世界史

モンゴル系王朝による東アジア支配と衰退、東西交流を見てみよう

歴ブロ

前々回から初代のチンギス=ハンによるモンゴル帝国の統治、さらにフビライ=ハンモンゴル帝国を中国風の王朝名・元朝と名を改め南宋を支配したことについてお話ししました。

フビライの時代はロシア方面や西アジア方面などで皇族たちが各地で国を作り緩やかな繋がりどころか反乱も起こすようになっていたので、元朝が現在の中国の付近をどういった形で支配したのか、他の地域とはどう交流していたのかを探っていきたいと思います。

 

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モンゴルによる東アジア支配

海上交易ルートの支配に多くが失敗したとは言え、フビライ=ハンは南宋やパガン朝征服もあって最大版図を築きます。実際には内部は緩やかな連邦体制に移行してはいましたが。

 

モンゴル地図

その中でも統治に工夫を要したのが人口が多い華北~南宋のあった現在の中国に当たる場所でしょう。その中でも直接的に完全に支配出来たのは華北だけだったとも言われており、江南は南宋での制度がそのまま使われています。

中央政府の要職や地方行政機関の長といった支配者層はモンゴル人が独占していますが、圧倒的多数の中国人を支配するため色目人と呼ばれる中央アジア・西アジアの諸民族を間に入れた統治を行いました。色目人は元朝での財政面を担っています。

一方で最大多数の中国人。旧・金朝の支配下にあった華北の住民を漢人、旧・南宋支配下にあった住民を南人と呼んで区別しました。

モンゴルの統治

中国の歴代王朝で行われた科挙の制度は一時廃止。高級官僚につくためには世襲や恩蔭と呼ばれる制度によって行われ、血縁により処遇が決まってしまいました。これまで官僚となっていた士大夫層は末端の下級役人にならざるを得なくなります。

父祖の官職の上下に従ってその子孫や親族に官位職階を当てる制度である。恩蔭(おんいん)(中略)などとも呼ばれる。

任子(wikipedia)より

14世紀前半フビライ=ハンが亡くなった後に大夫階級の懐柔を目的に第4代仁宗が科挙を復活させていますが、漢人や南人にとっては不利な条件のもの。

これまで官僚を独占していたエリート階級の士大夫たちは完全に没落することとなったのでした。

 

東西交易の活発化

華北に進出した遊牧民国家としてモンゴル帝国が成功した理由が早い段階で北部にも財政基盤を整えたためです。チンギス=ハンの時点で交易の要であるシルクロード草原の道を抑えていました。

 

二代目オゴタイ=ハンの時代に定められた都カラコルムを中核とし、帝国全土に幹線道路を張り巡らせ駅伝制を整備するとヨーロッパと内陸アジアの行き来が非常に活発になりました。モンゴル帝国風に言うとジャムチ(站赤/たんせき)です。

一日行程ごとに『站(駅)』を設け、そこに人や馬を常備し食糧と宿泊所を設けておくことでリレー形式に人や物を運ぶことが出来たのです。公用の使臣や軍官は牌符(はいふ)を持ち、用途によって異なる形状が発給されていました。

歴ぶろ
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駅伝制は情報伝達の迅速化にも貢献しました。

実を言うと、モンゴル帝国の強さにはこの情報こそがカギを握っていたなんて話もあったり。攻め込む前にモンゴルの強さ・残酷さを伝えて士気を下げさせたようです。

 

交易の主流となったのは??

これは何と言ってもムスリム商人!

彼らはインド洋、南シナ海を中心に活躍し、南海との交流を深めました。この交易で東南アジアや中国との交易を続けます。中国では江南の杭州明州(寧波)泉州広州などの港市が栄えました。

『東方見聞録』で知られるイタリアのヴェネツィア商人マルコ=ポーロは『世界の記述』で杭州をキンザイ、泉州をザイトンの名で紹介。特に泉州は世界最大の貿易港として記載する程の繁栄ぶりだったようです。

こうした交通路の発達で多くのムスリム商人が中国に入るとモンゴル人皇帝や貴族の領地内で徴税の請負や高利貸しを行い、チンギス=ハンの時代から資金源・情報源として裏で支えていたのでした。

 

さらに隋の時代に作った運河の補修に加えて…

隋の時代の地図(581-618年)

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新たな運河を作って渤海湾と首都の大都(北京)を結ぶことで華北と江南までがひと繋がりになると、食料などが内陸の首都へ大量に運べるようになるほど海運が発達します。

※渤海湾は上の地図でいう北に契丹、東に高句麗、西に北京に囲まれた湾です

 

こうして海陸共に大都が交通の要所となり、元代の末期には人口100万人にまで膨れ上がりました。また、杭州でも推定人口は100万人を超えていたようです。ちなみに元朝の時代は世界の人口が約4億人(←正確ではない)

それまでの歴史だとローマ帝国のローマ(紀元前後~3世紀頃)の長安(8~9世紀)北宋の開封(12~13世紀初)アッバース朝のバグダード(11~12世紀)で推定100万人都市となったくらいなので、100万人都市が複数あることからどれだけ栄えていたかが伺えます。

 

経済事情の悪化と元の衰退

モンゴル帝国も当初は銅銭、金、銀が貨幣として用いられていましたが、オゴタイ=ハンの時代には交鈔(こうしょう)が発行されるようになります。

交鈔とは金王朝から始まった紙幣のことで、通貨として流通しました。

江南征服前には銅が不足していたとも言われ、発行量を調整したうえで交鈔を発行するよう内政で重用された元遼の王族出身耶律楚材が提言したのです。

チンギスハン家系図
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これが元朝になると他の通貨を使わない交鈔を唯一の通貨とする政策に移った他、量を調節していた交鈔の発行も

  • 宮廷での浪費
  • 歴代皇帝のチベット仏教の信仰
  • 寺院の建立

といった出費がかさむようになると濫発し、お金の流通量を増やしすぎて価値が下がるインフレが起こります。これが元の経済を混乱させ滅亡の原因となったのでした。

 

以上のような形での経済混乱、政治腐敗、飢饉に天災と災厄が訪れるようになると社会不安は増大。

弥勒仏の信仰から始まった宗教結社が作られ、教主の韓山童をトップに置いて団結した白蓮教徒により反乱が起こされました。これが1351年の紅巾の乱です。

歴ぶろ
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白蓮の名前は東晋(4~5世紀)の慧遠による白蓮社、南宋(12~13世紀)の茅子元(ぼうしげん)による白蓮宗に由来すると言われています。

弥勒が降臨して新しい世が起こる直前には「天下大乱」が起こるという教えがあり、元以降の王朝は完全に白蓮教を危険思想と見なすようになりました。

 

韓山童が殺害された後も韓山道の子を擁して蜂起を続けると各地で打倒元朝が叫ばれ、群雄割拠の時代に突入します。

中国の最も豊かな穀倉地帯である江南デルタが奪われ大都への食糧供給が立ち行かなくなると元朝はモンゴル高原へと撤退していきました。

その江南を奪ったのがを建国した朱元璋

モンゴル帝国から派生した各ハン国は元朝が本拠地に戻った後も其々の地域でそれぞれの文化を吸収しながら残っていくことになりますが、これは別記事で紹介していきます。

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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