13世紀頃のモンゴル帝国【チンギス=ハン~モンケ=ハンによる統治】
世界史上、大英帝国についで二番目に大きな領土を持った大帝国がモンゴル帝国。今回は金や南宋、西夏のあった時代にモンゴル高原で台頭し始めたモンゴル帝国についてまとめていきます。
なお、モンゴル帝国は13世紀に大きな変革が起きています。西ヨーロッパでは十字軍が終わり落ち着きを取り戻そうとしている時期です。
13世紀以前のモンゴル事情
モンゴルという部族の名前が歴史上はじめて登場するのは7世紀。大興安嶺山脈の北側のアルグン川渓谷と呼ばれる場所に住み、トルコ系の突厥に従属していました。
11世紀になると同地域の支配者が契丹族の建てた遼に代わります。この頃のモンゴル族は一部族から遼に朝貢する一つの国にまで成長、モンゴル高原の辺りに落ち着いていました。
やがて遼の一部から金が台頭してくると今度は金に朝貢するようになっています。
その際、モンゴル(←帝国ではない)の初代ハーンによる金の皇帝に対する酔った席での不敬な行動(皇帝は許したが廷臣が赦さなかった)が元で微妙な関係になりはじめた他、モンゴル系の別部族・タタールとの抗争も重なって2代目となったハーンが金に処刑されてしまいます。
この仇を討つために金朝に攻め込み完全に両者の仲は悪くなったわけですが、大きな力を持つ金朝相手にモンゴルは戦い続けました。そのうちハーンとなった一人が(敵対しているタタールとは別のモンゴル系)部族をまとめ上げるも志半ばで亡くなると、いよいよチンギス=ハンの時代となっていくのでした。
モンゴル帝国建国以前の周辺地図
モンゴル帝国が強大化する前の12世紀頃の地図が下になります。
華北は女真族の金に支配され、華北から金によって追い出された北宋は皇族が江南に逃れ新たに南宋を建国して存続。西夏や吐蕃が金に隣接するなど、多くの国が併存しているのが分かります。
チンギス=ハン以前から上の地図にある大きな国・金と戦っていたわけですね。
チンギス=ハンによるモンゴル帝国の成立
13世紀にモンゴル帝国を作ったのはチンギス=ハンですが、どんな人だったのかどんな統治をしていったのかを見ていこうと思います。
チンギス=ハンってどんな人?
モンゴル帝国の前身「あまねきモンゴル」初代ハーンの孫でイェスゲイ・バアトル(バァトルは称号で勇者を意味する)の長男として生まれテムジンと名付けられます。
元々モンゴル高原のエリアは過去に匈奴や鮮卑、突厥といった非常に強い国々が生まれることになった場所。ウイグルがキルギスに攻撃されバラバラになった後は長く群雄割拠になっていました。群雄割拠が続いた理由には「モンゴル高原を制覇した者が広大な遊牧民国家を築く」ような形が出来上がっていたため、近隣の金(過去には遼)などが干渉していたという説もあるようです。
あまねきモンゴルは群雄割拠の一国であり、テムジンの血縁がハーンを出した名門ではありますがあくまで傍流でした。
そんな家の出のテムジンは若い頃に父が毒殺され父の勢力が瓦解。テムジンの存在を危険視した敵対勢力に捕らえられたりしながらも家族の元に戻り、以前からの婚約者と結婚したのですが...
この婚約者がバイカル湖の南あたりの部族に攫われてしまいます。
誘拐されている時に出来たとされる子がジュチ。
長男で人望もあり活躍もしましたが「ジュチ」が「お客さん」の意味を持つように父親がテムジンなのか怪しく、すぐ下の弟チャガタイとの仲は最悪でした。
妻を取り返すのに他の部族と同盟を組み、救出に成功。この辺りから周囲の助けも得て勢力をどんどん盛り返していくと優れた指導者として一目置かれるようになり、瓦解する以前に父に仕えた戦士たちも集結しました。
ところが、勢力を拡大するにつれて今度は妻を助ける際に協力してくれた相手が敵対。この戦いでテムジンは負けたとされますが、相手の残虐な振る舞いを見て逆にテムジンの元につく部族が増える結果となりました。
やがて因縁のタタールも破ると、その周辺地域も攻め込みモンゴル高原の覇権を確立しています。
1206年には一族や功臣を集めた部族集会・クリルタイを開いてテムジンがハーンに即位。以後、チンギス=ハンと呼ばれ、モンゴル帝国が成立しました。
モンゴル帝国の統治
帝国となったモンゴル。旧来の部族制にかわり、支配下の遊牧民族を95の1000戸単位の集団に区分して編成。それを更に100戸、10戸の単位に分けてそれぞれ長を定める方式に変えています。
戦時には1000人の兵士を動員することが出来る千戸制と呼ばれる制度で、千戸の長には一族と功臣が任命。同時に功臣の子弟を集めた親衛軍(ケシク)を編成しました。これらが強力な軍事力の根幹となっています。
また、モンゴル的な分封制度に基づいて北方の遊牧地帯ではそれぞれ一族に土地を分封し、半独立の小王国を作らせることで支配する体制を築きました。
そして、これまでの華北に進出した国との違いをあげるとすると...北部にも財政的基盤を築けるように動きはじめた点。
華北も支配した遊牧民国家の遼や金では、二重統治体制の元で時間の経過とともに経済力の強い華北の発言権を抑えきれず国の中国化を招いて崩壊していきました。モンゴル帝国はそうした国と異なり、古来から東西交流のルートとなっていたモンゴル高原から始まるシルクロード・草原の道を抑えることで華北を抑えることに成功したのです。
チンギス=ハンが抑えた場所とは?
1209年には西夏を屈服させ、1218年には西遼の王位を奪っていた(本拠地が西遼の北側にあった)ナイマンを滅ぼし、1221年にはモンゴルの使節を殺害されたことを口実にイスラム新興国家ホラズムに対しても遠征を行い最終的(チンギス=ハン死後の1231年)には完全滅亡に追いやります。
こうしてモンゴル高原~カスピ海までのルートを完全に確保。
1227年には中央アジアへの遠征参加を拒んだことを理由に西夏を滅亡させ、東の金に侵攻しようか...という時に死没しました。
チンギス=ハンの後継者は結局誰になったの?
既に東西に非常に大きな国を作り上げていた中、偉大な初代ハーンが亡くなると後継者で揉めそうなのは何となく予想がつきます。
実際に生前の段階でチンギス=ハンは庶子を集めて次期ハーンに相応しいかを意見させる集まりを開いた際には、長男のジュチと次男のチャガタイが互いに「ハーンにはふさわしくない」と言い争いをしていました。
チャガタイは気性が激しく自他に対して厳格な性格だったと言われ、人望は正直ありません。チンギス=ハンが後継者に求めたのは一族の和を取りなせる人物だったため、後継者候補からは外れています。が、その一本気な性格を見込まれて法律の管理は任されていたようです。
逆にジュチは人望も功績も残した人物ではありましたが、出生に疑惑が残っていたため後継者争いでは不利に働きます。結局チンギス=ハンが亡くなる前にロシアの南辺りを攻め込んでいる真っ最中にジュチは病没したため、本人は後継者争いをすることはなくなっています。
最終的には三男のオゴタイがハーンに即位。前述した二人以外で最も有力な後継者は末子で人望も功績もあるトゥルイでしたが、次男のチャガタイがオゴタイを推したことが大きく影響した結果となりました。
2代目オゴタイによる帝国の拡大(在位1229~41年)
父の始めた征服事業をオゴタイ=ハンも継承しました。チンギス=ハンが亡くなる直前に向かおうとした金の攻略に乗り出します。
1234年には金の首都・抃京(べんけい・開封)を占領し、南宋と協力して滅亡させ、翌年にはモンゴル高原のオルコン川右岸のカラコルムを都城に定めました。
ちなみに内政面で重用したのは耶律楚材(1190~1244年)。『耶律』と言えば、かつての遼の王族。実際に彼もその出身で金王朝に仕えて中都を陥落させた時にチンギス=ハンに見いだされて文人官僚として仕えるようになりました。新しい税制の制定などで手腕を発揮しています。
さらに1235年にはチンギス=ハンの長男ジュチの子バトゥがチンギス=ハンの遺言とオゴタイ=ハンの命によりヨーロッパ遠征に乗り出します【バトゥの西征】。
キエフ公国が壊滅状態となり、ロシアの主要都市も次々に攻略しただけでなく1241年にはポーランド・ハンガリーの辺りにまで侵入。ワールシュタットの戦いでドイツ・ポーランド連合軍を破りハンガリーの首都ペストも攻略し、ヨーロッパを震撼させました。
が、この辺りの時期にオゴタイ=ハンが病死しバトゥの遠征軍はヴォルガ川河畔まで後退せざるを得なくなっています。
3代目は誰になったの??
1241年、オゴタイ=ハンの死により本来ハーンにつくと思われていた人物たちがオゴタイの皇后による政治工作で脱落。オゴタイと皇后の間の長男グユクが継ぐことに。
これに対し西征でモンゴル高原を離れていたバトゥは大反対。西征で行った酒宴の席でグユクとトラブルがあったとも言われています。
チンギス=ハンの頃に結びついていたチャガタイ+オゴタイの両家がこの時にも結託し、グユクは両家を自勢力に取り込もうとしたこともあってジュチ家のバトゥとは完全に決裂。
さらにオゴタイ=ハン亡き後の有力なハーン候補であったチンギス=ハンの末子・トゥルイの子モンケともグユクは対立することになったため、トゥルイ家とジュチ家は共同でオゴタイ・チャガタイ両家に対抗していきます。
そんな中でグユクが即位2年で死亡。
グユクの死にはバトゥによる暗殺説があるキナ臭いものでした。こうしてジュチ家とトゥルイ家で帝国の再建計画を立て、グユクの後をトゥルイ家のモンケが第4代皇帝として継いでいます。
モンケ=ハンの時代(在位1251~59年)
3代目の代で完全に皇室と皇族が分裂状態になったこと、宗教・文化の異なる他民族支配が難しく征服地の拡大に伴って支配体制の変革に迫られたことから、各王家の所領が中央から分離する方向に向かっていきます。
ジュチ家のバトゥはサライを都とするキプチャク=ハン国(=ジュチ=ウルス)を建国。
また、モンケが弟のフラグに西アジア(ジュチやバトゥが行った方向よりも南側のイスラム勢力圏)への遠征を命じると、1258年にはバグダードを攻略。アッバース朝を滅亡させてイル=ハン国を建国しています(フラグはエジプトのマルムーク朝にも侵攻しました)。
ただ完全に分裂していたわけではなく、限りなく独立性を持ちながらもモンゴル帝国を宗主国としており一体性を持っていたようです。
さらにモンケ=ハンの別の弟フビライが大理(雲南)、チベット、さらに長年抵抗してきた高麗も屈服させました。
これまでの家系図をまとめてみると、下のような図になります。ちなみに全員母親は正妻のボルテで、ハーン候補は彼女の息子に限定されていました。トゥルイは二人の間の末子です。
フビライ=ハンの登場(在位1260~94年)
あまりにも広大過ぎる支配領域と王朝内部のイザコザから中央から分離するようになり始めた時期にクリルタイでハーンに選ばれたのが日本ではチンギス=ハンと同じくらい有名なフビライ=ハンです。この時フビライは末弟と後継者争いを始めています。
この内紛をチャンスと見たのがオゴタイ=ハンの孫・ハイドゥ。
トゥルイ家と仲の悪かったチャガタイ家や、モンケがハーンとなる際に協力したキプチャク王家(ジュチ家)と関係を強化して中央アジアで挙兵しました【ハイドゥの乱】。
こうした内乱がありながらも更に外征に向かうフビライ=ハン。南宋への侵攻や鎌倉幕府の治めていた日本への元寇、新たな国号など盛り沢山なのでフビライ=ハン以降は別記事でまとめていこうと思います。
ちなみにチンギス=ハンの即位が1206年でフビライ=ハンの即位が1260年。今回書いた記事は50年ちょっとの間の出来事です。この短い期間で、これだけ圧倒的な力を見せたモンゴル帝国。当時攻め込まれた方は生きた心地しなかったんじゃないでしょうか(わざと怖がらせるよう情報操作して戦わずに手に入れた土地もあったようですが)。