギリス国教会の誕生
以上のような背景からヘンリー8世は「男児が欲しい」と嫡男を熱望。最初の王妃はスペインの王女でカトリック両王の娘、キャサリン・オブ・アラゴンでしたが、女児(のちのメアリー1世)は生んだものの期待していた男児が生まれず離婚を望むようになります。
ちなみに、ヘンリー8世が離婚を望むようになっていた当時のスペイン国王はカール5世。妻キャサリンの甥っ子です。宗教改革を抑えるためにもカール5世に気を使いたい教会はヘンリー8世の離婚と次の妃候補のアン=ブーリンとの再婚を強く反対します。
そんな経緯から教会と対立したヘンリー8世は国王至上法(首長法)「イングランド教会は国王をトップとする」という法律を成立させ、カトリック教会から離脱。新たな宗派イギリス国教会が誕生しました。簡単に言うと「離婚問題がこじれて新宗派誕生」という、かなり変わったものだったのです。
なお、このヘンリー8世主導の宗教改革によりイギリスは中央集権化を促進させています。
イギリス国教会はどうやって定着したの?
結局、ヘンリー8世は二人目との妻との間にも女児(後のエリザベス1世)しか誕生せず、三人目の妻との間にようやく嫡男のエドワード(後の6世)が生まれますが、妻は産褥死しその後も離婚と再婚を繰り返しました(下の3人の女性の他に3人、離婚と再婚は計6回に及びます)。
そのヘンリー8世が亡くなり、1547年に即位したプロテスタントのエドワード6世はカトリック派の制度を残しつつカルヴァン派に近い教義を整備しています。
ヘンリー8世 | エドワード6世 | ジェーン=グレイ | メアリー1世 | エリザベス1世 | |
宗派 | カトリック→ プロテスタント | プロテスタント | プロテスタント | カトリック | プロテスタント |
---|
ところが、あれだけ期待の大きかったエドワード6世が若くして死去してしまい、新旧宗派をめぐる紆余曲折を経て最終的に最初の妻との間の女児がメアリー1世として即位することになりました。
メアリー1世は旧教の復活を目指し、結婚相手もカール5世の息子でカトリックの盟主スペインの王太子フェリペ(後のフェリペ2世)を選んだだけでなく、プロテスタントの弾圧をかなり厳しく行います。「ブラッディ・メアリー」の異名をつけられるほどでした。
そんなメアリー1世は即位5年後に病死。プロテスタントの妹が女王エリザベス1世として即位したのです。彼女はカトリックにも配慮した礼拝統一法による礼拝と祈祷の統一を図り、新たな国王至上法の法制化でイギリス国教会を国に定着させ、絶対王政の最盛期を作り上げています。
一方で、熱心なカルヴァン派は教会改革を求めてピューリタン(清教徒)と呼ばれるように。始まりが他と違っただけに教義も典礼もカトリックに近く、熱心なプロテスタント派にとってエリザベス1世の政策は不満の残るものだったのです。
その中でも改革の考え方に違いがあり、国教会内部からの改革を求める長老派、分離主義をとるようになった分離派が登場。分離派の中からは北米大陸を目指し、初期のアメリカ入植者としてニューイングランドの誕生に大きな影響を与えています。
新宗派に対するカトリックの対抗策とは?
ヨーロッパ各地で起こった宗教改革は、カトリックでも改革の動きを促しています。
聖職者の現状や贖宥状制度の批判も内部から上がるようになり、改善の提案はなされたのですが、実際に成果はあまり出ませんでした。
イエズス会の誕生
一方で別の動きも。スペインの地方出身の貴族で軍人のイグナティウス=ロヨラという人物が留学先のパリでイエズス会を結成したのです。翌年にはローマ教皇からの許可を取り付け、新たな布教活動や教育事業に精を出しました。
ロヨラの同志にはフランシスコ=ザビエルも含まれます。
彼らは命がけで航海し、布教活動に勤しみました。プロテスタント化した地域や日本含む他宗派の地域に派遣され海外布教などによるカトリック復活事業に取り組んでいます。こうしたカトリックの内部改革は対抗宗教改革と呼ばれます。
トリエント公会議
1545年にローマ教皇だったパウルス3世はイタリア北部の神聖ローマ帝国の都市でトリエント公会議を行いました。カール5世と主導権を握った会議ですね。
この会議の中で
- 正統教義の確認
- 秘蹟(聖体拝領や洗礼など)の効力/贖宥の有効性の擁護
- カトリック教会の聖伝(伝承)は聖書と並ぶ権威があると宣言
- 諸聖人の通巧(魂の救いを助ける成人の仲介)/煉獄の存在の再確認
を行いました。
同時にプロテスタントの「信仰のみ」の立場は間違いだと退け「聖書のみ」が信仰の対象というプロテスタントの考え方も完全否定も行ったため、プロテスタントとは完全に断絶するに至りました。
が、聖職者の任務を厳格に遂行することや養成の充実、贖宥状を金銭と引き換えに渡すことを禁じるなど実現できそうな部分では改革を行っていたようです。
さらに、宗教裁判の強化が決定。
この変化は当局による告発と断罪に加え、密告の横行を招くことになります。魔女狩りが盛んになったのも同時期です。イングランドのメアリー1世の治世下にプロテスタントが弾圧されたのも、そうした背景が隠れていました。
逆に弾圧されているプロテスタント側も同様に宗教上の迫害や魔女狩りが激しく行われています。負のループに嵌っていったのでしょうね。
絶対王政の確立
宗教改革と何の関係が…と思いますが、以前の国家は宗教と強い結びつきがありました。宗教上の混乱は国の統治上にも混乱をもたらします。実際に神聖ローマ帝国もイングランドもそれが原因で内乱が起こったり血の海になったりしています。
国の統治にあたって宗教が当てにならない状況になったことで、絶対王政を志向する国家権力や都市権力が支配する方向に向かったのでした。
※神聖ローマ帝国の場合、その強い権力は皇帝ではなく領邦君主が担っていました。彼らが領内の教会の首長となり監督する体制、領邦教会制をとるようになります。