第一回十字軍遠征
十字軍遠征のきっかけについては『十字軍の遠征による影響と変化』にも記載していますので、遠征のきっかけに関しては軽く触れる程度にして第一回十字軍がどんなものだったのかを中心に迫っていきたいと思います。
十字軍遠征のきっかけ
当時のキリスト教会は西ヨーロッパ世界の政治勢力の一つとして力を持っていた時代です。
一方で、政治勢力としてではなくキリスト教会の中で見ていった時に首位性を争っていたのがローマ教会とコンスタンティノープル教会です。拗れに拗れて東西分離にまで発展。長い間統一に向けての話し合いが続けられていました。
そんな時期にイスラム王朝の拡大が重なります。コンスタンティノープル教会とのつながりが深いビザンツ帝国(東ローマ帝国)の領土のうちアナトリア半島(現トルコ『古代オリエントの世界』参照)とキリスト教の聖地イェルサレムまで独占され、西側諸国や教会にSOSを出す事態に。
幸い、当時は西ヨーロッパの国王たちよりも教会の影響力の方が強い時代でしたから、ローマ教皇ウルバヌス2世は国王や諸侯達にイェルサレム奪還の呼びかけを行いました。
意訳すればこんな感じでしょうか。
この言葉が現フランス全域に住むフランク人に伝わり、右肩に十字の印を縫い付けて遠征に向かいました。この十字の印が十字軍の名前の由来です。
熱狂的な民衆十字軍の指導者・隠者ピエールとフランス北部のブローニュ伯の次男・ゴドフロア公と弟のボードワンらが、かつてカール大帝(在位768~814年)が命じて作った小アジアにあるビザンツ帝国の首都・コンスタンティノープルまでの道路を使って進軍しました。
ここにドイツ(神聖ローマ帝国)や北イタリアや南イタリアからの参加者が合流して全部で10万の大軍となりました。
第一回十字軍に従軍した隠者ピエールは非常に演説の得意な人物で、彼の演説により身分関係なく様々な人が十字軍に参加したと言われています。
中には騎士階級、裕福な自作農や商人もいましたが、ちょっとした巡礼や略奪のつもりで初めて戦場に行くような一般庶民たちも混ざっていたようです。
十字軍とユダヤ人
十字軍に参加した者達の中には戦場が初めてという人もいたわけですから、当然、新たに武器を手に入れなければならない者が多くいました(巡礼感覚で武器も持たない者もいたようです)。
武器を手に入れるため金銭的に裕福でない者達は「お金を借りて入手」することになります。
当時のキリスト教で金貸し業は忌避された職業でしたから、イスラムよりも身近な所に住んでいて金貸し業も生業にしていた異教徒ユダヤ人から借金して武器を手に入れたのです。
「相手は豊かで忌避の対象である金貸しまでしている」(あくまで一部)
ということで、十字軍参加者の中には
「異教徒はイスラムだけじゃない。討伐すべきなのはユダヤ人では?」
と考える者も十字軍の参加者から出始め、ユダヤ人殺しを正当化する者まで出てきます。
ユダヤ人迫害と言えばナチスドイツによる迫害が最も有名ですが、十字軍遠征もまた同様に迫害があったとして知られており、根深い問題なのが分かりますね。
いざ!第一回十字軍遠征へ
最初にビザンツ帝国へ着いたのは4万人近い人数の参加者が集まった民衆十字軍。
一般庶民による烏合の衆だったのですが、この民間十字軍が後々色んな所に影響を及ぼしていくことになるので、まずは民衆十字軍についてお話していきましょう。
民衆十字軍、コンスタンティノープルへ
4万人近くの民衆十字軍が着いた時点で、ビザンツ帝国は十字軍がここまで大規模な軍だとは考えていませんでした。あまりもの大軍のため、最初の国境の町では(食糧の提供などを考えると)上からの命令もなく受け入れることもできず、市内に入ることを拒否しています。
結果、途端に食糧不足に陥る大軍ですから周りの街を略奪し始めたのです。ビザンツ帝国側は当然対抗して小競り合いに発展。そんな中で何とかビザンツ帝国から領内通過の許可を得て、コンスタンティノープル入りできたようです。
本来なら民衆十字軍以外の諸侯達による十字軍が合流するまでコンスタンティノープルで待つ予定だったのですが、下のように感じたビザンツ皇帝アレクシオス一世は
と民衆十字軍だけを先にセルジューク朝に向かわせることにしています。治安悪化も食糧不足も回避できる案ですから責められませんね。
こうして民衆十字軍は農村の略奪をしながらイェルサレムを目指します。
ところが、セルジューク入りした民衆十字軍はまともな装備をしていない者も多いうえに仲間割れまではじめ、全滅に近い有様となってしまったのです。この民衆十字軍の統率力のなさが良い方にも悪い方にも働くことに...
なお、この後隠者ピエールは生き残り十字軍本隊と合流して雑兵たちをまとめています。
十字軍本体、セルジューク朝へ
1096年夏、民衆十字軍が壊滅した中で貴族や諸侯による十字軍による軍事活動が本格化。西欧各地から名のある司教や諸侯達が結集します。
彼らがコンスタンティノープルについたのは民衆十字軍が壊滅した2か月後のこと。ここにも騎士だけでなく多くの民兵が付き従っていたようです。
最初の頃は強力な指導者はいませんでしたが、戦いの中でレーモン4世やアデマール司教、ボエモン一世が主導的な役割を果たすようになっていきます。
ビザンツ帝国との交渉
十字軍本隊も食糧が乏しくなりつつありましたが、「ビザンツ皇帝アレクシオス1世が物資を提供してくれる」と考えていたのに対し、アレクシオス一世は民衆十字軍の統率のなさ・素行の悪さなどを見ていたため既に猜疑心が募った状態となっていました。
そのため、アレクシオス1世は食糧提供の代わりに
と求めています。これが後々十字軍を分裂させる引き金になっていきます。
一方のセルジューク朝では…?
当時のセルジューク朝は、全盛期を築いたスルタン(=支配者)マリク=シャーが死去した後、いくつもの地方政権が乱立している状態になっていました。
元々セルジューク朝は各地に王子や一族の有力者を送り込む統治手段を用いていたため、マリク=シャーが宗教政策から影響力衰退させたのをきっかけに親戚たちが自ら独立政権を立ち上げており、マリクの死後には更にその勢力を伸ばしていたのです。
また、十字軍が遠征に来ようという頃には、地方政権の後継者が幼かったりした時の後見人・摂政であるアタベク(←地位・立場の名称)が建てた政権も出来ています。
- ↑アナトリア半島の一部の空白地帯は…?
-
1080年もしくは1098年に建国したと言われるキリキア・アルメニア王国。
ビザンツ帝国の元に下った時期もありましたが、指名された長官が世襲化し私腹を肥やしてばかりのため不満が募っているような状況でした。
そうこうしているうちにビザンツ帝国にセルジューク朝が侵略したため、混乱に乗じて小さな侯国が複数誕生します。が、セルジューク朝はそんな小さな侯国に侵略を仕掛けていきます。そんな折に来たのが十字軍だったので、宗派が違うとはいえキリキアは十字軍に協力的だったようです。
なお、キリキアではアルメニア正教がメインの信仰となっています。
そんな周囲が敵だらけ状況の中で、統率力のない民衆十字軍を目の当たりにしたセルジューク朝が「たいしたことない」と判断してしまうのも無理はありませんでした。
第1回十字軍の結果とは・・・?
第一回十字軍の参加者達は元々...
- 宗教的に熱狂していた時期でイェルサレム奪還を悲願にしていた
- 諸侯は自らの土地を渇望していた
などもあって非常に士気の高い者達の集まりでした。
そこにセルジューク朝の油断と内紛が加われば、結果はおのずと見えてきますね。とは言え、中東はかなりの先進地域でしたから十字軍はかなり苦戦しています。
エデッサ伯国の建国
ニカイア攻囲戦・ドリュラエウムの戦いを経てキリキア地方を通過すると、ブルゴーニュ伯ボードワンが十字軍本隊から離れてエデッサに。この時、ボードワンはエデッサの統治者に養子・後継者と認めさせています。
というのも、当時のキリキアはセルジューク朝の地方政権からの圧迫があって十字軍に町を守ってもらうことを希望していたため。交換条件によって後継者として認められたようです。
その後、エデッサの市民たちが暴動を起こして統治者を退任に追い込む(ボードワンが扇動した説もあり)と、ボードワンが支配者の座について最初の十字軍国家・エデッサ伯国(1099年~)を成立させました。
※退任に追い込んだ理由・・・
エデッサの統治者がギリシア正教(ビザンツ帝国と同じ)を信仰していたため。キリキアの住民が主に信仰したアルメニア正教ではなかったことからビザンツ帝国に対してもエデッサの統治者に対しても反発が強かったと言われています
なお、ニカイア攻囲戦では十字軍が勝利しそうになった時点で(十字軍による)略奪を警戒したビザンツ帝国が密かにニカイアと接触し降伏を促しており、ビザンツ帝国に対して降伏。
十字軍にとって寝耳に水の話な上に、せっかく戦っても何の旨みもない戦闘となったことで十字軍とビザンツ帝国の仲は最悪なものとなっています。
アンティオキア攻囲戦
イェルサレムへの道中にあるシリア=セルジューク朝の都市アンティオキアでもイスラム勢力との戦いが勃発。
アンティオキアは非常に強固な城壁を誇っていましたが守備隊が足りず、近隣のムスリム政権の統治者たちに応援を頼みますが、悪いことが重なって来て欲しい時期に援軍に来てもらえませんでした。
内部分裂とボエモンの主張とは…?
十字軍が堅固な城壁を持つアンティオキアに攻めあぐねている中で天変地異が起こり、飢餓が発生。内部分裂を促しました。
最悪な状況の中で十字軍に着いてきたビザンツ皇帝・アレクシス1世の使者が離脱します。「(使者が)セルジューク朝と繋がっている噂があるから、諸侯達が使者の暗殺計画を練っているらしい」という話が出てきたためです。
この使者の離脱を理由に十字軍のまとめ役の一人、ボエモンが
と言い出し、アンティオキアの領有を主張し始めました。ずっと十字軍とビザンツ帝国の仲が最悪だったので予測できますね。
この主張に対してレーモン4世は反対しますが、ボエモンは城を落とすためアンティオキアの警備担当者と接触していたためレーモン4世も受け入れざるを得なくなりました。
この裏切りで一度アンティオキアへ入城することが出来たのですが、十字軍が攻略する以前にアンティオキアが要請していた援軍がやってくることに...非常に大きな兵力を持った援軍だったため十字軍は絶対的なピンチに陥ります。
アデマール司教の病没
結局、アンティオキア攻囲戦では両陣営共にまとまりを欠きながらも何とか十字軍が勝利。援軍も撃退しています。とは言え、勝利したものの飢餓は解消されず。更にチフスと思われる病も流行し、この病でまとめ役の一人アデマール司教が病没してしまいます。
まとめ役の一人が死亡、尚且つもう一人は戦った土地の領有にこだわった結果、方針が決まらず半年近く留まることに。結局、ボエモンは初代公爵となってアンティオキア公国に残り、最後のまとめ役レーモン4世のみでイェルサレムまで進みます。
レーモン4世も領土を持ちたいと考えていましたが、イェルサレムを強い目的とする下の者達からの突き上げによって渋々向かう羽目になっていたのです。
同時にボードワンやゴドフロアは既にエデッサ領からの収入を得られていましたから、わざわざレーモン4世の下につくことを良しとせず、別行動でイェルサレムへ向かっています。
戦力は分散、目的もバラバラ。内部はボロボロの状態になっていたようです。
アンティオキアで起きたレーモン4世の権威を揺るがす事件とは?
まとめ役の一人レーモン4世が初代イェルサレム王から遠ざかったと思われる事件がアンティオキア戦ではどうやらあったようなので少しだけお話ししましょう。
その事件とは、レーモン4世が後ろ盾となっていた修道士が(飢餓による幻視のため?)「聖槍がある!」と言い出したことに端を発した出来事です。いわゆるロンギヌスの槍ですね。宗教熱の高まりとともに聖遺物に対しての崇敬も高まっていましたから、見つかれば間違いなく士気の上がる代物です。
実際にアンティオキアで聖槍は見つかって士気は大いに上がったものの「うさんくせー」と思っていた諸侯に対し、修道士自ら「私が言ってたことが本当かどうか裁判してほしい」と言いはじめ神明裁判(火審)を実行したのです。
釜審または火審
湯を沸かし、その湯の中に指輪または石を投入する。被告は素手でこれを取り出す。手に包帯を巻き3日待つ。その後ほどいて「きれい」であれば無罪とされる。中世ヨーロッパでもっとも古く、510年に言及が見られる。
神明裁判(wikipedia)より
修道士は大火傷を負って死亡したことでレーモン4世の権威が落ちてしまったそうです。
イェルサレム、ファーティマ朝に落ちる
そんな中で『ある国』が動きます。元々シリアで幅を利かせていたエジプトのファーティマ朝です。アンティオキア攻囲戦の頃には既にファーティマ朝がイェルサレムの陥落に成功させています。
ファーティマ朝はアンティオキア攻囲戦真っ最中に使者を送り、シリアの南北分割統治を送り十字軍との和睦を計りますが十字軍はこれを断固拒否。同盟も不可侵条約も成立せず、あまりにも話の通じない十字軍にファーティマ朝はイェルサレム攻略を後悔したとかなんとか。
こうして、十字軍はファーティマ朝と戦う方に突き進んでいきました。
十字軍、イェルサレムへ
内部分裂を経て飢餓と戦いながらも、何とかアンティオキアを落としイェルサレムへ向かうことが出来た十字軍一行。ところが、この後も行く道行く道で略奪・虐殺を繰り返します。
この噂を聞いていた現地の有力者たちは、戦わずに物資を援助することで最悪の事態を回避しようとしたため、大きな戦いもほぼなくスムーズに向かったようです。
一方の目的地にされているイェルサレムは、十字軍の進軍を聞いて周りの井戸に毒を入れたり食糧を備蓄したりして、どうにか敗戦を避けようとしていました。とにかく十字軍は評判が非常に悪い。何とかして占領されないように準備を整えていったのです。
そのため、規模がかなり縮小していた十字軍ではイェルサレムは中々陥落させられません。再び飢餓に陥ります。飢餓で幻覚が見え始めるようになった頃...
病死したはずの十字軍のまとめ役・アデマール司教が
「断食して9日間裸足でイェルサレムの周りを回ると城壁が崩壊するだろう」
と告げたのを見たという者が現われます。藁にも縋る思いで実行した所、なんとイェルサレムの城壁の弱点を見つけ、餓死直前ギリギリのところで城壁を破ったのです。
城内で十字軍による虐殺が行われている中(イスラム教徒、ユダヤ教徒、東方正教会などのキリスト教徒まで殺害しています)、レーモン4世はイェルサレムに勧告を受け入れさせることに成功。こうしてイェルサレムは十字軍に攻略されることとなりました。
イェルサレム王国と十字軍国家の成立
1099年、ようやく本来の目的であるイェルサレム奪還を達成した十字軍。この時の兵力は数百~2000名と言われています。当初は (盛っているかもしれませんが) 10万人規模の兵力だっただけに過酷さは想像を絶しますね。
この時の十字軍の主導者となっていたゴドフロアが実質イェルサレム王である『聖墓の守護者』として任じられるも、翌年に死去。弟でエデッサ伯となっていたボードワンが後を継いでイェルサレム王国が誕生しました。
※レーモン4世としては面白くない。ということで参加した諸侯とは険悪になっています。
兵力が少なく心許ない状況でしたが、アンティオキア公国のボエモンとダニシュメンドの間で戦いが起こっていたりセルジューク朝内での内輪揉めがあったりしたおかげで、イェルサレム王国の地盤を固めることができました。
とは言え、イェルサレム王国にまで到達した人数はかなり少なく、今後も生産者人口と軍事力不足に悩まされ続けることになります。
こうした成果を上げた諸侯が持て囃された反面、途中脱落した騎士たちは「臆病者」と嘲笑の的になっています。時には聖職者から破門さえ囁かれていたそう。
イェルサレム奪還に熱狂している者が多くいたこともあって、再度遠征するよう圧力がかかるように。こうして再度1100年~1101年にかけて十字軍が出発することになりました。
彼らと、まとめ役の一人でありながら領地を得られず第一回十字軍の中心諸侯達と険悪になっていたレーモン4世が結びつき『1101年の十字軍』や『臆病者の十字軍』と言われる遠征を行いました。
この遠征で十字軍は殆ど壊滅するものの、残った兵力でシリアのトリポリと呼ばれる豊かな港町を攻撃し、陥落させています。
この時裏でレーモン4世を支援したのがビザンツ帝国のアレクシオス1世でした。「占領した土地はビザンツ帝国のもの」という約束を反故にしたボエモンの領地・アンティオキアを牽制するための支援だったそうです。
勿論、このトリポリはレーモン4世が領地としています。
- エデッサ伯国
- アンティオキア公国
- イェルサレム王国
- トリポリ伯国
の4つの十字軍国家が成立。以後、13世紀まで残り続けることとなります。
さらにイェルサレム王国が出来たことで巡礼しやすくなったこともあり、聖地に巡礼する者達の保護、貧者・病人・死者の世話をするための
- 騎士修道会(宗教騎士団)
- テンプル騎士団
- 聖ヨハネ騎士団
も設立された、ということです。
なお、明日(7月1日)ニカイア攻囲戦、明後日(7月2日)にアンティオキア攻囲戦の詳細についての記事も更新予定(どちらも午前10時)にです。