東南アジア

モンゴル帝国・元朝の登場【フビライ=ハン以降の統治】

歴ブロ

前回はチンギス=ハンによるモンゴル帝国の建国~モンケ=ハンによる統治を中心に、さらにフビライ=ハンが登場したところまでを扱いました。

今回は日本とも大きく関わるフビライ=ハン以降のモンゴル帝国、改め元についてまとめていきます。

チンギスハン家系図

チンギスハン家系図
13世紀頃のモンゴル帝国【チンギス=ハン~モンケ=ハンによる統治】世界史上、大英帝国についで二番目に大きな領土を持った大帝国がモンゴル帝国。今回は金や南宋、西夏のあった時代にモンゴル高原で台頭し始めたモ...

 

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フビライ=ハンが即位した経緯を解説!!

フビライ(1215~1294年)トゥルイと正夫人の間の次男として生まれました(他の妻も含めると四男)

兄弟には上に第4代皇帝のモンケ(1209~1259年)、弟にイル=ハン国を築いたフラグ(1218~1265年)、そして最後までハーンの位を争った末弟のアリクブカ(?~1266年)がいます。

 

兄のモンケがハーンになると、フビライは中国方面の領土征服を任されて雲南へ出発。モンケは早い段階での南宋支配を望みますが、フビライは南宋ではなくチベット(吐蕃)さらに雲南の大理国を降伏させ、さらに高麗を服属させるに留まっています。

12世紀ごろの南宋周辺

地図を見ると一目瞭然ですが、吐蕃と大理は南宋と隣接。ここから南宋を攻撃しようとしていました(ちなみに大越にも攻め込んでいます)。更に長期戦も睨んで華北の安定統治も同時に模索し始めます。

が、モンケの元々の方針は南宋の短期攻略。

この考え方の違いやフビライの有能さを危惧したモンケはフビライを更迭。多少遠回りでも南宋攻略に近付きつつあったのに更迭により南宋攻略は遅れてしまったのです。

そこでモンケは自ら軍を率いて侵攻しますが、この時に流行した病(おそらく赤痢)にかかり急死(この時フビライは許されて戦線に復帰。南宋に遠征していた)。息子達がまだ若かったため、弟達が後継者候補として名前が上がりました。

三男のフラグは兄モンケの命で遠く西アジアへ侵攻して当事者になれず、事実上フビライとアリクブカの二人の対決に。

 

首都カラコルムに残ってモンケの留守を守っていたアリクブカは同じく留守を守っていたモンケの重臣たちやモンゴル高原以西の諸王などから支持され...

一方のフビライは、モンケの死で本軍が撤収したことにより孤立化した最前線に出向いた将軍を助けるために南宋と交渉、無事に救出した件によって前線に向かった軍団やモンゴル貴族、王族たちからの支持に成功して互いにハーンを自称しました。

が、この両者の戦いでフビライは勝利。中国方面へ侵攻していたフビライは北部に比較して豊かな物資を手に入れており、自給が困難なアリクブカは降参することになったのです。こうしてフビライは1260年にハーンに即位しています。

※トゥルイ家の内紛を後述するハイドゥが煽っていたなんて話もあります

 

ハイドゥの乱の発生

ところがフビライがハーンとなった後も一筋縄ではいきませんでした。

亡くなったモンケはチャガタイ家やオゴタイ家と敵対した末にハーンとなったという背景から両家に対して生前厳しい態度をとっており、両家と仲が悪かった。そのうえ2代目オゴタイ=ハンの死後から分裂に向かっていたモンゴルの引き締めをモンケ=ハンが行っていたため、亡くなったことで歪みが一気に噴き出したのです。

オゴタイ=ハンの孫ハイドゥもハーンを自称すると、チャガタイ家やキプチャク=ハン国を作ったジュチ家とも結ぶようになり約40年もの間ハイドゥの乱(1266~1301年)が断続的に続いてしまいました。

円滑だった東西交易を行う陸上交通が妨げられたとも言われています。

 

新国家『元』の登場と南宋の滅亡

モンケ=ハンの時代から占城稲の流入によって「蘇湖(江浙・こうせつ)熟すれば天下足る」と言われる程豊かになっていた南宋に攻め込んでも何度も粘られてしまいました。そのため、フビライはモンケと意見が対立してまで華北の統治で安定化を図ろうとしたのは前述したとおりです。

華北の統治には漢人の知識人や軍人の重用、中国風の統治政策を採用。その後、ハーンに即位した後は中国風の元号を定め、首都をカラコルムから大都(北京)に遷都。1271年には国号もと改めています。

この間にも南宋への攻撃は継続し、1276年には首都臨安を占領。南宋は皇帝一族を擁し逃れて抗戦を続けましたが、結局1279年の厓山の戦いで破って中国全土を支配下に置いたのです。

 

フビライが交易の海上ルートを切り開くためにしたこととは?

内部で断続的にとは言えハイドゥの乱が起こり、同時進行で南宋を攻撃していた元。

陸上交通が妨げられることがあったため海上交易のルートを開拓したい・南宋を周辺から追い込みたいといった理由などからベトナムミャンマー(ビルマ)カンボジアの他、海の向こう側の日本(1274年/1281年)ジャワ島にも侵攻していくことになります。

王朝・幕府 年号
日本 鎌倉幕府 1274年/1281年
ベトナム (北)大越国・陳朝
(南)チャンパー
1257年/1281年/1284年/1287年
カンボジア
/ミャンマー
パガン朝 1277年/1283年/1287年
ジャワ島 クディリ王国/
マジャパヒト王国
1292-1293年

日本への襲来は「元寇」や「蒙古襲来」(文永の役/弘安の役)などと呼ばれ、鎌倉幕府衰退のきっかけになりました。ベトナム遠征は一時的に服属もありましたが、海上からの補給が続かずに最終的に撤退。

ジャワ島では元軍に協力した後にマジャパヒト王国を建てる人物を中心とした勢力が、元によってクディリ王国(シンガサリ朝の内紛でクディリが再興)が倒された後に元を裏切って島から追い出しました。元軍の侵攻を勢力拡大のきっかけにしています。

以上のように、いずれも失敗に終わったのでした。

 

逆に完全に服属状態にされたのがパガン朝。モンゴルの侵攻後(年代には諸説あるが)既に仏教への過剰な保護で衰退した中での侵攻だったため滅亡も早まりました。

 

フビライの晩年

フビライ政権が長期化し中央政権では派閥争いが発生。更にハイドゥの乱は未だに続いているどころかモンゴル高原への攻撃が激化し元軍は敗北を重ねます。

外征を支えるために整備していた財政も内患から悪化の一途を辿りました。こうした事情から3度目の日本への遠征計画を計画倒れに終わっています。

 

更に元では混乱に繋がる事態が...

フビライ亡き後は派閥争いの一角を担っていた皇太子が政府の中心に残るかと思われたのですが、フビライが亡くなる前に皇太子が病死。その後、1294年にフビライ=ハンが亡くなります。

結局、皇位継承に関する制度が確立しないままクリルタイで後継者を決定する習慣のままだったため、その後も一族や重臣の間で権力闘争は残り続けることとなっています。

 

 

 

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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