第二回十字軍遠征とアイユーブ朝の台頭
今回は第2回十字軍遠征について、また中東でサラーフ=アッディンがアイユーブ朝を開き、イェルサレムを陥落させたところまでまとめていきます。
第2回十字軍遠征までの経緯と結果
イスラム王朝【セルジューク朝】がキリスト教の聖地でもあるイェルサレムを完全支配していたことから、ローマ教皇ウルバヌス1世の呼びかけによりイェルサレム奪還を目的に遠征を行ったのが第一回十字軍遠征です。その結果・・・
- エデッサ伯国
- アンティオキア公国
- イェルサレム王国
- トリポリ伯国
これらの十字軍国家が建てられました。
このうち、エデッサ伯国がセルジューク朝の地方政権から独立したザンギー朝により陥落。エデッサ伯国からの救援要請を受けたローマ教皇エウゲニウス3世が十字軍を要請します。
フランス国王・ルイ7世と王妃アリエノール、ドイツ国王のコンラート3世、後の神聖ローマ帝国皇帝・フリードリヒ1世の他、多くの諸侯、民衆らが参加して1147年~49年の第二回十字軍遠征が始まりました。
ちょうどこの頃、イベリア半島で国土回復運動【レコンキスタ】が最盛期を迎えていたため、イタリアなどの近い地域の者達にはレコンキスタへの参加を勧められました。また、ドイツ諸侯から出ていた北方に住むスラブ人の征服も十字軍の一貫として認められています。
こうして、本来の目的であったはずの「エデッサ伯国を取り戻す」という目的がぼやけてしまい、結局第2回十字軍は失敗に終わりました。
このザンギー朝から出てきたサラーフ=アッディーンという人物が後々第3回十字軍遠征の呼びかけを行うキッカケを作っていくことになります。
- ザンギー朝とは
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ザンギー朝はイスラム王朝であるセルジューク朝の流れを汲むテュルク系のアタベク政権の一つで、12世紀から13世紀にイラク北部~シリアにかけて建てられました。
※アタベクとは...幼い君主の後見人、摂政、養父。政権内で大きな役割を果たした
ザンギーという人物は、セルジューク朝の全盛期を築いたマリク=シャーに仕えたけど半独立を目指した結果殺されてしまったアーク=スンクルの息子です。父の殺害後は別の都市を治めていた領主に育てられていたと言われています。
成長後のザンギーはイラク=セルジューク朝のスルタン・マフムード2世(マリク=シャーの孫)への反乱を抑え込む際に活躍しました。
※スルタン・・・王様・皇帝のような存在
その活躍によりスルタンからモースルの太守に任命されると、翌年にはモースル支配下のアレッポに入城し本拠地としています。その本拠地で、かつてアレッポで王だったリドワーンの娘と結婚して領主となり、ザンギー朝を成立させたのです。
歴史的に...というよりザンギーの義父にあたるリドワーンはドゥカークとの兄弟仲が険悪でシリア=セルジューク朝を分裂させたという経緯からアレッポはダマスカスとの仲が悪く、ザンギーも人生の大半をダマスカスとの抗争に費やしていたようです。
中東でのサラーフ=アッディーンの台頭
エデッサ伯国にも攻め込んだザンギーは、十字軍遠征を退けた後イスラム勢力の英雄として讃えられながらも殺されてしまいます。ただし、あまりにも急な死だったため、後継者を決めていませんでした。
そんな中で部下達はザンギーの長男・次男それぞれに分かれてついていったため、領地が二分されてしまいます。
うち、アレッポ周辺を支配していたザンギーの次男・ヌール=アッディーンがエデッサ伯国を完全に叩きのめし、更に父ザンギーが達成できなかったダマスカスまでも手中に入れることに成功します。
サラーフ=アッディーンは、そんなヌール=アッディーンの元にいた人物です。
サラーフ=アッディーンはどんな人?
ヨーロッパではサラディンとも言われます(教科書的にはサラディンなので以後サラディンで統一)。ザンギー朝に仕えたアイユーブを父に持ちます。
彼の弟、シール=クーフはイスラム教とキリスト教の関係が微妙な中で口論の末にキリスト教徒の役人を殺してしまい、家族そろって国を追われてしまいました。
そこで頼ったのがザンギーでした。彼を頼りそのまま仕えていたのですが、そのザンギーも色々あって死んでしまいます。
ザンギーの死後、ザンギー朝は長男と次男に分かれていた(敵対と言うわけではなかったようです)のですが、サラディンは次男のヌール=アッディーンの元に仕えました。若い頃から君主の覚えが良かったそうです。
ヌール=アッディーンは、ダマスカスを拠点にアンティオキア伯国などの十字軍国家と戦いつつ、北方にあるルーム=セルジューク朝とも闘っていました。尚且つ、エジプト方面のファーティマ朝方面にも侵攻しています。
このエジプト方面へ向かったうちの一人がサラディンです。(サラディンの叔父)シール=クーフの下について参加しました。
一方で、攻め込まれた方のファーティマ朝は幼い者がカリフの地位を継ぐケースが増えており宰相の地位を巡る争いが絶えなかったと言います。この争いにザンギー朝や十字軍国家も介入していったのです。
※カリフとは・・・イスラム社会の最高指導者のこと。ファーティマ朝の君主はカリフを称していた。
結局、シール=クーフがその争いを制してファーティマ朝の宰相の地位に就任するも2か月後に病死すると軍権と共に宰相の地位もサラディンが引き継ぎました。
丁度この辺りの時期から自立傾向を強めてきており、サラディンは君主ヌール=アッディーンから野心を疑われはじめます。疑いが出た時点でヤバいのは分かり切っていたので、サラディンはエジプト方面に残り、ヌール=アッディーンの元には行かなかったそうです。
1171年になるとファーティマ朝のカリフに世継ぎが出来る前に死去。ファーティマ朝が滅亡し、そのままサラディンがエジプトを支配下に置いてアイユーブ朝を樹立させています(←父の名前から)。
このサラディン率いるアイユーブ朝が何しろ強かった。パレスチナからキリスト教勢力を駆逐することを目標に、1174年にはシリアを陥落させ、1187年にはとうとうイェルサレムまで陥落させたのです。