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中世イギリス史<ノルマン朝~プランタジネット朝の成立>【各国史】

歴ブロ

ノルマン・コンクエストによりイングランドを掌握したウィリアム1世から始まったのがノルマン朝です。ノルマン朝の王家の血筋は、その後の諸王家にも受け継がれた他、封建社会を取り入れたイングランドの土台となった王朝でもあります。

今回は、そんなノルマン朝で起こった出来事や無政府時代を経てプランタジネット朝に至った経緯までをまとめていきます。

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ノルマン朝(1066ー1154年)

ノルマン朝は元々がフランスのノルマンディー公国が源流ということで、既に大陸では主流となっていた封建制度が導入されました。

また、ウィリアム1世イングランド王としては国王の地位についていますが、ノルマンディー公としてはフランス王国の臣下という立場を取っています。この境遇が後々まで尾を引いていくことに。

そんなノルマン朝がどのような王朝だったのか見ていくことにしましょう。

ノルマン朝家系図

ウィリアム1世の治世

ウィリアム1世(ギヨームと呼ばれることも)が王として即位していたのは1066年~1087年。

侵略による支配のため、征服した地はノルマン人貴族に、元々土地に根付いていたアングロ=サクソン系の貴族のうち従属した者には一旦土地を接収した後、改めて封土という流れで支配を強めていきます。

この時、徴税目的で土地や資産など細かく調査したドゥムズデイ=ブックと呼ばれる土地台帳が作られています。

ウィリアム1世治世下の宗教界との関係は?

七王国の時代...ウェセックス朝時代のイングランドでアルフレッド大王によるデーン人へのキリスト教の教化がなされていたこと、ノルマンディー公国を治めた初代のロロキリスト教へ改宗していたこともあり、ウィリアム1世の治世下のイングランドでは既にキリスト教が浸透していました。

ウィリアム1世はそんなイングランドの宗教界も傘下に入れようと、大人になって出会ったランフランクス(彼自身は腐敗をなくそうとした聖職者の一人です)をイングランドのカンタベリー大司教に任命。

更に、ランフランクスが北部のヨーク大司教を従属させようとした動きに対してウィリアム1世が肩入れするといった出来事が起きてしまいました。

で、実際にカンタベリー教会はイングランド教会の中で首位性を確立しています。

 

この事態が起こったのは、神聖ローマ帝国皇帝のハインリヒ4世叙任権闘争を繰り広げカノッサの屈辱まで引き起こしたグレゴリウス7世がローマ教皇に就任する直前でした。 

グレゴリウス7世と言えば、1073-1085年までローマ教皇に就任していた『教会や聖職者を世俗勢力から切り離そうとした』人物です。ちょうどウィリアム1世の治世と一部被った時期ですね。

当然、ウィリアム1世がカンタベリーとヨークのイザコザに口出しをした件は良く思われず、後々イギリスバージョンの叙任権闘争のようなものに繋がりました。

ウィリアム1世の2代先の国王ヘンリー1世の代になると、教会に歩み寄りを見せながらも妥協点を探り共存を目指したのですが...

無政府時代の混乱期に突入すると教会は王権から離れ独自の権力を持ちはじめ、更に後のプランタジネット朝で本格的に拗れ暗殺事件にまで発展しています。

というわけで、ウィリアム1世の治世下での宗教政策が後々イングランド独自の路線に進む萌芽となったと考える人もいるようです。

ウィリアム1世との関係の深い建築物とは

ロンドン塔

ロンドン塔(wikipedia)より

世界遺産にもなっているロンドン塔は、ウィリアム1世が外敵からロンドンを守るために建設を命じて約20年かけて作らせた要塞です。後々、プランタジネット朝で完成しました。

以後、国王の居住する宮殿としてだけでなく、政敵や反逆者を処刑する監獄、造幣所や天文台、時には王立動物園まで兼ねる城塞となっています。現在でも儀礼的な武器の保管庫や礼拝所になっているなど、後世まで残り使用され続けています。

なお、処刑場として使用された過去があるため、現在では幽霊の出る観光スポットとして有名な場所となっています。

隠れた名君・ヘンリー1世の治世とは?

ヘンリー1世

ヘンリー1世(イングランド王)(wikipedia)より

ウィリアム1世の次の国王には息子のウィリアム2世が就きましたが、彼は妻帯せず子を儲けることもないまま猟の最中に死去。そこで次に跡を継いだのがヘンリー1世です。

ヘンリー1世ウィリアム1世の息子で領地を継がずに金銭のみを受け継いだ王位からは離れた場所にいる人物だったのですが…

彼は目的のために的確な動きを弄する人物でした。例えば

イングランド王を継いだ兄とノルマンディー公国を継いだ兄を仲違いさせるように動いたり

ウルバヌス2世による十字軍遠征に参加表明する兄(「気まぐれで夢想家」と評されるので宗教熱が高まっていたのかもしれない)に対して

上のような提案をし、ノルマンディー領を手に入れています。

王のウィリアムとロベール2世は流石にヘンリーのことを警戒し始め、二人は和解すると攻撃までされてしまいます。こうしてヘンリーは大人しく過ごすことにしたのですが、ロベール2世が十字軍遠征に行っている間にウィリアムが死去。

ロベールがいない間にヘンリー1世としてちゃっかり即位してしまいます。こんな経緯で王位をもぎ取った王だけあって、統治も結構良いものでした。

彼の『碩学王』の『碩学』とは『学問が広く深いこと』を意味しており、かなりの頭脳派な国王だったことが伺えます。

ロベール2世が十字軍遠征から帰国後「王位を勝手に継承するのはおかしい」と主張してきた時なんかは、兄による侵攻を食い止めて即位すると戴冠憲章と呼ばれる文書をまとめてイングランド貴族を味方につけ、兄に付け入る隙を与えませんでした。

更にヘンリー1世は前王朝のウェセックス朝国王・エドマンド剛勇王の孫娘と結婚。アングロ=サクソン系との関係回復に努めたほか、関係の悪化していたフランス王国に対抗できる勢力をヘンリー1世の子ども達との結婚を通して作り上げていきます。

※フランス王国とはノルマン朝を建てたウィリアム1世が臣下でありながらイングランドの国王となって以降、少しずつ関係が悪化

教会との関係を改善したのもロベール2世との対立が避けられない中、発言権を日に日に増してきた教会をわざわざ敵に回すのは得策ではないと考えていたためのようです。

こうして王権は強化されて国内の安定は保たれていましたが、正式な王妃との間にいた息子・ウィリアム・アデリンを彼が17歳の時にに『ホワイトシップの遭難』と言われる海難事故で失ってしまいます。

無政府時代

ヘンリー1世には庶子は多くいましたが、嫡子となれる男児はウィリアム・アデリン以外にはいませんでした。息子の死後に再婚した相手との間に子は生まれず、神聖ローマ帝国元皇后でアンジュー伯(西フランス)に嫁いでいた娘・マティルダを後継に指名しています。

ヘンリー1世の死後、これに異議を唱えたのがフランス系の貴族に嫁いでいたヘンリー1世の姉の子、マティルダにとっては従兄弟にあたるスティーブンでした。

強引にフランスからイングランド入りを果たし、身内の聖職者を使って教会からの支持も取り付け王に即位したのです。

ここから後継者争いを発端にした無政府時代がはじまります。

内戦に突入するも互いに決定打のない中、マルティダ陣営のアンジュー伯の死去がきっかけとなってスティーブン有利になっていきます。

が、そのうちマティルダの息子アンリ(英語読みだと「ヘンリー」)が成長してスティーブン陣営と戦うようになると、マティルダ陣営は僅かな希望を見出すようになりました。

父・ジョフロワ4世が征服した地でノルマンディー公となった後、父の死によってアンジュー伯・ブルターニュ公を継ぐと、両者の力関係が変化していきます。下火になっていたマルティダ側が息を吹き返したのです。

マティルダ陣営が息を吹き返した理由とは?

どのように若いアンリがマティルダ陣営の息を吹き返させたのかと言うと...彼は父の爵位を継いだだけでなく、事を有利に進めるため自身の結婚を上手く利用しました。

当時、フランス国王だったカペー朝ルイ7世が不貞の疑いがある奥さんアリエノールと別れていたので彼女と結婚したのです。アリエノール30歳、アンリ19歳の時のことです。

このアリエノールという女性。とんでもなく広い領地を所有している女性でした。しかも美人。彼女との結婚により経済基盤を整えることに成功します。

アンリは自身の親から受け継いだノルマンディー・アンジューだけでなく、フランス南西部のアキテーヌ含むアリエノールの領地まで手に入れることに。

※メーヌ・トゥーレーヌは1144年以前から当時のアンジュー伯であるアンリの父ジョフロワが支配。ノルマンディーは無政府時代のスティーブンに取られたものを1144年にジョフロワが取り返していました。ノルマンディーはアンリが、それ以外を兄弟が受け継ぎますが、それらの領地も父や兄弟との争いを経て大部分を手に入れています。

第3回十字軍遠征の記事とかぶりますが、フランス王はこの事態に危機感を募らせます。

これだけの広い領地を持つ人物が「隣国の国王、兼、自分の臣下」になるかもしれない事態はどうしても避けなけばなりませんでした。

これに対処するため、ルイ7世が結んだ相手がスティーブンの息子でブローニュ伯のウスタシュ4世ルイ7世の妹と結婚(←アリエノールとアンリが結婚する前の1140年に既に結婚済み)していたことから、更に関係を深めてアキテーヌ公領に攻め込んだりもしていたのですが...

この後、スティーブンの息子ウスタシュ4世が急死。完全にスティーブン陣営は士気がガタ落ちしてしまいました。また、内戦が続いて厭戦気分が高まっていたという背景もあってスティーブンマルティダ間で和平を結ぶ流れに。

その一つにスティーブンの王位継承権を認める代わりに、次期王位はマルティダの息子・アンリが継承することを約束させることが挙げられます。

こうしてアンリプランタジネット朝(1154~1399年)を作り上げていくことに成功したのです。

 

 

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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